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猫にまたたび7

 


 何やってるんだろう、私は。


 自分の部屋のベッドに身を投げ出して、天井を眺める。

 純粋に肉体的な疲労もあって、荷解きの後、昨日はすぐに寝てしまった。


 今日は金曜日。来週の月曜日も私たち二年生は休みになっている。つまり、四連休だ。


 みんなに随分迷惑をかけてしまった。気を遣って何も聞いてこないのは伝わってきたし、私自身、どうしたらいいか分からなかった。


 あの時、どうしてあんなに泣いてしまったのかも今となってはよく思い出せない。ただ漠然と大きな不安が胸を突いて、すごく悲しかったのだ。



「……はあ」



 とにかく自己嫌悪。友達もそうだし、何より玄くんを傷つけた。

 あんなに私のことを想ってくれていたのに、私はそれを仇で返してしまった。


 でも、どうしても譲れないことがある。



『走んなくても、急がなくてもいいんだよ。いくらでも待つ。来てくれたのが嬉しい』


『羊ちゃんが食べたいの二つ頼んでいいよ。俺は別に何でも大丈夫だから』


『うん。でもこれからずっと一緒にいるんだし、どうせだったら羊ちゃんの好きな外見の方がいいよね?』



 彼は私を大事にしすぎている。いや、正確にいうと、彼自身を殺してしまっている。

 盲目的な愛に飛び込んでしまいたくなるけれど、それじゃだめだ、と最近本当に思った。


 他でもない、私が。彼を消してしまいそうで。

 彼をかたどるものが、境界線が日に日にぼやけていく。私の境界線と交わりそうになって、切れ目が分からなくなっていく。


 いつか玄くん自身がなくなってしまう。それも私のせいで、だ。


 私は彼が好きだ。私を好きな彼が好きなんじゃない。彼自身を、好いている。

 だから、このまま彼の中が空っぽになっていくのは絶対に嫌だった。


 これは私の我儘? こんなことを願うのは贅沢?

 分からない。でも、私は彼が彼自身を全うすることを望んでいる。


 ピロン、と機械音が鳴った。

 緩慢に起き上がってスマホを手に取る。



『玄、熱出したらしいよ』



 津山くんからだった。

 たった一言だけのメッセージ。しばらく画面を見つめて、その文面を咀嚼する。


 ベッドから降りて、クローゼットを開けた。部屋着から着替えて、軽く髪を結う。

 スマホと財布を持って、部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。



「羊? どこ行くの?」


「彼氏に会ってくる!」


「あら、そう。…………え?」



 多分、いま会わないとだめだと思った。

 時間をおいたら絶対に拗れる。推測じゃない。確信だ。



『羊はどうしたいの?』



 私は玄くんに会いたい。会って話したい。ちゃんと手を取って、抱き締めて、そして。キスがしたい。


 彼が分からない。気持ちは痛いほど伝わってくるのに、時折見えなくなる。

 でもそれは私も同じだ。また繰り返している。待っているだけじゃなくて、ちゃんと自分から伝えに行かなきゃいけない。


 どっちかが頑張るんじゃなくて、二人で。彼に願うように、私も私自身を全うするべきだ。


 バスに乗り込んで数十分。いつものバス停で降りてから、玄くんの家へ走る。


 インターホンを押すのに少し躊躇して、押してからもずっとどきどきしていた。



「はい、狼谷です」



 聞こえてきたのは玄くんのお母さんの声だった。

 意図せず背筋が伸びる。



「あの、突然すみません。白羊です。……その、」



 ここまで勢いで来ちゃったけれど、なんて言おう。

 逡巡していると、向こうから清々しいトーンが飛んできた。



「あら、羊ちゃん? もしかして玄のお見舞い来てくれた?」


「あっ、はい! 押しかけてすみません……」


「わざわざありがとうね。いま行くから」



 久しぶりに見た玄くんのお母さんは、以前と印象が違った。

 少しカジュアルな服を着ていて、長い髪が揺れる。



「どうぞ、上がって」


「お邪魔します……あの、すみません、私何もお土産がなくて……」



 とにかく早く行かなきゃ、と突っ走ったはいいものの、手ぶらで来てしまった。

 縮こまる私に、「あはは」と快活な笑い声が上がる。



「全然気にしないで〜。こうして来てくれただけで十分。それに、」



 目の前の瞳が、真っ直ぐ私を見据えた。



「すごく急いで来てくれたみたいだもんね」



 その言葉と視線に、自分の身なりを確認する。

 髪は触っただけでも乱れているのが分かるし、服もそこまで吟味せず選んだから、ちょっと印象が良くなかったかもしれない。



「あっ……えっと、」


「ごめんね。玄、ちょうどさっき寝たばっかりで。昨日あんまり寝れなかったみたいだから起こすの可哀想でね……」


「そう、なんですね」



 そんなに熱にうなされていたんだろうか。

 絶対とは言い切れないにしても、彼が体調を崩したのは私にも責任がある。



「あの、すみません……玄くんが熱出したの、私を気遣ってくれたからかも、しれなくて……」



 水に濡れたのはお互い様だし、アトラクションのせいだし、仕方なかった。

 でも私がレインコートを買っていれば、玄くんがパーカーを脱ぐ必要はなかったかもしれない。もしくは素直にお礼を言って早くホテルに戻っていれば、玄くんもそこまで冷えずに済んだかもしれない。


 私が変に意地を張って我儘を言ったせいで、余計に夜風に当たらせてしまった。そのうえ傷つけた。



「……もしそうだとしても、羊ちゃんが気に病む必要ないからね」


「え?」



 柔らかい声に顔を上げる。



「きっと玄がしたくてしたんだろうし、元々体弱い子なの。だから羊ちゃんのせいだなんて、玄も私も思わない」



 そう、だったんだ。玄くんは、体が弱かったんだ。

 知らなかった。それなのに、私は彼に酷いことを言ってしまった。



『玄くんの方が繊細でしょ、体育でふらふらしてることあるよね?』



 傷つけたんじゃない。私は、侮辱してしまったんだ。



「……ねえ羊ちゃん。玄が起きるまでの間、ちょっと話さない? 羊ちゃんが好きなオレンジティー淹れるから」


「どうしてそれを……」



 玄くんのお母さんが知っているんだろう。



「あの子が――玄がね、羊ちゃんはオレンジが好きだからって。夏ぐらいからかな、よく買ってくるようになったの」



 切れ長の目が優しく緩む。

 それが彼と重なって、胸の奥から突き上げるような感情が湧いてきた。


 ああ――私、もう、本当に好きだ。多分、もうどうしようもないくらい彼のことが好きだ。


 鼻の奥がつんとして、吸い込んだ空気が震える。



「あらら……玄に怒られちゃうなあ」



 温かい手の平が、私の頭を撫でた。



「よしよし。お茶飲んで落ち着こうね。さ、こっちおいで」



 玄くんのお母さんはそう言って、背中を押してくれた。


 ダイニングテーブルにつき、しばらくしてから甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 人様の家の玄関で泣くなんて情けない。項垂れていると、「はいどうぞ」という声と共に食器の音が聞こえた。



「ありがとうございます……」



 ティーカップからはほんのりと湯気が漂い、気持ちを落ち着かせてくれる。

 一口含んでゆっくり息を吐くと、体が温まった。



「落ち着いた?」


「あ、はい……! ご迷惑おかけしてすみません……」



 いーえ、と間延びした声が返ってくる。

 姿勢を正した私に、向こうも背筋を伸ばす気配がした。



「改めまして、玄の母の(かおり)です。いつも玄と仲良くしてくれてありがとう」



 そこまできっちり挨拶をされると思わずに、数秒固まってしまう。

 慌ててティーカップを置いて、口を開いた。



「とんでもないです! ……あ、の」



 視線が交わる。

 先程までの穏やかな空気とは僅かに違う、真剣味を帯びた雰囲気。そこでようやく、私は気が付いた。



「玄くんとお付き合いさせて頂いている、白羊と申します」



 はっきりとそう述べて、頭を下げる。


 きっと香さんは最初から気付いていた。そう、思う。



「……顔上げて、羊ちゃん」



 言われた通り姿勢を戻して、再び目が合った。

 その瞳はもうすっかり優しい色になっていて、眉尻が下がる。



「本当はね。初めて会った時から、羊ちゃんが玄の傍にいてくれたらなって思ってたの」



 香さんはそう告げて、綺麗な指を組んだ。

 ただの直感だけどね、と付け加えて彼女が笑う。



「男子高校生らしく、年相応に笑ってるのを久しぶりに見たの。学校へ行って、友達と遊んで、好きな子にどきどきして……当たり前のことだけど、それがあの子はできていなかったから」



 確かに、以前も聞いた。

 真面目じゃない、と。母親の顔をした彼女が言っていた。



「羊ちゃんは自分の影響じゃないって言ってたけど……でも、それでもね。この子は玄のこと、すごく良く見てくれてるんだなって嬉しくて」



 良く見てくれていたのは、彼の方だったのかもしれない。


 いつも真っ直ぐに距離を詰めてくる彼に、最初は戸惑ってばかりだった。ちょっと怖くて、あんまり仲良くなれなさそうだなって。


 でも彼は寂しそうに笑うから。うっかり手を伸ばして――確かに、その時は「うっかり」だったかもしれないけれど。

 あの時、手を伸ばして良かったなと思った。



「少し、昔の話をしてもいいかしら。あの子の大事な話。羊ちゃんには知ってて欲しいの」



 ゆっくり、確かめるように言う香さんに、力強く頷く。


 知りたい。私はきっと、彼について知らないことが沢山ある。



「私、一度離婚しててね。今の夫は、玄と血が繋がってないの」


「え――」


「努力したつもりだったけど、私のせいですごく寂しい思いさせたと思う。だから玄にも強く言えなくてね」



 ご飯を一緒に食べよう、一人にしないで。縋るようにそう言った彼の顔が浮かんだ。


 ずっと感じていた、彼の背中にこびりついている寂寥感。言葉を欲しがるのも、気持ちを確かめたがるのも、不安そうに私を呼ぶのも。

 やけに腑に落ちて、そうか、そうだったのか、と内心独りごちる。



「担任の先生にはいつも迷惑かけてしまって、本当に申し訳なかった。よく家に電話が掛かってきて、この間もそうだったんだけど」



 夏休みが始まる前のこと。

 森先生からの電話。香さんが普段通り受け答えたそうだ。



『ああ、狼谷さん。担任の森です』


『いつもお世話になっております。あの、すみません、また玄が何か――』


『私からこうしてお電話を差し上げるのは、これで最後かもしれません』


『え?』



 狼谷くん、先週の期末試験で学年一位でしたよ。


 森先生は受話器越しでも分かるくらい、嬉しそうな声で香さんにそう告げたという。



「今まで学校から電話が掛かってくるのが怖かった。今度はあの子、一体何をしたんだろうってね。でもその日、初めて電話で玄のことを褒められた」



 毎日学校に来るようになったこと。授業をきちんと受けるようになったこと。休み時間、クラスメートと話す姿が見られるようになったこと。


 学校での彼の様子を丁寧に報告して、森先生は「もう私から申し上げることはありません」と。



『一年の頃から彼を見てきましたが、きっともう大丈夫だと思います。彼の周りがきちんと支えてあげているようですので』


『ええと……津山くんとはいつも仲良くしてもらっているみたいなんですけれど、』


『ああ、いえ。もちろん津山もそうですが、他にも仲良くしている友人がいるみたいです』



 それが羊ちゃんだった――と、香さんがそう種明かしして、淡く微笑んだ。



「玄を……私たちを助けてくれて、ありがとう」

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