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月の下、見えない茜色の影  作者: 柊夕
物語の始まりは、いつも微かな奇跡だった
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3/15

雨の日、霧に包まれたのは誰?

澪ちゃん かわいいね

「Aoi」:申し訳ありません。台風の影響で、そちらへ伺う予定が少し遅れそうです。事前に準備を進めたいので、ご依頼の詳細を伺ってもよろしいでしょうか?


「坂井」:大丈夫ですよ、お気になさらず。こちらの説明不足でしたね。実は、二ヶ月後くらいにお越しいただければと思ってのご依頼なんです。今出発されていたら、かえってすれ違うところでした。こちらこそ、医者をしておりまして少々慌ただしく、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。


「Aoi」:それなら良かったです。日程が決まりましたら、いつでもご連絡ください。


「坂井」:わかりました。寝泊まりの心配はいりませんよ。私の実家ですし、両親も健在で、すでに話は通してありますから。依頼の詳しい内容については、一言二言では説明しづらいのですが……。ただ、事前に準備していただくものも特にありませんので、ご安心ください。


「Aoi」:ありがとうございます、お手数をおかけします。それでは、ご連絡をお待ちしております。


「坂井」:こちらこそ、ご依頼を引き受けてくださり感謝しています。……差し支えなければお聞きしたいのですが、あなたは葵さんでしょうか?


「Aoi」:いえ、私は息子のほうです。今は一時的に母の仕事を引き継いでいまして。


「坂井」:そうですか。葵さんには以前こちらに来ていただいたことがあり、当時、幸運にもお会いできたんですよ。優しくて知的なお姉さんで、当時はすっかり見惚れてしまったものです。


 二、三言ほど挨拶を交わし、坂井先生とのやり取りを終えた。少しの間ぼーっとした後、パソコンの横で丸くなっている夕を撫で、画面をパタンと閉じる。

 台風警報のせいで、本来なら出発するはずだった予定日を過ぎても、俺はここに足止めを食らっていた。親切な大家のおばあちゃんは、台風が通り過ぎるまで無料で何日か泊まっていいと言ってくれている。

「坂井さんの依頼は二ヶ月後か……。となると、当面の間は……」

 部屋の中でしばらく手持ち無沙汰に過ごした後、再び机に向かってパソコンを開いた。実はもう一件、依頼が届いていたのだ。ただ、その依頼はたった一言しか書かれていなかった。その後、何度か連絡を試みたものの繋がらず、諦めかけていたものだ。


『お名前を入力してください』:村の古い野外舞台がもうすぐ取り壊されるんです。最後に一枚、写真を撮ってもらえませんか? 場所はこちらです――


 住所はここからすぐ近く、陽原町の端にあるのどかな田舎町だった。ぽっかりと空いた二ヶ月という時間、この依頼を片付けるにはちょうどいい。これは俺に、ここに滞在するための正当な理由を与えてくれたということだろうか。

 どんよりとした空模様と、激しさを増していく風を窓越しに眺めながら、俺はふとあの夜のことを思い出していた。


 ――巡。アンタはこれから旅を続けるの?それとも――もうしばらく、ここに滞在する?


 あの夜、澪の息を呑むほど美しい姿は、今も鮮明に俺の脳裏に焼き付いている。俺一人のために舞い踊り、その後に彼女が求めた見返りが、あの問いかけだった。答えを――澪が心の中で望んでいた答えを、俺は多分わかってる。

 俺の旅の目的は姉貴を探すことだ。だから、目下の依頼がなければしばらく滞在し、新しい依頼があればまた旅に出る。いつもそうだった。だが今回、あの夜に澪の瞳を見つめたとき、俺はその言葉を口にすることができなかった。

「あ、急いで買い出しに行かないと。台風の予報を見る限り、ここ数日は一歩も外に出られないかもしれないしな」

 念のためレインコートを着て傘を手に持ち、コンビニへと向かう。通りを行き交う人々は誰もが足早で、一刻も早く家に帰ろうとしているように見えた。その切迫した空気に当てられ、俺も無意識のうちに歩調が速くなる。

 コンビニの入り口で、ちょうど買い物を終えた梨衣と出くわした。

「今川さん、バイト終わりか?」

「あ、天野くんじゃん。買い物? ううん、正人さんが隣町に出張中なんだよね。そのおかげで今は有給休暇を満喫中。ふふん」

「羨ましい話だな」

「でも、台風のせいで今日は戻って来られないみたい」

 ゴーゴーと風の唸る音が絶え間なく響き、大雨が降り出すのも時間の問題のようだった。梨衣と手短に別れの挨拶を交わすと、俺も急いで食料を買い込んだ。運が良いことに、家に帰り着いてからようやく雨が降り始めた。

 あっという間に外は真っ暗になり、吹き荒れる風が窓をガタガタと激しく揺らす。大地を叩きつけるような豪雨の音は、他のすべての音を掻き消していた。俺は、自分がここに残ったことを心から幸運に思い始めていた。

 軽く食事を済ませ、前の記事の結びについて考え始める。実は大体のプロットはできていたのだが、澪のあの問いかけのせいで、逆に行き詰まってしまったのだ。どう書けばいいのか分からず、俺は早々に筆を投げ出した。

 夕を抱きかかえながらベッドに寝転び、バラエティ番組を眺めて台風の夜をやり過ごす。外は嵐、家の中はぬくぬく――このシチュエーションは、いつだって最高に心地いい。

「それにしても、ひどい雨だな。窓の音がさっきから鳴りっぱなしだ」

 ゴロゴロゴロ――!

 地鳴りのような雷鳴が、テレビの音さえも完全に呑み込む。ベッドから起き上がって窓辺に寄ってみたが、激しい雨のせいで外の景色はまったく見えない。さらにもう一発、凄まじい落雷の音が響いた直後、視界が突如として暗転した。

「停電か?」

 スマホの微かな明かりを頼りに小さなデスクライトを取り出し、机の上に置く。淡い光が、机の片隅をぽつりと照らし出した。

 吹き荒れる嵐の夜、轟く雷鳴、停電、そして一台の小さな灯り――なんとも詩的なシチュエーションだ。

 そんな雰囲気の後押しもあって、前の記事の結びをいくらか書き進めることができた。時間はゆっくりと流れ、夜の八時半を回る。雨脚も雷も、一向に弱まる気配はなかった。

「そういえば今川が、正人さんは今日帰って来られないって言ってたな。ってことは、澪は一人で家にいるのか。停電だし、一言電話をかけて様子を聞いたほうがいいかもしれない」

 もっとも、かけたところで絶対にからかわれるのがオチだろうけど。

 しばらく葛藤した末に、俺は意を決して発信ボタンを押した。

 コール音が耳元で鳴り響く。だが、今回はかなり待たされた。いつもならすぐに繋がるのに。もしかして、もう寝てしまったのだろうか。

 ようやく、相手が電話に出た。しかし、何も声が聞こえてこない。

「もしもし、天野だけど。さっき停電しただろ? 神社の方は大丈夫かと思って電話してみたんだ。迷惑じゃなかったか?」

 繋がっているはずの受話器の向こうからは、相変わらず応答がない。

「……澪?」

 外の嵐の音と、電話の向こうの静寂が混ざり合い、奇妙なまでの不気味さを醸し出している。さらにしばらくして、ようやく微かな声が聞こえてきた。

「……来て」

「え? 来い……って? 澪、だよな? どうしたんだ?」

「早く……来て……」

「待て待て、今外がどんな状態か分かってるか? 行けるわけないだろ。どうした、何があったんだ?」

 電話は再び沈黙に包まれる。俺は息を詰め、澪の声を待った。

「……来てよ」

 ――泣き声。それは、震え、声を詰まらせる響きだった。

「澪、もしかして泣いてるのか?」

 微かなすすり泣きが、俺の問いへの答えだった。俺は慌てて椅子から飛び起き、レインコートと傘をひったくる。それと同時に、澪を落ち着かせるように声を張った。

「わかった。今すぐ行くから、ちゃんと家で待ってろ! 大丈夫だから、な? すぐ行く、いいな!」

 澪の消え入りそうな「うん」という声を耳にして、俺は通話を切った。すぐにレインコートに袖を通し、傘を握りしめて家を飛び出した。

 外の雨脚は想像を絶する凄まじさだった。一瞬にしてメガネのレンズが水滴で覆われて真っ白になり、視界を完全に奪われる。吹き荒れる暴風のせいで、どちらに歩こうとしても身体が持っていかれそうになる。傘など何の役にも立たず、あっという間に全身がずぶ濡れになった。

「くそっ! やっぱりまともに外を出歩ける天気じゃねえな!」

 俺は歯を食いしばり、持てるすべての力を振り絞って青羽神社への道を突き進んだ。普段なら大したことのない距離が、今はまるで命がけの遠征のようだ。一刻も早く辿り着きたい焦りとは裏腹に、途中で何度も何かに掴まって息を整えざるを得なかった。

 最後にこんなに必死になったのは、一体いつ以来だろうか。だが、今は必死にならざるを得ない。なぜなら――

 それが、今の俺がすべきことだ。

 どれほどの時間が経っただろうか、俺はようやく青羽神社に辿り着いた。案の定、ここも停電しており、境内は一寸先も見えない闇に包まれている。俺は記憶を頼りに、奥へと足を運んだ。

 本殿に近づいたその時、雨を突いて小さな人影がこちらに駆け寄ってきて、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。

「澪……?」

 確かに澪であることを確認した直後、彼女が薄手のパジャマ一枚しか身にまとっていないことに気づいた。

「バカ! なんでこんな雨の中に飛び出してきてんだよ!」

「……」

 思わず声を荒らげてしまった後、腕の中の少女が激しく震えていることに気づいた。途端に罪悪感が胸を突き刺し、俺は澪の身体をそっと抱き上げた。

「ごめん、大声出して……。澪、案内を頼めるか?」

 腕の中の少女に先導され、俺は彼女を抱えたまま自宅へと戻った。二人ともびしょ濡れだったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

 俺はソファを背にして床に座り込み、澪はその胸元に顔を埋めていた。

 部屋の壁に遮られ、嵐の音が少し遠のいたことで、澪のしゃくり上げる泣き声と、絶え間ない身体の震えがいっそう鮮明に伝わってくる。

 俺は彼女の背中を優しく叩きながら、できる限り穏やかな声を絞り出した。

「もう大丈夫だから。俺がここにいるよ。どうした? 停電が怖かったのか?」

「……雷が……雨が凄くて……。みんな、誰もいなくて……」

 ゴロゴロゴロ――!

 雷鳴が轟くと、澪はさらに強く俺にしがみついてきた。

 普段はあんなに人をからかってばかりいるくせに、今の彼女は怯えた小動物のようだった。

「大丈夫、俺がいる。澪、ひとまず身体を拭こう。このままだと風邪を引く」

「うん……」

 澪が顔を上げる。濡れた髪がおでこや頬に張り付いていた。怯えきった表情と、はっきりと残る涙の跡が、一つの事実を物語っている――澪、お前は一体どれだけの時間、一人で耐えていたんだ。

 事前に予知できるはずがないと分かっていても、家でのんきにテレビを観ていた自分を責めずにはいられなかった。もっと早く来ていればよかったのに、と。

 澪は俺の腕を掴み、浴室へと案内してくれた。

「タオル……」

「ありがと」

 澪からタオルを受け取り、俺も身体を拭き始める。着替えの服はないが、今は我慢するしかない。

「巡……」

「ん? どうした?」

「……後ろ、向いてて」

 澪は顔を朱に染めていた。濡れた服が肌にぴったりと張り付き、彼女のしなやかなボディラインを露骨に浮かび上がらせている。不意の光景に思わずむせ返り、慌てて部屋を出ようとした。

「待て……! ここにいて」

「さすがにそれはマズいだろ……」

「怖いの一……」

「……わ、分かったよ」

 俺はドアの方を向いて背を向け、背後で澪が身体を拭き始める。衣類が擦れる音に意識を持っていかれないよう、必死に外の雨音に耳を傾けた。

 しかしそれが裏目に出た。かえって、さっき外で澪が俺の胸に飛び込んできた瞬間の記憶が鮮明に蘇ってしまったのだ。当時はあまりに突然で必死だったため何も感じていなかったが、今思い返してみると……。

 何か……もの凄く温かくて柔らかいものが……押し当てられていたような。

 俺は震える手でメガネを外し、半ば視界を失うことで冷静さを取り戻そうとした。未体験の衝撃とは、これほどまでに凄まじいものなのか……!

 夕ちゃん……助けて……。

 着替えを終えた澪が、正人さんの古い服を持ってきてくれたので、それに着替えた。それから、彼女の部屋へと案内される。

 外の豪雨は少しずつ勢いを弱めつつあり、澪もさっきより随分と落ち着きを取り戻していた。今の彼女はベッドの上に座り、布団を抱え込みながら、恨めしそうな視線を俺に向けている。

「ど、どうしたんだよ?」

「満足した?」

「は?」

「こんな無様な私を見放題」

 俺は視線を逸らし、コホンと小さく咳払いをした。

 確かに今夜の澪は普段とはまるで別人のようだった。冷静になった今でも、どこかいつもと違う、儚げな空気を纏っている。

「もうお嫁にいけない――責任取ってよね……」

「おい、そういう誤解を招く言い方はやめろ! 俺は一応、人助けのために来たんだからな。この台風の中、嵐を突いて必死に走ってきたんだぞ」

 澪が黙り込んだので、俺は視線を戻した。彼女は布団をぎゅっと抱きしめ、顔の下半分を隠したまま、その瞳でじっと俺を見つめていた。

「うん、分かってる。ありがとう、巡。来てくれて」

「……」

「照れてるの?」

「別に。どういたしまして、って言おうとしただけだ」

 澪が手招きをするので、俺は彼女のベッドの縁に背を預けて床に座った。どうやら今夜は、こうして彼女に付き添うことになりそうだ。

「小さい頃ってさ、お父さんとケンカして、隣町まで家出しようとしたことがあったの。その日の夜も、今日みたいにひどい嵐で、廃工場か何かに一人で閉じ込められて帰れなくなっちゃって。本当に怖かった。あんなに怖い思いをしたのは、後にも先にもあの時だけ」

 澪はベッドの上に横たわり、指先で俺の髪を弄びながら続けた。

「それ以来、ずっと悪夢を見るようになって……だから今でも、こんな夜に一人きりでいるのが怖いの」

「そうだったのか……」

「巡、一緒に寝る?」

「バカ言え、さっさと寝ろ」

「じゃあ巡は? 行っちゃうの?」


 ――巡。アンタはこれから旅を続けるの?それとも――もうしばらく、ここに滞在する?


 俺は苦笑するしかなかった。

「行かないよ、安心しろ」

「やった!」

 まったく、こんなに弱っている時でさえ、つくづく調子の狂わされる奴だ。

「巡、おやすみ……」

 長い時間恐怖に怯え、パジャマ姿で雨の中に飛び出した疲労が押し寄せてきたのだろう。少し言葉を交わしただけで、澪はとろとろと眠気に襲われ始めた。

「おやすみ、澪」

 澪は俺の指をぎゅっと握りしめ、まるで安心を求める子供のように、深い眠りへと落ちていった。


 拝啓 天野 暁。

 前略。

 姉貴、台風だけど大丈夫か? まだ生きてる?

 俺は元気にしてる。大家のおばあちゃんが、台風が過ぎ去るまで無料で何日か泊めてくれるってさ。

 カナちゃんの巫女の夢をもっと助けてあげるため、わざわざまた取材に行ってきたんだぞ。今の記事はあと結びを書くだけ、これまでまた文句を言うなら、俺はもう実家に帰る。

 そういえば、うちと青羽家って知り合いだったのか? 正人さんはすごく良い人で、色々と面倒を見てもらってるんだ。姉貴と母さんのことは伝えておいた。正人さんは、この忙しい時期が落ち着いたら母さんに挨拶に行くって言ってたよ。

 今は二つの依頼を抱えてる。一つは、もうすぐ取り壊される古い野外舞台の写真撮影。もう一つは、坂井という医者からの依頼だけど、詳しい内容はまだ聞いてない。二ヶ月後くらいに来てほしいとだけ言われてる。

 そんなわけで、台風と古い舞台の依頼のおかげで、俺はもう少し陽原町に滞在することになりそうだ。姉貴もあんまり遠くに行くなよ。まったく、少しは大人しく俺を待てないのか。母さんの仕事を引き継ぐのは、やっぱり俺より姉貴の方が向いてると思う。これは本気だ。

 ひとまず、これが俺の近況報告かな。

 ちなみに、澪のこと。なんて言えばいいか分からないけど……まあ、そんな感じの知り合いができた、とだけ言っておく。

 母さんにもちゃんと手紙を書くから、心配しないで。

 敬具 天野 巡。

いよいよ、次のエピソードから依頼開始!

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