濡れぬ先の傘3
天気予報によると、今日は快晴だった。
それが外れることもなく、朝から太陽が眩しい。
一週間の夏期講習も終わって、ようやく本当の夏休みだ。
特にこれといった予定もなく、クーラーのきいた快適な家でアイスを堪能すること数日。
「じゃあ行ってくるね」
久しぶりに押し入れから引っ張り出してきたワンピースを着て、これまたしばらく眠っていたサンダルを履いて。
いつもより念入りに髪を整えて、玄関でお母さんにそう言った。
「行ってらっしゃい。帰りは遅くなるの?」
「ううん、そんなにかからないと思う。帰る時に連絡するね」
「はーい。気を付けてね」
ドアを開けた途端、むわっとした空気が体にまとわりついてくる。
私は案外それが嫌いじゃない。夏だなあって気がして、ちょっと気分が上がるから。
最寄り駅から普段はあまり行かない方面の電車に乗って、間違えてないだろうかと何度も確認した。
念のため随分早めに家を出たし、多分大丈夫だと思う。
電車に揺られながら、暇を持て余してスマホを操作する。
『風鈴祭り』
検索エンジンでそう打ち込んで調べてみた。
今日は狼谷くんと約束をしていた日だ。
待ち合わせ時間は午後の二時。
昼ご飯も夜ご飯も一緒に食べることにならなさそうな時間帯で、正直ほっとした。
別に彼と食事をするのが嫌なわけじゃないけれど、長い時間向かい合って座るのはきっとすごく緊張する。
勉強をみてもらっていた時はそんなこと考えなかったのに、最近の狼谷くんが心臓に悪いからだ。
色々サイトを見てみたけれど、風鈴祭りについての起源だとか、豆知識だとか、そういった情報は得られなかった。
その代わりに、おすすめのスポットやジンクスといった内容が目立つ。
顔を上げると、降りる駅の一つ手前だった。
危ない危ない。慌ててスマホから車内へと意識を移す。
「あつー……」
この時間帯は電車も混んでいなくて、降りる人も少なかった。
誰にも聞こえないのをいいことに、思わず独りごちてしまう。
この駅のホームで落ち合おうという話になっていたから、とりあえずすぐ近くの椅子に座って待つことにした。
待ち合わせ時間の四十分も前に着いてしまって、内心苦笑する。
遅れるよりはマシかな。飲み物でも買ってこよう。
それにしても、ちょっと中心街から離れただけでこんなに穏やかな風景が見れるんだなあ。
緑が多くて、風や虫の鳴き声がよく聞こえて、こういうところはすごく好きだ。
自販機でスポーツドリンクを買ってから、再びホームでのんびりと自然の音に耳をすませる。
そっと目を閉じていると、しばらくして、かたんかたん、と電車が近づく音がした。
「……羊ちゃん?」
我に返ったのは、そんな声が飛んできてから。
目を開いて振り向くと、狼谷くんがなぜかすごく驚いた表情で立ち尽くしていた。
「狼谷くん! ……ええと、おはよう?」
もう昼過ぎだから、絶対におはようではない。でも、こんにちはもちょっと違う気がする。
それよりも、狼谷くんを改めてまじまじと観察してしまった。
普段真っ直ぐ下に伸びている毛先は、今日はふわふわとしている。
黒いスキニーが彼の長い足を綺麗に演出していて、大きめの白シャツもすごくセンスがいい。
なんというか、ほんとに、どうしよう。
ただでさえ容姿がいいのに、制服という制限がなくなってしまうと、本当に狼谷くんはモデルのようにかっこいい。
「おはよ。ごめん、こんな暑い中待たせちゃって……」
謝る彼に、私はぶんぶんと首を振った。
こんなに早く着いたのは完全に自分のせいだし、狼谷くんは悪くない。
「はあ……もう最悪、羊ちゃん待たせるとか……」
「え! えっと、本当に気にしなくていいよ!? むしろごめんね、私が不安で早く来すぎただけだから!」
片手で顔を覆って息を吐く狼谷くんに、必死に言い募る。
全然顔を上げてくれない。困った。
「あ、あのね、ここすごく色んな音が聞こえて楽しいよ! 虫の声とか、木が揺れる音とか……狼谷くんを待ってる時間、全然苦じゃなかったから、ほんとに、気にしないで」
さっき買ったばかりのペットボトルを彼に差し出す。
すると、それを視界に入れた狼谷くんが不思議そうに私を見た。ほっとして笑いかける。
「狼谷くんも暑かったよね、水分取ろう? ごめんね、ちょっとだけぬるいけど……」
よく見れば彼は汗をかいているし、結果的にそこまで待っていないし、そんなに落ち込まないで欲しい。
「狼谷くん、こんなに早く来て私を待ってくれようとしてたんだね。ありがとう」
そう言った途端、彼は目を見開いて、それからすぐに泣きそうな顔をした。
頬がほんのり赤らんでいる。電車と外との気温差のせいかもしれない。
「……はあ……もう、好き……」
「へっ!?」
突然、狼谷くんが苦しそうにそう零した。
ペットボトルを持っていた手首を捕まれ、心臓が大きく跳ねる。
「…………これ、好きなんだよね。ありがとう」
飲み物のことか……!
とんでもない勘違いをしそうになった。
動揺しすぎて「どういたしまして」もまともに言えない。
「あああの、狼谷くん! い、行こう……?」
とにかく切り替えないと。出だしからこんな調子でどうするの、私!
せっかく狼谷くんは純粋に友達として慕ってくれているんだから、普通に接しないといけないのに。
「うん……羊ちゃん、」
「ん?」
「今日お下げなんだ。可愛いね」
する、と狼谷くんの手が私の髪を撫でる。
その手つきも、声色も、表情も。蕩けそうなくらい甘くて、その場に固まってしまった。
「服も、可愛い。全部可愛いよ」
可愛いの大出血セールなんですが――――!?
息をするように褒める彼に、こっちは息が止まりそうだ。
「行こっか」
先程までの切羽詰まった様子はどこへやら、狼谷くんは嬉しそうに歩き出した。
「羊ちゃん、おいしい?」
「うん……おいしい……」
狼谷くんに連れられて来たのは、落ち着いた雰囲気の抹茶専門店だった。
お祭り自体は夕方からだそうで、それまで時間があるから、とここへ入ったはいいんだけれど。
さっきからずっと、目の前で狼谷くんは私を凝視している。
もうそれが気まずくて気まずくて、そして恥ずかしくて耐えられない。
「あ、あの、狼谷くん、アイス溶けちゃうよ」
彼が注文したのは抹茶アイスだった。
私はそれにするかケーキにするか悩んで、結局ケーキにした。
なかなか決められない私に、狼谷くんは「どれで迷ってるの?」と尋ねてきて。
答えたら、羊ちゃんが頼まなかった方は俺が頼むから、と言って店員さんを呼んでしまった。
「うん、気にしなくていいよ。これも羊ちゃんが食べていいから。ああごめん、アイス先に食べたい?」
「うーん? えっと、そうじゃなくて」
なんだろう、この絶妙に噛み合わない会話は。
にこにこと上機嫌な狼谷くんに、私は戸惑ってしまう。
「私だけ食べてるの恥ずかしいから、狼谷くんも食べよう……? 一緒に食べたい……」
恐る恐る懇願すると、今の今まで笑っていた狼谷くんが真顔になった。
私なんかまずいこと言ったかな……いやでもこれ以上はいたたまれないし……。
「……うん、食べる」
へら、と眉尻を下げた狼谷くんは、納得してくれたみたいだ。
それに安堵して、私は何か違う話をしようと思考を巡らせる。
「あ、狼谷くんって抹茶好きなの?」
「え? うーん……普通かな」
「そうなんだ……じゃあ、甘いものは?」
「嫌いじゃないけど、そこまで普段食べないよ」
返ってきた質問の答えに、思わず首を傾げた。
抹茶も甘いものも特別好きというわけじゃない。だったら、どうして今日ここに来たんだろう?
「抹茶って好き嫌い分かれるよね……」
「ああ、確かにそう聞くかもね」
胸の中で、何かが引っかかる。その正体は掴めない。
彼は入る前に「ここでいい?」と確認はしてくれたけれど、割と躊躇がなかったし、てっきり抹茶が好きなのかと思っていたのだ。
私は抹茶が好きだから、内心ラッキーだなって嬉しかったけれど。
「羊ちゃん、門限とかある?」
ぼんやり考え込んでいると、そんな質問を投げかけられた。
「ううん、特にないよ」
「そっか、良かった。今日の夜、花火上がるらしいからさ。一緒に見たいなと思って」
「そうなんだ!」
花火をちゃんと見るのは小学生以来だから、実は結構楽しみだったりする。
軽くお祭りを見て回って帰るのかなと思っていたばっかりに、嬉しいサプライズだ。
「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」
狼谷くんはそう言い残すと、立ち上がって奥の方へ行ってしまった。
そうだ。帰りが遅くなりそうだし、今のうちにお母さんにメールしておこう。
花火みてくるね、と自慢混じりの内容を送信した。
『あれ、今日お祭り行く予定だったの?』
返信が早い。そういえば友達と遊びに行ってくるとしか言ってなかったな、と思い至った。
でも何で花火だけでお祭りって分かったんだろう。
『そうだよー』
『風鈴祭りって夕方からじゃなかった? 大丈夫?』
『いまお店で涼んでるから大丈夫!』
メールを終えて、はたと気が付く。
狼谷くんは「風鈴祭りに」一緒に行こうと誘ってくれたけれど、お祭り自体は夕方からだ。
わざわざこんな早く待ち合わせしてしまって、彼の時間を割いてもらっている。
ちゃんと開始時間を調べておけば良かったなあ。
狼谷くんの提案してくれた時間に、深く考えずに了承してしまった。
一日中私と一緒にいて、つまらなくないだろうか。急に不安になってきた。
「羊ちゃん、お待たせ」
「わっ」
「なに、どしたの慌てて」
スマホの画面を伏せ、狼谷くんを見上げる。
「……退屈じゃ、ない?」
私の問いに、彼はしばらく黙ったままだった。
「退屈って……俺が? 何で?」
やがて口を開いた狼谷くんは、純粋に訳が分からない、といった様子で聞いてくる。
自分って卑屈だなあと思う。
でも仕方ない。私は飛び抜けた取り柄があるわけじゃないし、こんなにキラキラとした狼谷くんに優しくしてもらうほど、怖くなってしまうのだ。
「え、えっと……私、あんまり気の利いたこと言えないし、狼谷くんに色々気を遣わせてるんじゃないかと思って」
本当は素直に喜びたい。
でも時々、周りからの目が気になってしまう。
『だから、深入りしない方がいいよ』
津山くんの言葉が、いつもストッパーとなって私を冷静にさせてくれる。
その通りだ。私なんかが狼谷くんを分かったつもりでいるなんて、おこがましい。
「――なに考えてるの?」
やけに鮮明に聞こえた声。
顔を上げると、狼谷くんは身を乗り出していた。
「羊ちゃんはそんなこと気にしなくていいんだよ。俺が勝手に構ってるだけなんだから」
その目は。
有無を言わさない目だ。奥底に暗いものが沈んでいて、私を縫い付けるように、捕食するかのように鋭い視線。
「それとも、」
彼が唇の端を持ち上げる。
「誰かに何か言われた?」
瞬間、ぞわりと背筋が震えた。
口元は確かに笑みを浮かべているはずなのに、それ以外の部分が全く笑っていない。
私の反応に目敏く気が付いた狼谷くんは、その無機質な笑顔を崩して問い詰めてきた。
「誰? こないだの女子? 男だったら絶対許さないんだけど――」
肩が跳ねる。彼の目が、動いた。
「男なの?」
悲鳴を上げそうになった。
こんな狼谷くんは知らない。見てはいけないものを見てしまったような気がする。
「へえ……そっか。言ってごらん? 羊ちゃんにそんなこと考えさせてるのは誰?」
そっと顎に手を添えられ、強制的に彼と目が合った。
だめだ。無理、怖い。全然知らない男の人みたい。
「……や、」
「羊ちゃん――」
目の前の彼の顔が歪む。
たちまち視界がぼやけて、喉の奥が熱くなった。
「やだ……やだよ、戻って、狼谷くんっ」
「え……あ、羊ちゃん……ごめん、泣かないで……」
狼谷くんが何か得体の知れないものに乗っ取られてしまったようで怖い。
「ああ……ごめん、ごめんね……びっくりしたよね、ごめん……」
彼の指が私の目尻を拭った。
少しクリアになった視界に、狼谷くんの困りきった顔が映り込む。
「つ、津山、くんが」
「うん……?」
ここで嘘をついても、きっと良くない。
正直に話した上で、津山くんは悪くないんだとちゃんと弁解しよう。
「前に、津山くんと話した時……ちょっとだけ、色々」
「岬に? 言われたの?」
再び狼谷くんの目が光る。
「で、でも! 違うの。津山くんは、親切心で言ってくれただけだから……」
二人の仲がこじれてしまうのは絶対に避けたい。
慌てて説明するも、狼谷くんは眉間に皺を寄せたままだ。
ちっ、と音が聞こえて、私は今度こそ凍りついてしまった。
「あいつ、余計なこと言いやがって……」
舌打ち!? いま舌打ちしたんだよね!?
狼谷くんはいつも優しいから忘れていた。
私に対しては喜怒哀楽の「喜」と「楽」しかぶつけてこないし、彼が怒ったところを目の当たりにして心底驚いている。
当たり前だけど、狼谷くんも怒るんだ。
しかも、今まで出会った中で一番怒らせちゃいけない人だと思う。
「あああ違う、違うよ! ごめん、ほんとに津山くんは悪くないの、お願いだから怒んないで……」
声が震えた。怖々と彼の袖を引くと、狼谷くんはその私の手を優しく包む。
「ああ、ごめん、大丈夫。あいつにはちゃんと言っておくから。羊ちゃんは何にも気にしなくていいからね」
彼はあやすような口調で私の手を撫でた。
そしてそのまま自分の顔まで持っていくと、頬を寄せて微笑む。
「怖がらせてごめんね」
俺とお祭り行くの嫌になった? 帰る? と縋るような眼差しで聞かれ、私は首を振った。
その捨てられた子犬みたいな仕草、やめて欲しい。
「……良かった。ありがとう」
柔らかい笑顔にほっとする。
狼谷くんは温かいお茶を頼んでくれて、それをゆっくり飲んでいるうちに気持ちも落ち着いてきた。
きっと狼谷くんは義理堅いんだ。
仲良くなった人には、すごく誠実に接してくれるんだと思う。
「じゃあそろそろ行こうか」
彼の言葉に頷いて、外をちらりと見やる。
空はほんのりオレンジがかっていて、複雑な色合いがとても綺麗だった。
狼谷くんがあまりにも自然とお店を出て行こうとするから、途中まで会計をしていないことに気が付かなかった。
「あ! お会計!」
テーブルの上とかちゃんと確認しなかったけれど、伝票とかあったのかな?
立ち止まった私に、狼谷くんは「ん?」と振り返る。
ん? じゃない。お金は大事。
「お客様」
店員さんに呼び止められて、振り返った。
ああごめんなさい。ちゃんと払うつもりでした……。
「お代はもう頂いております」
こそこそ、と耳打ちをされて、私は「え?」と間抜けな声を上げる。
「羊ちゃん、行くよ」
「え、え? あの、えっと……」
私の腕を引く狼谷くんと、なぜか満面の笑みの店員さん。
二人を交互に見ながら、私は釈然としないままお店を後にした。




