猫にまたたび7.5―Gen Kamiya―
家に帰ればアルコールの臭いが鼻をついて、リビングから怒鳴り声が飛んでくる。
それが俺にとっての「普通」で、日常だった。
「ねえ、お願いだから……玄も来年には中学生になるのよ? こんな状態じゃ私たち、」
「うるせえな。お前が働いてんだから問題ないだろ。俺は家を守ってんの。一日中な」
不毛なやり取りだと思う。
当時は、なぜそこまでして母が父に外へ出ることを求めるのかが分からなかった。だって、どんなに父に話をしたところで、父が朝から夜までソファから起き上がることはないだろうし、言うだけ無駄だ。
自分の父親が普通ではないこと。アルコール依存症だったこと。一般的に、父親が働き、母親が家事をすること。
それを知ったのは、母に連れられ家を出て、新しい生活を始めてからだった。
「玄。紹介したい人がいるの」
殺風景だった部屋に少しずつ物が増え、二年ほど経った頃だろうか。
学校から帰ってきた俺に、突然母はそう言った。
制服のままでいいから、と促されて、母と二人で車に乗り込む。
着いた先は、普段なら絶対に訪れないであろうレストランだった。
「は……初めまして」
そこにいたのは、がちがちに緊張している様子の男性が一人。
せっかく綺麗なスーツを着ているというのに、所作が全く追いついていない。こっちが心配になるくらいぎこちなく、彼は俺に握手を求めた。
「狼谷隼斗です。ええと、いま、香さんと――きみのお母さんと、お付き合いを……させて頂いていて、」
もう少し深呼吸して、落ち着いてから話せばいいんじゃないだろうか。
仕方なく差し出された手を握ると、目の前の顔が分かりやすく輝いた。
「玄くん、だよね? バスケやってるんだっけ。すごいね。俺はスポーツ全然できないから、本当に憧れる……」
「バスケじゃなくて、サッカーです」
「えっ!? あれ、ごめん! サッカー……あ、ほんとだ、サッカーって書いてた……」
彼は自分のポケットから手帳を取り出し、あたふたと謝罪を重ねる。
変な人だな、というのが正直な感想だった。
恐らく感情がそのまま顔に出る。父のようなふてぶてしさはまるでなく、男性というよりかは青年――むしろ少年と言った方が的確かもしれない。
「玄、実はね。私たち、結婚しようと思ってる」
そんな彼が、「父」になるらしい。
***
「玄、ちゃんと『いただきます』って言わなきゃだめだぞ」
新しい父親は、母以上に口うるさかった。
朝起きたら挨拶をしろ。帰って来たら「ただいま」、出迎える時は「おかえり」。
好き嫌いはするな。宿題はその日にちゃんと終わらせろ。
小学生かよ、と内心うんざりだった。
マナーや礼儀はもちろん分かっている。必要な場面ではうまくやるし、これまでだってそうしてきた。
「分かってるって。こないだも聞いた」
「じゃあちゃんと言わないと。作ってくれた人への感謝の気持ちなんだから」
「はいはい」
感謝の気持ち、とか。目の前に母さんがいるのによく言えるわ。
母さんも母さんだ。いいよ、食べよう、なんて言うくせに、満更でもないって顔してる。
むず痒い。こうして面と向かって食事を取るのも、「おいしい」だなんて隣でへらへらと笑うこの「父親」も。
「あ、そうだ。玄、明日は寄り道しないで早く帰ってこいよ」
「何で」
「何でって」
玄の誕生日だろ。
当たり前のようにそう言ってのけた彼に、俺はしばらく声が出なかった。
誕生日。ああ、確かに。言われてみれば明日だったか。
毎年母に言われてから気付いて、近くのファミレスに夕飯を食べに行くのが恒例だった。
別にそれをどうとも思わない。
第一、うちが決して裕福でないことくらい分かっていたし、特に欲しいものもなかった。
クラスメートはよく「ゲーム機をもらった」だの「ケーキを食べた」だの言うが、まあそれは他の家庭の話であって、うちがそうでないというだけのことだ。
「明日は父さんも母さんも、仕事早く終わらせてくるから」
「いいよ別に。無理しなくても」
「おー、なんだ照れてんのか?」
「髪ぐしゃぐしゃにすんのやめて」
彼はオブラートに包む、ということを知らないようだった。
言葉も行動も直球で、俺がつれない返事をしても懲りなく絡んできた。荒々しく頭を撫でられて、その手つきから「この人は撫で慣れてないな」と最初から感じた。
それなのに、いつも嬉しそうに俺の髪を乱す。何度も、何度も。
どうしてそこまで屈託なく笑えるのかが分からない。でも一番分からないのは、その手を振り払わない自分自身だった。
「玄の好きなチョコレートケーキ買ってくるからな!」
いつしか手帳を見なくても、間違わずに俺のことを断言できるようになったらしい。
***
終業のチャイムが鳴る。
荷物を手早く纏めて、昨日の言いつけ通り、俺は学校を早々に後にした。
放課後遊びに行こうと誘ってくれた部活の友達もいたが、また今度、と手短に断った。
「あ、玄。おかえり〜」
リビングへ足を踏み入れた途端、普段はこの時間にいるはずもない母が俺を出迎える。早く帰るとは言っていたが、まさかこんなに早いとは思っていなかった。
「……ただいま」
「今日はね〜、玄の好きなものいっぱい作ったから。ケーキはお父さんが帰りに買ってきてくれるって」
顔だけ振り向いて上機嫌に述べる母。
キッチンに立つ後ろ姿をこんなにまじまじと見るのは、随分と久しぶりだった。
「玄、誕生日おめでとう」
夕日が差し込む空間に、控えめな声が響く。
「……今まで、まともにお祝いしてあげられなくてごめんね。いつも、一人にしてばっかりで」
ぽつり、ぽつりと母が話し出した。
その背中は、前の家を出てきた時、俺の手を引いた背中と同じとは思えないくらい小さく感じる。
「でも、これからはちゃんと家族みんなで、一緒にご飯食べようね。玄と、私と……お父さんの、三人で」
母はいつも一人だった。
家事も、仕事も、俺のことも。全て背負って、それでも決して愚痴は言わなかった。
だから俺は、一人だったんじゃない。ずっと守られていたのだと思う、母に。
「……うん」
父さん、と。あの人をそう呼ぶには、整理と勇気が必要だった。
初めて会ってからずっと、俺は誤魔化し続けて、でもそれを咎められることはなかった。
「父さんに言っといてよ」
「え?」
「早く帰って来ないと父さんの分も俺が食うぞって」
言ってみると意外としっくりくる。
父さん。言えた。多分、あの人にも言える気がする。
「玄……」
呆けた様な声が、俺の名前を呼んだ。
何か堪えるように唇を強く噛み締めて、母は頷く。
「うん。言っておくね」
眉尻を下げて微笑んだ瞳が、薄らと潤んでいた。
今更に居心地が悪くなって、「着替えてくる」と踵を返す。
しかし、再びリビングに戻った後、先程とは打って変わって母の表情が曇っているのに気が付いた。
「……母さん?」
俺が声を掛けると、我に返ったように顔を上げる。
「あ、……ごめん、玄」
母は言いづらそうに顔をしかめ、それから告げた。
「いま連絡があって……お父さん、ちょっと遅くなるって」
結局、夕飯は母と二人でとることになった。
いつもより豪華なラインナップに、作りすぎだろ、と思わず零す。
分かっていた。今日一番張り切っていたのは俺でも父さんでもなく、母さんだ。
仕事は致し方ない。俺としては別に割り切っていたが、どちらかというと母の方が寂しそうに見えた。
テーブルに並べられた三人分の料理。本当は十分腹一杯で、それでも「早く帰ってこないと食う」と言ったのは自分だし、食べ盛りの食欲を舐めんな、と変なプライドが働いて普段の倍は食べた。
「玄、無理して食べなくていいから。お腹壊すわよ」
やけになっていたのかもしれない。
ああもう本当に、むず痒い。いつの間にか食卓は二人じゃなく、三人が当たり前になっていた。空いた隣の椅子がどうにも気に食わない。
玄関のドアが開いたのは、食事を終えて、風呂も済ませてしまってからのことだった。
「ごめん、遅くなった! ただいま!」
慌ただしい足音と共に、そんな声が聞こえる。
自分の部屋に戻ろうとしていた俺の背中を、後ろから追い縋る手があった。
「玄! ごめん、本っ当にごめん! ケーキ買ってきたから食べよう!」
振り返ると、必死に懇願する彼と目が合う。
「……夕飯めっちゃ食ったから、お腹空いてない」
「あ――えっと、じゃあ……ああ、そうだ! 一緒にゲームでもするか? 明日土曜だし、いくらでも付き合、」
「何で遅くなったの」
言い募るのを遮った俺に、「え」と目の前の気配が怯んだ。
「別に俺のご機嫌取りはどうでもいい。母さん、ずっとあんたのこと待ってたんだけど」
この人なら間違わずに俺たちを守ってくれるかもしれない。疑念から期待に変わって、確信になった。
母さんが嬉しそうに笑っているのを見るのは、きっと幼少期からの念願だった。
「あんな顔させてんじゃねえよ。ごめんとか、母さんに言わせてんじゃねえよ」
もう見たくない。寂しそうに、困ったように一人で弱々しく笑うのも、私のせいだからと抱え込むのも。
今まで散々してきただろうが。これ以上、苦しむ必要は微塵もない。
『ごめんね』
『は? 何で母さんが謝んの』
『三人でって言ったのにね。……でもきっと、あの人すごく優しいから。また仕事断れなかったんじゃないかな』
俺だって手放しに期待したい。
でも、俺の役目は。これからの俺の役目は、母さんを守ることだ。今まで守ってもらった分だけ。
「できない約束すんな。それが無理なら最初から期待させてんじゃねえよ!」
拾うフリして置いてくな。
だから嫌だったんだ、「もしかしたら」なんて思ってしまうのは。
話に耳を貸さない人間に、働けと言っても意味がない。必死に家計を支える母に、一人で食事をとるのは寂しいと言っても意味がない。
何も欲張らず、ただ平静に。
深く考えなければ苦しまなくて済んだ。今までだって、そうやって自分を保ってきた。
頼むから、期待させないでくれ。上げた分、落とされた時の衝撃は大きい。
「玄……」
温かい食卓は知りたくなかった。冷めたら電子レンジで温めて、静寂はテレビで誤魔化せばいい。
それなのに、今日は隣の椅子が空いているだけで落ち着かなかった。
伸ばされた手を振り払って、階段を上がる。
次の日から「父」は、俺の頭を撫でなくなった。
まるで腫れ物に触るかのように。その窺うような視線が煩わしくて、俺は目を合わせなくなった。
「あ、水瀬〜。同じクラス? よろしく」
高校は家の近くの進学校で手を打って、大学は行かないつもりだった。早く社会へ出て、自分で稼いで、誰の手も借りずに生活したかったからだ。
「……水瀬じゃなくて、今は狼谷」
渋々訂正してから、陽気に声を掛けてきた男子生徒を見やる。
彼は「そうなん? わりーわりー」と臆せず手を合わせて、俺の隣に並んだ。
こいつは確か――そうだ、津山だ。
中学の頃、一年と二年で同じクラスになったが、あまり話したことはない。常にどこか一歩引いたように周囲を見渡していて、騒ぐのは得意ではなさそうな印象だった。
すぐに反応できなかったのは、最後に見た彼と現在の彼の身なりがあまりにもかけ離れていたからだ。
真っ黒だったはずの髪はキャラメル色に染められていて、耳朶には小さなピアスが二つずつ開いていた。
「誰かと思った。お前そういうタイプだっけ」
「えー……まあ、うん」
歯切れ悪く受け応える彼に、それ以上の追究をやめた。
消化しきれない何かを抱えているような気がして、それが今の自分と酷く似ている。
津山とつるんでいてまず後悔したのは、面倒ごとが多いということだ。
派手な見た目のせいか、彼はよく柄の悪い連中に絡まれる。そのくせ中身はくそ真面目だから、いつも怯えたように固まってしまうのだ。
「だ、だから、狼谷は関係ないんで、殴るなら俺だけにして下さい」
放課後、たまたま座ったファストフード店の一角が他校の奴らの特等席だったらしく、津山は胸倉を掴まれていた。
すぐさま立ち上がって謝罪した津山より、今もこうして座り続けている俺の方が幾分か生意気なはずなのだが、奴ら的には髪色が判断基準らしい。
「じゃあとりあえず奢ってくんね? 俺ビックバーガーね」
「いや、あの、」
「何? 文句あんの」
いえ、と引き下がった彼が非常に不憫だが、正直俺だって迷惑している。
さて今回はいくら奢らされるんだか。完全に他人事として傍観を決め込んでいると、鋭い視線が飛んできた。
「なあ。お前さっきからずっと見てるけど何なわけ。お前にも言ってんだけど」
どうやら今日は厄日のようだ。
仕方なく腰を上げて、俺は息を吐いた。
「いま席空けるんで。どーぞ」
「は? 何それ。舐めてんの?」
「いや、別に」
穏便に済ませようと平坦に述べたのがいけなかったのか、そのまま店外へ引き摺り出される。
流石に殴られる趣味はなかったので抵抗はした。俺を簡単には殴れないと踏んだ奴らは、標的を津山に変え、せせら笑う。
「よく見ればお前可愛い顔してんなあ。体もひょろいし、そんなんでなに調子乗ってんの? だっさ」
男の拳が振り下ろされる瞬間。自分の中で何かが焼き切れた。
「な、」
津山に向かっていた男の拳を腕ごと引き留め、湧き上がった感情を絞り出す。
「だせえのはどっちだよ」
「ああ? てめえ――」
飛んできた拳を避ける。苛立ちに任せて男の頬に一発入れると、背後から「狼谷!」と津山の叫び声が聞こえた。
「やめろ、手ぇ出したら俺らも怒られるぞ!」
そんなことは分かっている。分かった上で、俺は自分の感情に素直に従った。
どうしても許せなかった。他人を貶めて悦に入る人間の顔は醜くて、いや、それよりも何よりも、
「こいつのこと何も知らないくせに好き勝手言ってんじゃねえよ」
津山は調子に乗りたいんじゃない。こんな格好をするのは、自身を変えたいからだ。詳しいことは知らないが、それぐらい俺にだって分かる。
「狼谷……」
「津山、学校に連絡」
「あ、わ、分かった!」
その後、俺たちはしっかり叱られた。
他校の生徒と殴り合い。その事実は尾ひれがついて噂となって広まり、いつしか俺は「気に食わなければすぐに手を出す不良」として校内で有名人になったのだが。
***
「狼谷玄くん、だよね?」
見覚えのない女子生徒だった。
クラスメートにすっかり怯えられ、岬以外とはあまり関わらなくなった俺に、わざわざ声を掛けてくる人がいるとは思わず驚く。
「私、隣のクラスの此花奈々。ごめんね、突然」
「……いや。何か用?」
重たく切り揃えられた前髪が印象的だ。
俺の問いに、彼女は妖艶に微笑んだ。
「何って……言わせるの? 酷いなあ」
「は?」
遠慮なく顔をしかめると、彼女が近付いてくる。そして俺の肩に手をかけ、耳元で言い放った。
「イイコトしようよ。私と」
これも後になって知ったが、俺には「女をとっかえひっかえしている」という噂もあったらしい。
そこそこ美人な女子高生に言い寄られ、健全な男子高校生だった俺は、興味本位で彼女と関係を持ってしまった。その後も流れに身を任せて色んな子と体を重ねたが、唯一、俺の素を知っているのは奈々だった。
「まさかプレイボーイって言われてた玄がチェリーだったなんてさあ、そんなん分かるわけないじゃん。言ってよ。そしたらもっと優しくしてあげたのに」
「言えるかよ。いきなり迫ってきたお前も大概だろ」
何度目かの行為のあと、奈々は「ねえ、玄」と俺を呼んだ。
「寂しいんでしょ」
私もだよ。彼女はそう言う。
「寂しいもの同士、仲良くしようよ」
「……散々やっといて何を今更」
それは俺がまだ、「太陽」を知らない頃の話だった。




