濡れぬ先の傘4
「あの、ごめんね。本当にありがとう……」
夕焼け雲が空を侵食していく。
浴衣を着た人とすれ違う頻度が増えてきて、夏を実感した。
「いいよ、あのくらい。今日は俺が誘ったんだから」
狼谷くんが言いつつ笑う。
結局、お店のお会計は彼が済ませてくれていたみたいで。
自分の分は払いたい、払わせて、と何度も頼んだけれど、狼谷くんは断固として首を縦に振らなかった。
「ほら羊ちゃん、見て」
彼の声に誘われるように顔を上げる。
「わ、すごい……」
石畳の道をぐるりと囲うように設置された木枠。
無数の風鈴がそこに取り付けられて、ちらちらと揺れていた。
そっか、だから風鈴祭りっていうんだね。シンボルみたいなものなのかな。
「あっち行ってみようか」
「うん!」
気温は少しずつ下がってきた。
ちりん、ちりん、と涼やかな音色が耳に心地いい。
「こんなにいっぱい……トンネルみたいだね」
両脇にも、頭上にも。色とりどりのガラスが私たちを迎えてくれる。
趣深いというか、日本の文化だなって感じがする。
食べ物も和食の方が好きだし、お菓子も和菓子の方が好き。お味噌汁を飲むと安心する。
「うん。すごい、綺麗」
狼谷くんが穏やかに呟く。
しばらく真っ直ぐ進んでいくと、奥には神社があった。
人だかりができていて、どうやらお参りをしているみたいだ。
人気のレストランのような賑わいぶりに、そんなに有名な神社だったっけ、と首を捻る。
「えっと、お参り、する?」
隣の狼谷くんを見上げて尋ねると、彼は「うん、する」と頷いた。
私は別に並ぶのは構わないけれど、狼谷くんは苦じゃないんだろうか。神様とか結構信じるタイプなのかな。
風鈴のトンネルをくぐってきた時から感じていた違和感が、ようやく分かった。
こうして並んでいるのはみんなカップルで、周りの雰囲気が恋人同士特有の甘いものなのだ。気づいてしまうと少し恥ずかしい。
それから、私は狼谷くんとお参りを終えてもと来た道を戻る。
手を合わせて瞼を閉じる彼をこっそり盗み見た時、その綺麗な横顔に息を呑んでしまった。
「なんか、みんな仲良しだよね……」
風鈴を見上げながらなるべく曖昧な表現で伝えると、
「じゃあ、俺たちも仲良くする?」
「えっ」
空いていた右手を流れるような動作で繋がれた。
ぶわ、と顔が熱くなって、心臓が落ち着きなく騒ぎ出す。
仲良くするって!? 仲良くするって何!?
すぐ近くを歩いているカップルも手を繋いでいるし、それと同じことをしている自分に訳が分からなくなった。
「はは、そんな固まんないでよ。周りカップルばっかりだから、こうしないとちょっと浮いちゃうかなって」
「そ、そっか……うん、そうだよね……」
色々経験豊富な狼谷くんが言うんだから、そうなんだろう。よく分からないけど。
カップルじゃないと来ちゃダメみたいな感じなのかな。知らずに来ちゃった。
狼谷くんに引かれるがまま歩いていると、前の方から浴衣を着た集団がやって来るのが見えた。
『浴衣着ちゃおうかな〜』
『せっかくだもん、着ないと損だよ!』
教室でそんな会話を繰り広げていた女の子たちと同じ声が、私の耳に入ってきた。
「すご〜! めっちゃ綺麗!」
「写真撮りたいんだけどー! みんなで撮ろー!」
間違いない。
みんな髪を結わえていたり、メイクをしたりしていつもより印象が違うけれど。
その後ろには男の子たちもいるし、確実にそうだ。
「あれ?」
女の子が一人、こちらを向いた。
ばちりと目が合って、反射的に足が止まる。
「白さん?」
「え、あ――」
名前を出されては逃れようがない。
他の子も「どうしたの?」「あ、白さんだー!」と口々に気が付いたようで声を上げる。
「……と、狼谷くん?」
私の隣に視線をずらした女の子は、目を見開いた。
その目がそろそろと私たちの間の空間を捉えて、たちまち表情に驚きの色が滲む。
わっ、そうだ! 狼谷くんと手繋いだままだ!
「あっ、えっと、これはその……!」
焦って上手く言葉が出てこない。
なんて言えば穏便に誤解を解けるんだろう!? ああいやでも、慌てて変なこと言っちゃうよりは狼谷くんに任せた方がいいのかな!?
「わ〜そっか〜、二人って付き合ってたんだね〜!」
「びっくりしたぁ、意外だったよー!」
きゃあ、と沸き立つ女の子たちに、私は思わず狼谷くんを見上げた。
どんな困った顔をしているんだろうという興味半分、助けて欲しいという期待半分。
それなのに。
「……はは、みんな元気だね」
否定も肯定もせず、狼谷くんは笑っていた。
私がよく見る笑顔とはちょっと違う。まるで悪戯を成功した時のような、どこか不透明な笑い方。
なぜかその表情を見て、背筋が伸びた。
「ほらほら、邪魔しちゃ悪いでしょ。行こ!」
「そうだねー。じゃあ二人とも、また休み明けね!」
からんころんと下駄を鳴らして、みんなが通り過ぎていく。
それを呆然と眺めてから、私は我に返った。
「あっ、狼谷くん……手、離さない……?」
今更かもしれないけれど、また誰かに見られたら困る。
私の提案に、狼谷くんは「そうだね」とすんなり距離を取った。
「まさか知り合いに会うとは思ってなかった……タイミング悪かったね。ごめん」
「いやいや大丈夫だよ、仕方ないよ!」
狼谷くんの目がすごく悲しそうだったから、こっちが申し訳なくなる。
ほんとに、こればっかりは仕方ない。わざとじゃないし。
「でも、噂になっちゃうかも。俺のせいで変な誤解されただろうし……」
頭を垂れる狼谷くん。
確かに噂されちゃうかもしれないけれど、その時はその時だ。ちゃんと否定すればいいし、時間が経てば薄れていくだろう。
「あー、焦った……びっくりしてちゃんと否定できなかった。ごめん羊ちゃん……」
「ううん! 私も何も言えなくてごめんね……!」
狼谷くんも焦ってたのかあ……!
急いだり慌てたりするところはあんまり見ないから珍しい。
「ええっと……狼谷くん、わたあめあるよ! 食べる? あっ、甘いものそこまで好きじゃないんだもんね、えーと……」
落ち込んだままの彼を何とか励まそうと、右へ左へ頭を振る。
あちこちに屋台が出ていて、いつの間にかすっかり辺りは暗い。
「あ、焼きそば! たこ焼きもあるよ! 私買ってくるね!」
今あんまり混んでないみたいだし、すぐに買えそう。
駆け出そうとした私の腕を、狼谷くんが掴んだ。
「だめ、はぐれちゃうよ。一緒に行こ」
「ええ……すぐそこだよ?」
「やっぱり手繋いでもいい? はぐれたら困る。知り合い見つけたらすぐ離すから」
言いつつ彼が私の指先に触れる。
「う、うん……分かった……」
答えたと同時に、手のひらが温かいものに包まれた。
狼谷くんに触られたところから伝染するように熱くなっていく。
「らっしゃーい」
漂うソースの匂い。それを胸いっぱいに吸い込んで、私は屋台のおじさんに注文する。
「たこ焼き一つください」
「はいよ!」
財布を取り出そうとした時、横からすっと腕が伸びてきた。
「まいどー!」
目の前で行われる物々交換。
狼谷くんが小銭をおじさんに手渡して、プラスチック容器を一つ受け取った。
「え、狼谷くん……!」
さっきご馳走になってしまったから、せめてここは私が払おうと思ったのに。
「出させてよ。今日付き合ってくれたお礼と、さっきのお詫び」
「そんな、申し訳ないよ! 狼谷くんだけのせいじゃないし……」
「じゃあ、これはお願い。こうしないと俺の気が済まないから、奢られて?」
「狼谷くん〜……」
なんて優しいんだ……。
こんなに良くしてもらって、私なんにも狼谷くんに返せていない。
「ほら、座れるとこ行こう。こっちに花火見える場所あるらしいから」
促されるまま歩いていくと、屋台の陳列が途絶えてひらけたところに着いた。
地べたに座り込んでいる人もちらほらいて、ここで花火を鑑賞するみたいだ。
すると、狼谷くんはおもむろに自身のシャツを脱ぎ始めた。
びっくりしすぎて固まっていると、彼はそれを地面に敷いて微笑む。
「ここ、座っていいよ」
良かった、中にティーシャツ着てたんだ。……って、いやいやそんなことよりも。
「ええ!? む、無理だよ! 狼谷くんの服の上なんて座れないよ!」
「そのまま座ったら羊ちゃんの服が汚れちゃうよ?」
「お互い様だよ!? それくらい大丈夫だから!」
石畳になっているから、全然大したことないのに。
そこまで気を遣われるとは思わなかった。
頑なに動かない私に、狼谷くんは腰を下ろす。
「ほら、おいで?」
ぽんぽん、と隣の空間を叩く彼に、根負けしてしまった。
当人が座ってまで言ってくれているんだから、ここで断るとさすがに無粋だ。
「ありがとう……お邪魔します……」
「はい、どうぞ」
そう答えた狼谷くんがクスクスと肩を揺らす。楽しそうなのが唯一の救いだ。
「羊ちゃんは夏休み中なにするの」
何気ない話をしている最中、そんな質問が飛んできた。
うーん、と宙を見つめながら考える。
「カナちゃんとあかりちゃんと遊びに行って、お盆におばあちゃんのところに行って……」
羅列しようとしたところで、思いのほか予定がないことに気が付いた。
仮にも花の女子高生なのに、小学生並みの回答だ。
「宿題は頭にないんだ?」
狼谷くんが揶揄うように言う。
「えっ、あ、もちろんやるよ? まだ、もうちょっと先でもいいかなあって……」
「羊ちゃんって意外と宿題溜め込むタイプなんだね」
「バレました……?」
叱られた子供みたいな気分だ。
首をすくめていると、狼谷くんはすうっと目を細めた。
「じゃあ、一緒にやる?」
「え?」
「一人だとやる気起きなくない? 誰かと一緒の方が捗るかなって」
確かに。部屋にいても絶対手をつけないし、かといって図書館に行くのも億劫だし。
それは名案だ、と私は馬鹿みたいに頷く。
「いいね! 監視してくれる人がいると助かるよ」
「ほんと? じゃあ決まり」
ふわ、と口元を綻ばせた狼谷くんを見ていると、遠くの方で低い音が鳴り響いた。花火が打ち上がったようだ。
夜空に視線を泳がせる。
火種がひゅるひゅると闇を切り裂いて、大きく花開いた。
「わ、ハートだ!」
ピンク色の光が弧を描いて落ちていく。
そのすぐ後に、真っ赤なハートが打ち上がった。
しばらく空を見上げながら、花火ってこんな感じだったっけ、と少し不思議に思う。
何だろう。すごく綺麗なんだけれど、何かが足りない気がする。
「羊ちゃん」
突然呼ばれたかと思うと、狼谷くんはぐっとその距離を詰めてきた。
「動かないでね」
「え――?」
狼谷くんの腕が伸びてきて、私の背中に回る。
そのまま力強く引き寄せられて、私は彼の腕の中に収まった。
「え、な、狼谷くん……!?」
頭の中がパニックだ。
なんだかいい匂いがするし、くっついたところが熱いし――
「こーら。じっとしてて」
「へ、ぁ……」
耳の中に直接吹き込まれるように囁かれて、完全に腰が抜けた。
いつもの声じゃない。ずっと低くて、大人っぽくて、少し掠れた「男の人」の声。
「はい、虫とまってた。取れたよ」
そう言って体を離した狼谷くんに、はああ、と項垂れる。
「びっくりしたー……ありがとう」
いちいち暴走する自分の心臓が情けなかった。
狼谷くんは女の子の扱いに慣れているんだから、こんなことで動揺していてはきりがない。
汗の滲んだ手を握りしめ、気合いを入れ直す。
と、自分は汗臭くなかっただろうかと猛烈に心配になった。
「あ、あの、狼谷くん……私、汗臭くなかった……?」
「え? 全然。俺の方が汗かいてるよ」
「ええ……? いや、いい匂いしたからそんなことないと思うけど……」
そこまで口走ってから、失言だったかもしれないと思い至る。
いい匂いしたとか、絶対余計なことを言ってしまった。なんか変態みたいだ。
「羊ちゃん、この匂い好き?」
「えっ、うん……」
「そっか。じゃあ普段からつけようかな」
あ、狼谷くん、香水みたいなのつけてたのかな。
さすがやっぱり上級者は違う。私もそういうの、そろそろ買った方がいいんだろうか……。
「俺も羊ちゃんの匂い好き」
「え!? 何もつけてないよ!?」
「そうなの?」
こて、と首を傾げた狼谷くんが再び近付いてくる。
「え、あの、狼谷くん……?」
また虫でもとまってたんだろうか。
至近距離で見つめられている状況に耐えられなくて、思わず目を瞑る。
刹那、すん、と息を吸う音が耳に届いた。
「うん。いい匂い」
――吸った!? 今すんって! すんって聞こえたよね!?
今日一日だけで、一体どれほど心臓に悪いことをするんだろう。
既に元に戻った狼谷くんの瞳には、花火の光が入り込んで輝いていた。
違和感の正体は、花火の色だ。
普通は黄色や青や緑なんかが打ち上がるのに、今見ている花火はさっきからピンクと赤ばかり。だから色彩的に物足りなく感じたんだと思う。
「花火、ピンクで可愛いね。何でずっと同じ色なんだろう」
すっかり落ち着いた空気の中で、私は素朴な疑問を口にする。
狼谷くんは「あー……」と言い淀んでいて、何か知っているみたいだった。
「カップル向けのイベントだからね」
「そうなの!?」
どうりで仲睦まじい男女のペアばかり目に入るわけだ。
花火師さんもわざわざそのために準備しているなんて、随分協力的なんだなあ。
「……怒んないの?」
ぽつりと、隣からそんなことを聞かれた。
「え? 何で? 何が?」
「カップル向けイベントってこと、黙ってたの、怒んないの?」
狼谷くんが不安げに瞳を揺らす。
何で私が怒ると思ってるんだろう。彼の聞きたいことがいまいちよく分からない。
「んーと……狼谷くんは、気を遣ってくれたんだよね?」
ここまで伏せてたってことは、そういうことなんじゃないのかな。
変な空気にならないように、普通にお祭りを楽しめるように、配慮してくれていたってこと。
「今日一日、ほんとに色々ありがとう。すごく楽しかったよ!」
いつかちゃんとお返ししないとなあ。
そう思いながら、私は夜空を見上げる。
一層低い音が鳴って、大きなハートが暗闇を照らした。
「――大好き」
花火が打ち上がったと同時。
狼谷くんが言い放った単語に、頭が真っ白になる。
「え……?」
彼の方を向くと、しっかりと目が合った。
「って、言うと別れないってジンクスがあるんだって。花火が打ち上がった瞬間に」
「……あっ、そ、そうなんだ……!」
ほんの一瞬、狼谷くんの瞳に囚われて動けなくなってしまったような気がして。
息を吹き返したように、体中どくどくと血が巡り出す。
無造作に放り出していた手を握られ、「これもジンクスだよ」と微笑む狼谷くんに降参したのは、その数分後だった。




