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気風の魔女─レディ・グレア─  作者: 智慧砂猫
第一部 レディ・グレアと始まりの旅
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第29話「触れてはならない」

 急ぐように立ち去った二人に何も言えないまま呆然と見送り、せっかくだからとケーキが届くのを待ってため息を吐く。マリオンがいてくれたら、こんなふうに寂しく感じなかったのだろうか? と。


「あっ。ローズさん、本を忘れてるじゃないか」


 せっかく買った本だが、シャルルに急かされたのもあって忘れてしまったのだろう、と手を伸ばす。その下に、もう一冊の本があった。


「うん? これ、さっきの……古そうな本だなあ」


 黒い本の表紙には金の刺繍でタイトルが書かれている。


「……『メギストスの封』。聞いたことないな」


 金色の刺繍を指でなぞり、目を細める。好奇心が胸の中に湧き、本の角に指を掛けてゆっくり開く。ほんの少しだけ申し訳ないと思いながらも、破ったり汚したりしないよう慎重に。──それが犯してはならない過ちだとも気付かず。


 瞬間、周囲のすべての時間が止まった気がした。いや、実際に止まったのかもしれない。ともかく、本を開いた瞬間にグレアの周囲から淡く輝く紫煙がぶわっと広がり、彼女自身もはっきりと理解できないまま、店内のわずかな喧騒が再び耳に入ってきたとき、自分が〝何か恐ろしい体験をした〟と感じた。


(……い、今のはなんだ。私は白昼夢でも見たのか?)


 汗が額に滲み、呼吸が落ち着かない。何かが起きたのだ。しかし、何が起きたのかは理解できなかった。ただ、自分は〝触れてはならないものに触れた〟と、それだけが胸の中にすとんと落ち、本を慌てて閉じる。


「ケーキお持ちしました。……あの、大丈夫ですか?」


「えっ。ああ、はい。ありがとうございます」


 店員に心配されて愛想笑いを浮かべる。コーヒーとケーキの香りが、今は心底ありがたく思えた。整理はできていないが、落ち着きをゆっくり取り戻す。


「うん、美味しいな。マリオンも今度連れてこよう」


 小さなケーキをあっという間に食べ終え、コーヒーでクリームを喉に流し込む。銀貨を何枚か手に握り締め、本をわきに抱えて、支払いを済ませたら、迷わず王城を目指す。魔女に会うつもりはないが本は返しておかねばならない。事情を知る者に預けておけば、そのうち回収されるだろう、と。


 巨大な城門前には警備を担当する近衛隊が何人か立っている。平和なヴェルディブルグの王都では大した仕事もないのか、真面目に気を配ってはいるが、やや退屈そうに姿勢を崩していた。グレアは物おじせずに声を掛ける。


「すみません、少し尋ねたいのですがよろしいですか」


「……? 構いませんよ。どうなさいましたか」


 道でも尋ねられるのだろうと思っていた近衛隊の男は、彼女が「魔女が呼んでいる、と言えば分かってもらえると聞いたのですが」と言われて、退屈そうな表情を掻き消す。一瞬、間違ったことを言ったかと不安になった。


「お名前を伺っても?」


「グレアです。グレア・レンヒルト」


「ありがとうございます」


 男は小さくお辞儀をすると、近くにいた仲間に門を開けるよう指示を出す。


「ではレンヒルトさん、中へどうぞ。案内いたします」


 男に連れられ、とてつもなく広い前庭を歩く。美しく立派で、見ているだけで惚れ惚れしそうな手入れがされている。いくら公爵家を出て、今は普通の娘だとしても、ラフな格好で足を踏み入れるには少々恥ずかしさが伴った。


「美しい庭園でしょう。王城で働くすべての庭師たちの自慢なんです。王都観光でも普段は外からだけなんですが、明日はひさしぶりに一般開放されますから、よろしければご友人など連れてきてあげると喜ばれるかもしれませんよ」


 それはいい、とグレアが目を輝かせる。マリオンが興味を持つかどうかは知らないが、連れてくる価値はあった。


「ピクニックとかもできたりするんですか?」


「ええ。ゴミさえ各自持ち帰って頂ければ基本的に自由です」


「へえ、それはいいですね。あ、ところで私はどこへ……」


 案内するとは言われても、魔女がいないことを知っているし、それは相手も同じはずだった。なのにどこへ連れていかれるのか? と気がかりになった。


 近衛隊の男は眉尻を下げて頬を掻く。


「あ……実は今、魔女様は王城にいないんです。それで行き先をお伝えする役目の方に会って頂く決まりになっていまして。すみません、説明不足で」


「いえ、大丈夫です。会う方っていうのは?」


 魔女の信頼がなければ担うことのないだろう役目を持った誰か。よほどの善人か、あるいは超のつく真面目のどちらかだろうか? そんなことを思いながら「会えば分かります」という男の言葉を信じてついていく。


──通されたのは謁見の間。紅い絨毯と煌びやかな背の高い玉座をわずかに見上げて、彼女は本を強く抱きしめて口端を引きつらせた。


「……えっと、兵隊さん? 私が会うのはまさかとは思うけど」


「はい。今日は予定が空いておりますので、すぐに来てくれますよ」


 しばらく待たされている間、とにかく『帰りたい』という気持ちが常に胸の中で渦巻いた。あまりにも場違いだし、ただ本を預けようと思っただけで呼び出していい人物ではない。いそいそとやってきたドレス姿の女性が玉座に腰を下ろすのを待ち、すっかり委縮して、乾いた笑い声が諦めを醸す。


「遅れちゃってごめんなさい。あなたが魔女に会いに来たっていうレンヒルトさんね。──初めまして、リリィ・マリアンヌ・ド・ヴェルディブルグよ」

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