8 キュベレー
夕暮れ、すでに参拝者がいなくなった神殿をサドリは見上げた。
白い柱に囲まれた神殿は、燃えるような赤さに染まっている。見上げれば、美しすぎる夕焼け空に黒い雲が浮かんでいる。嵐の前兆だ。
一歩踏み出した時、ヒューリに殴られた左頬が痛んだ。
「あの愚か者。本気で力を込めましたね」
口では興味がないようなことを言いながら、ヒューリはツァイのことを最優先させる。
「ヒューリはもう、リリのことなど覚えていないんでしょうね」
サドリがまだ少年だった頃、学校で熱を出すことが多かった。迎えに来てくれたのは、いつも姉のリリだった。
元々面倒見のいいヒューリは、学校が終わってからサドリの家にカバンを持ってきてくれた。
小脇に抱える形のカバンは巻物状の教科書や蜜蝋を流した蝋板や鉄筆で重く、サドリを支えて歩くリリでは持って帰ることができなかった。
ヒューリは年の割に体格も良く、大人びていたから。リリの方が年上だったけれど、ヒューリが来るたびに姉は頬を染めていた。普段よりも少し高くなる声。
ああ、リリはヒューリのことが好きなんだな、とすぐに分かった。
ただヒューリは鈍感だから、自分がリリに好かれているなんて、まったく気づきはしなかっただろう。
「リリ。あなたの恋心は報われることはないんですよ」
だからもう、諦めてほしい。
感傷に耽っていると、突然扉がノックされた。
「サドリ司祭。いらっしゃいますか?」
「なんですか。騒々しい」
扉を開くと、廊下には巫女が立っていた。怯えているのか顔は青い。
どうせ象が、長い鼻で脅かしてきたとでもいうのだろう。くだらない。
宵も近いので、サドリは肩から掛け布をはおって外へ出た。だが巫女に連れられて行ったのは、庭ではなく神殿だった。
「女神が……キュベレーさまが、司祭にお話があると。神託かもしれません。ツァイさまをお呼びした方がいいでしょうか」
「神託? まさか」
とっさに出た言葉に、巫女が怪訝そうな表情浮かべる。恐らく彼女は誤解しているのだろう。キュベレーの神託を受けるのは聖女であり、司祭ではないと。
だが、サドリはキュベレーに神託を授けるほどの力がないことを知っている。
聖女が流した血は、器に集められ女神に捧げられる。その血をもっと、もっとと求めるほどに、女神の力は衰退しているのだ。
理由は単純だ。キュベレー信仰が野蛮であるとみなされ、信者が減ったこと。そして信仰心が篤いとされる者も、結局はただ狂乱状態で残酷さを楽しんでいるだけだからだ。
信仰心がなくなれば、神はその姿を保てなくなる。
「私が行こう。君は来なくていい」
「は、はい」
黒く長い袖をひるがえして、サドリは神殿へと向かった。壁際に点々と蝋燭がともる神殿内は薄暗く、その奥にある部屋へと向かう。
「サドリです。ご用があると伺いました」
「おお、おお。サドリか」
扉越しに声をかけると、轟くような声が聞こえた。
ああ、まだキュベレーは存在しているのだと実感する。
「入ってもよろしいでしょうか」
「ふっ。そなたも甘え癖が治らぬの。よかろう。入るがよい」
感謝の言葉を述べると、サドリは扉の把手に手をかけた。軋む音を立てて、扉が開く。
澱んだ空気のにおい。よその神殿がどうであるかは知らないが、キュベレーには常に血のにおいがつきまとう。
「お話があると伺いましたが」
紗の薄布の向こうに座る女神の前で、ひざまずく。
うっすらと見える女神の姿は、細身のサドリよりも小さい。
「象をな。狩るがよい」
「象……ですか? なにゆえに」
庭に居座り続ける象を思い描く。巫女たちが嬉しそうに果物をやっていたが。
象はマグナ・マテルの使いの動物でもあるし、キュベレーはそれが気に食わないのだろうか。
確かに獣臭い独特のにおいはするが。
だが、この部屋にこもったにおいに比べれば、随分とましだ。
「象牙をな。集めるとよいと思う」
「象の牙など、何にお使いになるのですか」
「ふむ。東の国には象牙に緻密な彫りを施した像があるというではないか。古き神話の時代の我、地上に降臨した我、今の美しき姿の我。題材には事欠かんであろう?」
思わず鼻で笑いそうになって、サドリは慌てて咳払いで誤魔化した。
女神とは、こういうものだったろうか。いにしえの時代のキュベレーは偉大な存在であったというが。今の彼女は、自己承認欲求が肥大した、ただの女に思える。
ふと、床に赤黒いものが落ちているのに、サドリは気付いた。
拾おうとして、しゃがんで手を伸ばした時、薄布の下からキュベレーが足をのばした。素足に革のサンダルの足が、サドリの手を踏みつける。
いつの間にか椅子から立ち上がっていたキュベレーが、紗の布越しにサドリを見下ろしている。
「触れるな」
「……申し訳、ございません」
キュベレーが足に力を込めるから、サドリは指がぎりぎりと痛んだ。
彼女が、拾い上げた物に頬ずりした。表情までは分からないが、うっとりとした様子は伝わってくる。
それはすでに色褪せてはいるが、血に染まった手袋だった。
「なんじゃ? 物言いたそうだが。申してみぃ」
「いえ」
何を言えというのだろう。司祭でしかない自分が、女神に意見することなど許されるはずもない。
「遠慮はいらぬぞ。そうじゃ、抱きしめてやろうかの。昔のように」
くっくっく、とキュベレーが笑う。
(あなたが抱きしめたいのは、私ではないはずだ)
サドリは、辞しても良いとキュベレーが告げるのをただ待ち続けた。




