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 -5 『無自覚な僕の姫』

「とんだ目にあったわねえ。ごめんなさい。あの人はちょっと融通が利かないところがあってねえ。良い人なのだけれど」


 筋肉愛好会――もとい、戦士育成場からの勧誘から逃げたその夜。そのせいで一日中お嬢様と街中を歩き回ったことをバーのマスターに話すと、彼は申し訳なさそうに謝ってくれました。


 お嬢様はすっかりくたくたで帰宅し、シャワーを浴びるとすぐに眠ってしまいました。


 相当に疲れたのでしょう。

 あの防具屋を出てからもどういうわけか度々マスランディさんに出くわし、育成所への入門を迫られたりしました。それから逃げるのに必死で結局何も得られないまま終わってしまったのでした。


「ああ、もう。本当に無駄な一日だったわ。今日こそは戦士になれるように方法を見つけるわよ」


 翌朝に部屋までお越しにやってきた僕に、お嬢様は眠そうな顔をしたまま開口一番にそう呟いていました。


 ――今回は一晩経っても終わらなかったですか。


 お嬢様の『なりたい病』は早ければその日のうちに収まるのですが、今日はちょっと長いようです。けれども昨日ほどの熱は残っていないようでした。


 その原因は、


「いたたっ。なんだか足が痛いわ。あと背中も」

「筋肉痛ですかね。昨日は重たい鎧も持ちましたし、いっぱい動き回りましたし」


 普段運動をしないお嬢様からすれば大したものです。一般人からすれば適度な運動かもしれませんが。


 寝間着のままベッドから出たお嬢様は、あくび交じりに体を伸ばして、筋肉痛の背中の痛みに軽い悲鳴を上げていました。


 そんなお嬢様を微笑ましく眺めつつ、僕は朝の紅茶の準備をします。


 朝にお出しする紅茶は、とても香りが高く鼻に抜けるようなものを選んでいます。寝起きにはぴったりです。お嬢様は甘めが好きなのでそこにちょっとお砂糖も。


 僕が机に紅茶を用意し終えたのとほぼ同時に、お嬢様もロボットのようにぎこちない動きで体の痛みを訴えながら椅子に座りました。


「ありがとう、エリン。やっぱり朝はこれに限るわね」


 そう言って喜んで口をつけてもらえるのが、僕の毎朝のひそかな楽しみでもあります。僕のお仕事の始まりは、朝早くに寮からこのお屋敷にきて、庭先の掃除を済ませ、それから厨房で紅茶の準備をするのが日課なのです。


 お嬢様にとっても、僕にとっても不可欠な毎日の光景です。

 温かい紅茶を口に膨らませてほんのり目元を落ち着かせるお嬢様を見るのは、僕のとても幸せな時間でした。


 このまま何十分とこの時間を堪能しても悪くはありませんが、今日はそうはいきません。


「お嬢様。朝食の用意ができてますよ」

「もうちょっとゆっくりさせてちょうだい」

「寝起きで調子が出ないのはわかりますが、今日はいつもみたいに二度寝して良い日ではないのですから」


 僕に言われ、はっ、とお嬢様は目を見開きました。

 深く考えるように顎に手を当て、僕に顔を向けて尋ねてきます。


「今日ってあの日だっけ?」と。


「ええ、そうですよ。早く支度を始めないと」

「うう……わかったわよ」


 カップを名残惜しそうに置き、お嬢様は目じりにたまった涙をぬぐって立ち上がりました。そうして僕が差しだしたタオルで顔を拭うと、お屋敷の居間で朝食を食べ、着替えを始めます。


 もちろんお嬢様が着替えている間は、男の僕は外で待っています。けれどたまに、シャツに腕を通しながら椅子に腰かけて二度寝してしまうこともあるので注意が必要です。頃合いを見計らって何度か声をかけなければいけません。


「お嬢様。着替えおわりましたか」

「ええ」


 しばらくしてお嬢様の返事をきたので、僕ももう一度部屋に入ります。


 そこには朝日の差しこむ窓を背に、いつもの洋服とは違う学校の制服を羽織ったお嬢様の姿がありました。スタイルのいいお嬢様のシルエットがお部屋の中に浮かび上がり、僕は見とれたように息をのんでしまいます。これはもう、いつものことです。


「ではお嬢様、お鞄を」


 僕がそう言って鞄を差し出すと、お嬢様は制服の襟をぴしりと正し、凛と顔を引き締めます。


「それじゃあ行きましょうか。学校に」

「はい」


 そうです。

 今日はお嬢様が学校に顔を出す登校日なのです。


「エリンも早く用意しなさいよ」

「あ、はい。僕はもう着替えるだけですので」

「じゃあすぐに着替えなさい。貴方も一緒に学校に行くのだから制服に着替えなきゃダメでしょ。いますぐ。ここで着替えていいから」

「いや、あの。ここで着替えるのはちょっと……」


 僕だって年頃の男の子です。

 いくら雇い主とはいえ、同年代の異性の前というのは抵抗があります。


 それになにより、ただ着替えを異性に見られて恥ずかしいとかそういう訳ではなく。


「せめて着替えるところだけは勘弁してください、お嬢様……」


 そうお願いする理由が僕にはあるのです。


 いつもお側に仕えていたい僕ですが、この時だけは、お嬢様の目には決して触れたくはないと思うのでした。


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