-9 『体操着の戦士』
視界を塞いでいたカラーをめくると、僕の目の前にいた男子生徒がしかめっ面を浮かべて痛がっていました。彼の足下にはヤキュウて使っているボールが転がっています。
何事かと気づいたのは、直後にあげたその男子生徒の声によってです。
「てめぇ! クーナ!」
はっと僕が振り向くと、そこにはお嬢様の姿がありました。いつの間にか僕たちのところへやってきていたお嬢様は、手にバットを手に、不貞不貞しく立ち尽くしていたのです。
ボールがお嬢様の方から飛んできて、僕の目の前にいた男子生徒の体にぶつかったのだと理解するのに時間はいりませんでした。軽いボールなので傷は深くありませんが、はたかれたような痛みはしたことでしょう。
そのボールがぶつかった男子生徒は彼らのグループの中でもリーダー的な存在で、こめかみに傷跡のついた角刈りの生徒です。その粗暴の悪さは学校中でも有名で『荒くれのシュラン』と呼ばれています。
そんな彼――シュランは、鋭い目つきでお嬢様のことをにらみ返していました。しかしお嬢様は決してそれに臆しもせず、毅然とした顔つきで言います。
「あら、ごめんなさい。ボールがそっちにまで飛んでいっちゃったみたい」
あたかもふざけた調子で言うお嬢様ですが、それは嘘だと僕にもわかります。ここは少し離れた場所ですし、タイミングも良すぎますから。
それでもとぼけた様子でお嬢様はやってきていました。僕と、それを取り囲む男子生徒たちを見やり、何か一拍をおいてふうっとため息をつくと、お嬢様は肩をすくめました。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
「お嬢様……」
お嬢様はそっと僕に歩み寄り、優しく頭をなでてきました。そうしてぽんぽんと軽く叩いた後、微笑をこぼし、そうして僕の前に立ちふさがるように入ってきたのでした。
突然やってきた彼女に他の男子生徒達は面食った顔をしていました。お嬢様は貴族という立場です。お嬢様自身はともかく、家が持つ影響力は小さくありません。
簡単に強気に出るにはまずいと思っているのでしょう。リーダーであるシュランの反応を待って様子見しているようです。
そんな彼らにお嬢様は問いました。
「あんたたち。私の可愛い従者になにをしてるのかしら?」
「別に。なにもしてねえよ。俺たちが休んでたら勝手にそいつがきて喧嘩を売ってきたんだ」
答えたのはシュランです。
「エリーが?」
「ああ、そうさ。俺たちは何も悪くねえぜ」
「あら、そう」
お嬢様が僕の方へと振り返ってきました。
僕は彼女の顔を直視できず、思わず顔を伏せてしまいます。
なさけなくて、みっともない気持ちでした。
「もうちょっとちゃんと躾てろよ。むやみやたらと他人に噛みつくのは良くないぜ。急に他人に噛みついてくるなんて、屋敷で最低限の礼儀すらも学ばせないのか?」
ここぞとばかりに言いたい放題です。ですが僕は言い返すことができませんでした。
暴言を吐いていたのは彼らですが、実際に喧嘩を売りに絡んだのは確かに僕の方からです。そんなつもりはなかったとはいえ、お嬢様への悪態に衝動が抑えきれなかったせいです。
「……わかったわ。ちゃんと教育しとく」
「ああ。頼んだぜ、ほんと」
下手に出たお嬢様に気が大きくなったのか、シュランは肩をすくめて鼻で笑い飛ばしてきました。
そんなことにお嬢様を巻き込んでしまった事実に、僕はただただ後悔の念を抱きました。
僕が咎められても仕方ありません。
けれどそんな消沈した僕とは正反対という風にお嬢様はにっこりと笑みました。
そうしてまたシュランへと振り返ると、やはり奇妙なくらいの笑みを浮かべながら、
「でもその前に、お礼をしなくちゃね」
「……は?」
「かわいいうちの子を虐めてくれた『お礼』を、ね」
言うとお嬢様は手に持っていたバットを振りかぶり、迷うことなくシュランに向けて振り下ろしました。
決して重たくはない木製のバットです。しかしか弱いお嬢様とはいえ高速で振り下ろされたそれに、虚を突かれたシュランは短い悲鳴を上げて咄嗟に頭を庇いました。驚きのあまりに後ろにのけぞり、倒れ込みます。
「シュラン!」と他の生徒たちが慌てて声をかけますが、お嬢様はそんな彼らにもバットを振り回し、近づけさせようとしません。しまいには地面に倒れ込んだシュランに馬乗りになり、彼の顎先にバットを突きつけました。
乱れた白髪がシュランの顔を覆います。被さったお嬢様の顔を見て、シュランは口許をひきつらせながら怯えた表情を浮かべていました。
それほどの形相だったのでしょうか。僕からは見えませんでした。しかし今にも何度と殴りかかろうかという気迫を感じました。
「いいかしら。私のことを好き勝手言うのは構わないわ。それにうちの子が無駄に絡んだのが原因なのも謝る。けれど暴力に走るというのなら、私だって徹底的にやりかえしてやるわ」
凄んだ声で言ったお嬢様はそうしてシュランの顎先からバットを引き、
「温室で育った花が誰にでも無毒であるとは思わないことね。花にはトゲだってあるものよ」
そう言って、お嬢様はくすりと笑みをこぼしました。
「……このっ。生意気やりやがって! お前ら、そいつをどけろ!」
「お、おう」
馬乗りにされたままのシュランが他の生徒たちをけしかけます。最初はお嬢様が女子であることも含めてためらっていた彼らですが、シュランの覇気のこもった声に促され、お嬢様の腕などを掴んで引き離そうとしてきました。
さすがに非力で軽いお嬢様です。
そのせいであっさりとシュランから引きはがされ、投げ飛ばされるように地面に倒れ込みました。
「お嬢様っ!」
思わず漏らした僕の声に応えるようにお嬢様はすぐ立ち上がりました。そうしてたくましくバットを構えます。
自由になったシュランが土を払って起きあがりました。そんな彼の周りに他の男子生徒も集まります。
「お前一人で俺たちに勝てるわけないくせに出しゃばりやがって。貴族だからって忖度されると思ったか、このクソ女が」
たった一人のお嬢様と男子数人。
力の差など考えるまでもなく歴然です。
完全に彼らの怒りを買ってしまい、もはや止められる状況ではありませんでした。
それからは、シュランや他の男子生徒がお嬢様へと一斉に襲いかかり、取っ組み合いの喧嘩となったのでした。
お嬢様はバットや腕で防ぐばかりで、もはやただの一方的な虐めのようでした。それでもお嬢様は悲鳴など上げず、気丈に堪えては、反撃しようとバットを振り回したり、男子生徒を押し退けたりと頑張っています。
そんな光景を、僕はただ足を竦ませて蚊帳の外で見ていることしかできませんでした。
「おい、お前たちなにしてるんだ!」
間もなくして騒ぎに気づいた体育教師がやってくるまで、お嬢様はまったく泣き言を漏らさずにあらがい続けていたのでした。