猫にまたたび8
時計の秒針が、静かに時を刻む。
どれくらい経っただろうか。香さんは話を終えると、顔を上げて私を見据えた。
「ごめんね。長話になっちゃって」
「いえ……あの、でも良かったんですか? 私がこんな、色々聞いてしまって」
打ち明けづらい内容も含まれていたに違いない。
私の言葉に、彼女は「いいのよ」と頷いた。
「あの子と真剣に関わってくれている羊ちゃんだから、私も真剣に向き合わないといけないと思ったの」
そっと目を伏せた香さんは、遠慮がちに問う。
「私が勝手に話しておいてなんだけど……大丈夫? やめたくなってない?」
「え、と……何を、ですか?」
「玄と付き合っていくこと。多分びっくりさせちゃったわよね。思ってたのと違う、とか思ってない?」
心配そうに、不安そうに私を見つめるその瞳。
それに微笑みを返して、首を振った。
「いいえ。大丈夫です」
びっくり、は確かにそうだ。私の知らない彼は沢山あって、まだ知らない部分もあるはずで。
でも私は、今とても安心している。
彼が今までどんな風に生きてきたのか。どんな経験をしてきたのか。奥行きが増した世界が私の中で彼をしっかりと縁どって、ここにいるよと教えてくれる。
「私は玄くんのことが好きなので、大丈夫です」
どんな人がタイプ? と、そう聞かれて、未だにきちんと答えられる気がしない。
だって、本当に分からないんだ。どういう人が好きだとか、こういう人と付き合いたいとか、そうじゃない。
多分、私、玄くんだから好きだ。
今更こうでした、なんて種明かしをされても、簡単に嫌いになることはできない。それはきっと、これからも変わらないんだと思う。
「そう……そっか……」
呟いた彼女の声が潤む。
羊ちゃん、と香さんが私の手を優しく握った。
「どうか――玄を、よろしくね」
綺麗な雫だった。彼女の頬を伝ったそれが、誠実な人柄そのものを表しているようで。
きちんと応えたいと、強く、強く願った。
「はい。もちろんです」
握り返した体温は心地良くて、これが彼を守ってきた温度なのだと痛感する。
数秒握り合って、突然香さんが「あ〜!」と仰け反った。
「もうしんみりなの良くないね。よし、私ちょっと買い物行ってこようかな」
に、と彼女の口角が上がる。
「羊ちゃん。私が留守の間、玄のこと頼んでもいい?」
「えっ!?」
「玄の部屋はね、二階上がってすぐ右だから」
説明を始めた香さんは、その考えを譲る気はないらしい。
一通り話して満足したのか、彼女の表情は清々しかった。
「じゃ、行ってくるね。よろしく!」
「は、はい……」
玄関で背中を見送り、ドアが閉まってから一息つく。
意外と強引なところ、ちょっと玄くんと似てるな……。
かくして、私は彼の部屋へ向かった。一応新しいタオルを持って、看病をするという体で、である。
「玄くん」
ノックをして呼び掛ける。返事はない。
やっぱり、まだ寝ているんだろうか。だとしたら寝かせてあげた方がいい気がする。
「……玄くーん」
控えめにもう一度呼んで、肩を落とした。相変わらず中から答える声はない。
私、何しに来たんだっけ。
そもそも、玄くんに会ってきちんと話をして、色々と謝りたかった。
――ううん。
「玄くん、入るよ」
私は、彼に会いたかった。ただそれだけだ。
部屋の中は以前来た時と変わらず整理整頓されていて、カーテンが閉められているからか、少し薄暗かった。
ベッドに横たわる彼の瞼は、穏やかに閉じている。ぐっすり眠っているみたいだ。
「……あれ? これって」
そこは彼の勉強机で、シンプルな男の子らしい雰囲気の中に、一つだけ異質なものが混じっていた。
ヒツジのマスコットストラップ。見覚えがある。
これは確か、彼の誕生日にゲームセンターへ行って、偶然取れたからあげたものだ。
取っといてくれてたんだ。しかもこんな、立て掛けて丁寧に飾ってある。
「ずるいなあ……」
本当に、ずるい人だ。
いとも容易く私の心を絡めとって、溶かしてしまう。
ベッドのすぐそばまで近付いて、静かに腰を下ろす。
規則正しく呼吸を繰り返す寝顔は、随分と幼く見えた。
手を伸ばし、努めて優しく彼の額に触れる。
「好きだよ」
今まで沢山、我慢したんだね。いっぱい苦しい思いしたんだね。
労うように、熱い皮膚を撫でた。
「……羊、ちゃん?」
掠れた声が私を呼んだのは、彼の額を何往復か撫でた後だった。
焦点の定まらない瞳が揺れて、首筋には汗が見える。
「ごめんね。起こしちゃった」
タオルでそれを拭いながら、苦笑交じりに謝った。
ただ呆然とこちらを凝視する彼は、状況の理解が追いついていないらしい。
「夢……?」
ようやく口を開いたかと思えば、彼は小さく呟いた。無理もないだろう。
「あはは、夢じゃないよ。ほら、ちゃんと汗拭いて――!?」
彼へと伸ばしていた腕を引っ張られる。
咄嗟にバランスを取ろうと手を付いた先はベッドの上で、上半身を乗り出した状態のまま、彼に覆い被さる体勢になってしまった。
「羊ちゃん、もっとこっち来て……」
「えっ、あの、玄くん!?」
腰を抱き寄せられた。
踏ん張りがきかず、完全に彼の上に馬乗りになってしまう。
「可愛い。好き。俺の……俺だけの羊ちゃん」
「わっ」
視界が反転した。
背中が柔らかい。見上げた先には、首から顔にかけてほんのりと赤い玄くんがいる。
これは……夢だと思ってるのかな。朦朧とした様子で舌っ足らずに言葉を紡ぐ彼に、意図せず心臓が跳ねた。
「羊ちゃぁん……」
酷く甘えた声。初めて聞く駄々っ子のようなそれに、激しく動揺する。
「えっ、ま、待って、玄くん……!?」
距離が! 近い!
突然近付いてきた彼の顔に、思わず声を上げた。
「羊ちゃん、好きぃ……」
「ひゃっ」
首筋に彼の舌が這う。今までと比にならないくらい熱くて、それにびっくりしてしまった。
病人相手に無下にもできないし、と逡巡していると、その唇が悪さを始める。
「あ、だめ、玄くん! こら……!」
ちぅ、と音を立てて首筋に吸いつかれた。
いい加減この行為には慣れてきたので、叱る余裕はある。
「え、あっ、待って……! 玄くん、や、」
唇が下へ下へと皮膚を辿っていく。
鎖骨の辺りをゆっくり舐められ、それから軽く食まれる。
また首筋に戻ってきたかと思えば、先程とは反対側にちくりと痛みが走って、「印」をつけられたと悟った。
「玄くん、もう、大丈夫……! ついてる! ついてるから!」
いつもは一度つけたら終わるはずなのに、今日は全然終わる気配がない。
彼の背中をたたいて促すと、耳元に吐息が降ってくる。
「だめ。こんなんじゃ全然足りない……もっと沢山つけないと……」
「ひぁ、」
つ、と熱い舌が耳の中をなぞった。耐えきれずに漏れてしまった声が情けなくて、口を押さえる。
「ん、いい子……声、我慢しててね……」
「ん、う、」
どうしようどうしようどうしよう! なんか玄くんがいつもと違う!
ぞわぞわと背中からせり上がってくる感覚が、未知すぎて怖い。
「あー……羊ちゃん……好き、キスしたい。噛みつきたい。食べちゃいたい。その先も、全部……もっともっとしたい……」
かぷ、と頬を甘噛みされて、肩が震えた。
私の目尻から零れた涙を追いかけるように舌で掬った彼が、恍惚と告げる。
「羊ちゃんの全部が欲しい……お願い、ちょうだい……?」
「え、あ、」
「嫌……?」
そんな聞き方しないで。ノーなんて答え、持ち合わせてないよ。
「や、じゃ、なくて……でも、あの」
「あー……好き。しよ……」
「えっ、ま、待って! あの、玄くん! ストップ! 今はだめ!」
必死に彼の肩を押さえ、抵抗を試みる。
だめ、という単語を拾ったらしく、玄くんはぴたりと止まった。
「何で、だめ?」
「何でって……玄くんいま熱すごいでしょ!? ちゃんと寝ないとだめだよ! それに、」
あれ、伝染ったかな。顔が熱くて仕方ない。
「……そういうのは、卒業してからじゃないとだめっ」
私だって一応、「その先」にあたるものが何なのかくらいは、想像がつく。
彼にとってはどうか分からないけれど、私にとっては人生が変わるかもしれないくらい一大事なわけで。
「羊ちゃんからの『待て』なら、いくらでも待つよ」
「え?」
伏せていた顔を上げれば、今にも溶け落ちてしまいそうな、それでいて真剣な瞳と交わる。
「羊ちゃんが嫌なら一生しなくてもいい。それでも俺、ずっと羊ちゃんのこと好きだから」
さっきまでの少し強引な手つきとは違う。慈しむような手が背中に回って、そのまま抱き締められた。
「羊ちゃんしかいない。羊ちゃんだけ。……だから、もう俺から離れていかないで」
彼が私の肩口に頭を埋める。
まるで小さい子がお母さんを泣いて引き止めるかのような、悲しい響きだった。
逃げないで。離れないで。
彼はよくそう口にする。私がいなくなることを酷く恐れている。
一緒にいて笑っていても、どこか寂しそうに、不安そうに私を見つめている。
玄くん、もう心配しなくていいよ。私はどこにも行かないよ。
この人の弱さも醜さも全て、愛さずにはいられないんだ。
「玄くん、顔見せて」
さらさらの髪を撫でて、彼に優しく語りかける。
緩慢に体を起こした玄くんの眉尻は頼りなさげに下がっていて、本当に子供になってしまったみたいだった。
それに少し苦笑して――彼の唇にそっと、自分のものを重ねる。
「……玄くん。もう、だめだよ」
触れたのはほんの一瞬だったけれど、体を熱くさせるには十分だった。
彼が目を見開く。自分でも驚くくらい、突然で、自然なキスだった。
「私のために、自分のこと犠牲にするのはだめ。それが私は一番辛いし悲しいよ。私だって玄くんに笑ってて欲しいし、元気でいて欲しい」
誰よりも大切でかけがえのない人。
私ばっかり幸せなのは嫌。二人で幸せじゃないと、意味がないの。
「玄くんの好きなものも嫌いなものも、ちゃんと教えてよ。辛いのとか悲しいのとか、私も一緒に大事にしたい」
「羊ちゃん……」
「今度は玄くんの好きなもの食べに行こう?」
ちゃんと二人で、つくっていこう。
彼の手を握る。両手でしっかり包んで、力を込めて、私はここにいるよ、どこにも行かないよって、言い聞かせるように。
「それで、いつか玄くんのお父さんにも会わせて欲しい」
弾かれたように彼が顔を上げるのが分かった。
どうして、と薄くその唇が動いたけれど、やがて何かを悟ったように震え出す。
「……うん。うんっ……約束する。羊ちゃん、ありがとう……」
手の甲に水滴が落ちた。
彼は堪えていたものを全て吐き出すように、肩を震わせて泣いた。
その涙が流れていく度、彼の背中から重りが解放されていくような気がして。すっかり涙が引いた頃には、その表情から不安や寂寥感はなくなっていた。
すん、と鼻を啜った彼は、私に抱き着くと頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「ふふ、どうしたの? 今日の玄くん、甘えただね」
背中をさすってあげると、彼は拗ねたような口調で呟いた。
「……羊ちゃん、もっかい」
「ん?」
「キス、したい」
数分前の自分の行動を思い起こし、頬が火照る。
玄くんは額をこつん、と合わせてくると、眉根を寄せた。
「ずるいよ、あんな風にしちゃうなんて。最初は俺からしようと思ってたのに」
「えっ、ご、ごめんね……んっ、」
ちゅ、と触れるだけのキス。すぐに離れて、再び顔が近付く。
「玄く、んっ」
二回、三回、と角度を変えては、小刻みに重なる唇。その合間に「好き」と囁かれて、体温が上がった。
「や、もう、だめ……」
「何で……? もっとしたい。いっぱいしよ」
ストレートな要求にたじろいでしまう。
熱く柔らかい感触がまた降りてきて、今度は一度重なるとなかなか離れなかった。それどころか、下唇を吸われるのと同時、驚いて咄嗟に開けた口内に、彼の舌が入ってくる。
「羊ちゃん、鼻で息して……もっと口開けて。そう、いい子……」
脳が、思考が溶けていく。熱くて熱くてどうにかなりそう。
何が何だか分からないまま、彼に委ねて考えるのをやめた。
ただただ幸福で、満たされていく気持ち。
それは彼も同じだったようで、ようやく離れた後、熱に浮かされたような瞳で――って、
「玄くん! 熱!」
そうだよ。病人なんだから!
色々と立て込みすぎて途中から忘れていた。
「うん、大丈夫だから……もっと、」
「だ、だめだって!」
「俺の風邪、うつるの心配してるの? 今更だよ」
いや、そうじゃない。というか、そもそも風邪を引いたのは私のせいであって。それを謝ろうと思ったんだった。
「あの、玄くん。ごめんね。私のせいで、こんな……」
「いーよ。気にしないで。羊ちゃんとちゅーできたから、むしろ役得」
「もう……!」
軽く彼の肩を叩く。
懲りずに微笑んだ玄くんは、「ねえ」と身を乗り出した。
「羊ちゃん、さっきのがファーストキス?」
「えっ、……そ、そうだよ」
私の答えに、彼が破顔する。
「そっか。……うん、そうだよね。あー……やばい、めっちゃ嬉しい……」
噛み締めるように呟いたかと思えば、ぎゅ、と勢い良く抱き着いてきた。
「最初も最後も、全部俺とか……もう幸せでしかないんだけど……」
幸せ、と。彼の口から聞けたことが、何より嬉しかった。
玄くんは腕の拘束を解くと、向き直って私を見つめる。
「俺に、羊ちゃんの初めて全部ください」
言われなくても、そのつもりだったよ。
はい、と返事をして、彼の首に腕を回す。
不安も寂しさも、もう熱に溶けてなくなってしまったみたい。




