12 手当て
ヒューリは自室で椅子に座り、サドリに背中を向けていた。
久しぶりの祭儀は、さすがにきつい。ヒューリは、鞭打たれて裂けた背中の痛みに奥歯を噛みしめた。
しかもキュベレーはさらなる血を求めるから、手や腕もナイフで切りつけた。
「無茶なことを」
サドリが手当てをしてくれるが、その傷を負わせた張本人というのが滑稽だ。
「そう言うなら、ちょっとは手加減しろよ」
「無理です。キュベレーを怒らせてしまいますから」
それもそうか。
サドリは、ツァイを苦しめる憎い存在ではあるが。見方を変えれば職務に忠実ともいえる。
「昔もそうだったが、なんで俺が身代わりでも、キュベレーは不満に思わないんだろうな。血を捧げるのが誰でもいいのなら、別にツァイさまが聖女でなければならない理由もない」
「……誰でもいいわけではありませんよ」
瞼を伏せ、サドリはためらいがちに答えた。
「でも、俺だぜ? 聖女じゃねぇし、そもそも性別すら違う」
「それよりも、いつまでもこんなことは続けられませんよ。聖女の身代わりなど、ツァイさまが認めないでしょうに」
強引と思えるほどに、サドリが話を変えた。肩ごしに彼の顔を見ると、なぜか今にも泣きそうな顔をしている。
「おいおい、どうしたんだよ」
「痛いんですよ」
「……痛いのは俺だぞ?」
「知ってます。分かっています。承知しています。申し訳ないと思っています。ですが……せめて女神の願いを叶えてさしあげたいとも思うんです」
訳が分からない。ヒューリは首を傾げた。
しかし、自分が聖女の身代わりとなっていることをツァイに知られれば、彼女は怒るだろう。
かといって正直に話したところで、理解してもらえるはずもない。
「真実を隠して危険から遠ざけるなんて、利口なやり方ではないし、間違っている。だが本当のことを教えれば、ツァイさまは自分を犠牲にする。サドリ。お前は彼女の傷の手当てをしないから、祭儀の後の痛みに耐える姿を知らないから……女神の望みとか言いだすんだろ」
「私は司祭です。一番に考えることは、女神のことのみです」
「……互いに仕える相手が違うってことなら、しょうがないな」
サドリは消毒用の薬草を潰し、その汁を浸した布をヒューリの背中に置く。その上から包帯を巻いていく。
ヒューリほど手慣れておらず、ぎこちない手当の仕方だ。
すぐに包帯がゆるんでずれるのか、サドリは何度も巻きなおしている。
自分でやった方が、早いのではなかろうか。
「思うんです。ツァイさまも交えて、これからのことを話しあうべきだと」
「お前、さっきは女神が大事と言っていたじゃないか」
ヒューリの言葉に、サドリはふいに手を止めた。包帯の端を結ばぬままに、まるで時が止まったかのように動かない。
包帯は次第にほどけ、床に落ちていった。
「廃れゆく神を、無理に信仰する必要はないのです」
「キュベレーのことか?」
「もう彼女を解放してあげたいのですよ」
「どういうことだよ、それ」
サドリは包帯を巻きなおすと、室内に視線を走らせた。
ヒューリの部屋には巻物が積み上げられ、聖女が祭儀で着用する衣装や、装飾品が掛けられている。
中に一つだけ、淡い紅色の紐で結ばれた巻物があり、それに目をつけられやしないかと、ヒューリは案じた。
「少し片付けてはいかがですか? 部屋の広さに対して、空間が狭すぎます」
こいつ、話をすり替えやがった。
「なぜ私室を衣装部屋にしているのですか? ちゃんと専用の部屋があるはずです」
「ああ、空が青いなぁ」
今度はヒューリが話を逸らした。
◇◇◇
嵐の夜から数日が過ぎたのに、ヒューリはまったくツァイの元を訪れてはくれない。
あの苦くて渋くてえぐみがあって、舌にまとわりつく甘さの薬湯は、毎日届けられているのだが。
侍女に尋ねても「お忙しいのですよ」と、はぐらかされてしまう。
こういうのは嫌いだ。自分だけが関与できないなんて、耐えられない。
『こんな夜に着付け師の部屋に行くのは、感心せぬな』
『そーよ、そーよ。襲われちゃったら、どうするの?』
「それは、ないわよ」
騒ぎ立てる双子の剣を、ツァイはなだめた。
『ねぇねぇ、ツァイ。象さんどうしてるかな。巫女、何か言ってなかった? あたしたちの神殿に見に行ってくれないかなぁ』
「庭に象がいなくて寂しいっていうのは、侍女が言っていたけど」
『そ、そうよね。ほらー、みんな象さんがいなくて寂しいんじゃん』
『やれやれ、子どもっぽいの。シトリンは』
呆れたような口調のアメシストだが、ツァイは覚えている。
もっと窓の近くに剣を立てろとか、たまには我らを持って庭に出ろとか、アメシストが命じていたことを
嵐が来なければ、今もきっとこの神殿の庭に象を置いておきたかったことだろう。
ツァイは自室を出て、ヒューリの部屋へ向かった。
すでに日は落ちているから、手燭を持って長い廊下を歩く。
ヒューリの部屋を訪れるのなんて、何年ぶりだろうか。
幼い頃、風の音が怖くて夜に何度かヒューリの部屋に行ったことがあったけれど。一度も中に入れてもらったことはない。
怖いのならと、ツァイの部屋に来てくれて、風が止むまで寝ないで付き添ってくれた。もちろん、ツァイは知らぬ間に寝てしまっていたが。
暗い廊下をツァイの部屋まで送る時も、ヒューリは決して手をつないではくれなかったのだから。この間の穀物庫の中でのことは、本当にびっくりした。
びっくりして、思い出すたびに口から心臓が飛び出しそうだ。
深い海から上がってきたという魚が、口から浮袋を出しているみたいに。
(ちょっと恐ろしい想像になったわ)
長くて暗い廊下が、水底を思わせるのかもしれない。
ヒューリの部屋の扉をノックしようとして、ツァイはためらった。
説明を求めて来たけれど、説明できないこともあるのではないだろうか。
だとしたら、ただヒューリに迷惑をかけるだけになってしまう。
「誰だ」
突然、扉が開いた。勢いよく。
避ける間もなく、ツァイは鼻を打ってしまった。
「いた……いたたっ」
「ツァイさま。どうなさったのですか」
鈍く痛む鼻を押さえて、ツァイはうつむいた。ツァイから手燭を受け取り、いったん室内に戻ったヒューリは、手袋をはめて再び出てきた。
「ご用があれば侍女に申し付けてくだされば」
「用はないの。ただ、会いたかったの、ヒューリに」
「ツァイさま」
見上げると、ヒューリは困ったように眉を下げていた。やはり訪れては迷惑だったのかと、ツァイは一歩退いた。
その時、ヒューリの手がツァイの手首を掴んだ。気が付いた時には、彼の腕の中に閉じ込められていた。
強い力で抱きしめられて、苦しいほどだ。
けれどヒューリはその腕を解こうとはしない。
「お会いしたかった」
手袋に包まれた指が、ツァイの前髪に触れ、ひたいを撫でる。その手つきに、うっとりと瞼を閉じてしまいそうだ。
気づけば、ツァイはヒューリの部屋の中に入っていた。
「ツァイさま……」
心を痺れさせる甘くて低いヒューリの声に、ツァイは背伸びをしてヒューリの耳元に唇を寄せた。
「もっと声を聞かせて」
「ですが……」
戸惑ったように揺れる琥珀の瞳が愛しい。
嵐で閉じ込められた時とは違い、彼は言葉づかいも丁寧だ。
「ヒューリの声が好きなの。ううん、何もかも全部好きなの」
ヒューリはしゃがみこんで、ツァイの肩に顔を埋めた。
少し伸びかけた金色のひげが見える。ツァイは、彼の頬にそっとくちづけた。
肩がしだいに熱くなる。どうしたのかと見れば、ヒューリの耳が真っ赤に染まっていた。
「ヒューリ。熱があるわ」
「な、ないです。平気ですから」
「侍女に言って、薬湯を作らせます」
「……どうか、それだけは」
間近にあるヒューリの顔を見ると、苦しそうに眉を寄せている。
よほど苦くて渋くてえぐみがあって、甘ったるい薬湯が苦手なのだろう。
「こうしていれば、治りますから」
「本当に?」
「……はい」
ヒューリはただ静かにツァイを抱きしめ続けた。
その時、消毒薬のにおいが鼻をついた。




