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濡れぬ先の傘2.5―Gen Kamiya―

 


「えーと、強いて言うなら……一途な人、かな?」



 何気なく、といった様子で彼女の口から放たれたその言葉に、足元が崩れていくような気がした。


 カラン、と音が鳴る。

 自分の握っていたチョークは、先が折れていた。



「……玄。早く書かないと」



 岬の声が聞こえるが、今はそれに答える余裕もない。

 ただただ目の前の黒板を見つめ、俺はまさしく途方に暮れた。


 視界が真っ黒に塗りつぶされたように、胸を重たい石で押しつぶされたように、辛く息苦しい。



「狼谷くん」



 だめだ、やめてくれ。いま呼ばれたら俺は、



「あ――」



 彼女を瞳に映したその瞬間、激しく後悔した。


 きっと俺は酷い顔をしている。

 それは彼女の表情を見れば明白で、自己嫌悪と行き場のない怒りにも似た感情が頭を掻き乱す。



「……狼谷、くん?」



 どうしたの、と。その唇が動いた。

 純真な二つの眼差しは心配の色をたたえていて、俺は耐えきれずに顔を背ける。


 岬が何か言っている気がした。

 それもよく分からない。今は何も聞きたくない。


 彼女が見えない場所へ行けるのなら、どこでも構わない。


 席へ戻った俺は、ひたすらに時が過ぎるのを待った。





 ***





「おい、玄。いい加減開けろよ」



 自分の部屋のベッドに寝転んでいると、そんな声がドア越しに飛んで来る。

 返事のない俺に、岬は昨日と同様「明日は来いよ」と言い残して帰っていった。


 あの日、どうやって帰ったのかも、家に着いたあとどうしたのかも、全く覚えていない。


 確かに感じたのはずっと胸を刺し続ける痛みだけで、自分は死ぬのだろうかと本気で思った。


 週明け、学校に向かう気力も体力もなく、丸一日サボった。

 思えば久しぶりだ。最近は朝から夕方までちゃんと受けていたから。



『狼谷くん、すごい……何者……?』



 閉じた瞼の裏に、羊ちゃんの顔が浮かぶ。



『わ〜……ほんとに魔法みたいだよ、やっぱり狼谷くん魔法使いなのかなあ……』


『やっぱりって何』



 目をぱちくりとさせて、興奮気味に俺を評価した彼女。

 そのあどけない笑顔は今でもはっきりと思い出せる。


 笑ってくれるのが、褒めてくれるのが嬉しくて、積極的に彼女を探すようになった。

 目が合った時、ふわりと柔らかい笑みを零す様がどうにも忘れられない。


 分かってる。

 今まで経験したことのない胸の高鳴りは、彼女に対する自分の気持ちを表すのに十分すぎた。



「あー……まじか」



 よりにもよって、こんなところで自覚するとは。


 羊ちゃんの好きなタイプ――最初は純粋に気になって聞き耳を立てていただけだった。

 それが、彼女自身の言葉で一気に突き落とされた。


 いや、そんなのは俺の勝手な被害妄想であって。

 勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになっている。


 当然だ。彼女はごく普通のことを言ったまでだ。

 付き合うなら一途な人を。そう願うのは当たり前だろう。


 ただ、それを聞いた途端、自分の中で何かが弾けた。

 羊ちゃんは当たり前のように俺を除外して――除外したという感覚すらないのかもしれない――いつか出会う男と恋に落ちることを望んでいる。


 自分にとって羊ちゃんは特別な女の子だった。

 それは一言で形容するには何とも難解で、あやふやな「特別」だったけれど。


 大事にしまって傷をつけないように、鍵をかけておくように、そうやって守るべきものだと思っていた。


 それが、いつか遠くへ行ってしまう。いつか、絶対に手の届かないところへ。

 そこまで考えて、俺はようやく自分のこの胸の痛みが何なのかを分かり始めたのだ。



「…………いや、バカかよ俺は」



 小学生や中学生じゃあるまいし、と誰か盛大に笑って欲しい。


 とはいえそれが分かったと同時に、俺のような人間が彼女の隣に立つには、やはり相応しくないのだとも思った。


 羊ちゃんは太陽の下で笑っているのが一番似合う。

 俺はせいぜい、真夜中にひっそりと月明かりを探し、さ迷っているくらいがちょうどいい。


 分かってる、全部。

 でも俺はこの気持ちの扱い方を知らない。彼女の顔を見たら、きっと情けないことになる。


 手を伸ばしたくても伸ばせない。伸ばしたって届かない。

 自分は酷く臆病で、穢れていて、空っぽだ。


 満たされたことなんて一度もなかった。

 どれだけ体を重ねても、愛を囁いても。その瞬間が終われば、たちまち虚しさが胸を突く。


 だからその空虚な時間が少しでも短くて済むように、俺は数え切れないほど行為を繰り返した。

 なるべく都合の悪いことは見て見ぬふりをした。


 なのに、彼女は。



『私が見てるよ』



 たった一言で、俺の心の埃を取り去ってしまった。

 重くのしかかっていたものが、羽のように軽く、飛んでいった気がして。


 ……ずるい。ずるいよ羊ちゃん。


 乾き切っていた心に水を注がれて、俺は「満たされる」という感覚を知ってしまった。

 だからもう、乾いたままでは辛い。


 他でもなく、彼女に満たされたいと願ってしまったんだ。





 ***





 一体、今日で何日目だろうか。

 朝から曇っていた空は、次第に雨粒を落として地面の色を変えていった。


 机の上に乱雑に置いていたノートを手に取る。


 羊ちゃんは、ちゃんと勉強できているだろうか。

 また凡ミスをして答えが合わないと嘆いていないだろうか。


 隙さえあればそんなことが頭に浮かぶ。



「おーい、玄」



 今日も例によって、岬がやって来たようだ。

 こいつも、よくまあ毎日訪ねてくるものだと感心する。



「いつまでそうしてんの。今週も明日で終わりだけど」



 そう言われた瞬間、ようやく息をしっかり吸えた気がした。


 気が付くと俺はドアを開けていて、目を見開く岬に問いかける。



「今日って、何曜日」



 端的にそれだけ聞いた俺に、岬は瞬きを繰り返して「木曜日だけど」と首を傾げた。

 その答えを耳に入れるや否や、時計を確認してから制服に腕を通す。



「ちょ、ちょちょ……! 何、どこ行くの?」



 慌て出した岬に、俺はネクタイを適当に締めながら返した。



「どこって、学校」


「は? 今から? 何で?」


「委員会」



 今から行っても間に合わないかもしれない。いや、たぶん間に合わない。


 冷静な自分が「行ってどうするんだ」と諭してくる。


 でもそれは、ほんの些細な抵抗だった。

 今の自分を突き動かしているのは本能的な何かで、分からない、分からないが今すぐ彼女に会いに行きたかった。



「委員会って……もう終わるだろ」


「うるさい」


「玄!」



 今は一分一秒が惜しい。

 徐々に強まる雨足に、俺はそのまま家を飛び出した。



『私、狼谷くんの笑った顔好きだなあ』


『お誕生日おめでとう!』


『狼谷くんはすごく優しくて、丁寧で、いい人だよ。ちゃんと話せば分かると思う!』



 羊ちゃん、羊ちゃん、――ねえ羊ちゃん。

 俺を見つけてくれてありがとう。俺の前を照らしてくれてありがとう。


 どうか許して。こんなクズが、君みたいな眩しい子に焦がれてしまうことを、どうか。

 綺麗で穢れのない君の瞳に映りたいと思ってしまったことを、許して欲しい。


 そして願わくば――また、君の隣を歩きたい。







 息を切らしてまで会いに行きたい人ができるなど、少し前の自分は想像しただろうか。


 彼女は廊下に立ち止まり、窓の外を黙って見つめていた。

 その表情がいつになく大人びていて、目を奪われる。



「羊ちゃん」



 何か考え事でもしていたのか、二回目の呼び掛けでようやく彼女は振り向いた。



「良かった。まだ、いた」



 そもそも帰っているかもしれないと思っていたので、心底安心した。

 膝に手をついて息を整える。


 狼谷くん、と遠慮がちに俺の名前を呼んだ彼女は、恐る恐るといった様子で近付いてきた。



「だ、大丈夫? 風邪引いちゃうよ。傘ささずに来たの?」



 羊ちゃんはそう言ってポケットを漁ると、そうするのが当然のごとくハンカチを俺の顔にあてがう。


 柔らかい布の感触と、耳朶を打つ彼女の声。

 一週間ぶりに会ったということも相まって、たちまち胸が苦しくなった。


 無視したのに。それなのに、こんなに優しくしてくれるの。

 彼女がくれる無償の優しさに、溺れてしまいそうだ。



「か、狼谷くん……?」



 衝動的に彼女の手に触れた。


 ああ、その声だ。俺はずっと、羊ちゃんに名前を呼んで欲しかった。

 心配そうに見つめるその瞳も、温かいこの手も、全部愛おしい。



「あの時も、こうだったよね」



 堪らず彼女の手に擦り寄って、俺は口を開いた。



「俺がぶたれた時も、羊ちゃんはこうやってくれた」



 一番情けないところを見られたと思う。

 それなのに、羊ちゃんは俺のだめなところを丸ごと受け止めてしまった。



「あの時は保冷剤が冷たくて気付けなかった。羊ちゃんの手、こんなに温かいんだって」



 冷めきっていた心を、ゆっくり溶かすように。

 羊ちゃんは俺のことを魔法使いだなんて言ったけど、それは彼女の方だ。



「俺はずっと、羊ちゃんに『ありがとう』って言いたかったんだ。俺を助けてくれて、ありがとうって」


「そ、そんな、大袈裟だよ。あの時はたまたまいただけだし、冷やしただけだし、それに……」



 わたわたと片方の手を振って謙遜する羊ちゃんに、俺は「ううん。嬉しかったよ」と言い切る。


 お願い、逃げないで。受け止めて。

 俺にとって君がどれだけ大切なのか知って欲しい。


 ずっと腕を上げっぱなしでは辛いだろう。

 彼女の手をそっと下ろして、両手で握り直した。



「羊ちゃん」


「は、はい」



 もう誤魔化したくないと思う。

 せめて彼女に対しては、真っ直ぐに向き合いたいと。



「あのさ。連絡先、交換しない?」



 案の定、どうしてと問う彼女に、俺は答えた。



「これから夏休みだし、今みたいには会えないから。寂しいなと思って」


「さ、寂しい」



 戸惑ったように視線を彷徨わせる羊ちゃん。

 いきなりパーソナルスペースを詰められて、困っているのは手に取るように分かった。


 本当に彼女のことを想うなら、身を引くべきなのかもしれない。

 だけど、欲深い自分にその選択肢はなかった。



「……羊ちゃんは、俺の唯一の女友達なんだ」



 ごめんね。俺は狡いから、諦められそうにない。どうにかして君に取り入りたいと思ってる。


 最初はあくまで友達として安心させてから、ゆっくり距離を詰めていこう。

 彼女に会える口実を作って、少しずつ慣らしていくように。



「他の女の子は、みんな俺のこと『そういう対象』としてしか見てないから。一緒にいて純粋に楽しく笑っていられるのは、羊ちゃんだけなんだ」



 極めつけに、眉尻を下げて笑ってみせた。


 優しい彼女はきっと、可哀想だと思ってくれるだろう。

 同情からでもいい。俺の側にいてくれるのなら、何でも。



「そ、そっか……」


「うん。だから、時々メッセージ送ってもいい? 夏休み中も、どっか遊びに行こ?」



 畳み掛けるような俺の口調に、羊ちゃんは驚いていた。

 声を上げた彼女に、わざとらしく媚びを売る。



「……だめ? 迷惑?」


「め、迷惑だなんてそんな……!」



 はっとしたように首を振る彼女に、内心したり顔だった。


 羊ちゃんは押しに弱い。頼まれ事は断れない性格だ。

 下手に出て、「迷惑」だなんて単語を持ち出して、彼女の罪悪感を煽るような表情をすれば。羊ちゃんは絶対に頷いてくれる。


 狡いと言わば言え。それほどまでに余裕がない。


 大丈夫、と俺の手を握り返してくれた彼女に、いまこの子を独り占めしているのは間違いなく自分なのだと実感した。



「……嬉しい。ありがとう」



 やっぱり、満たしてくれるのは羊ちゃんだけ。


 みるみるうちに目の前の顔が赤くなって、少し意地悪したくなる。

 彼女はこういうことに耐性がないからなのか、すぐそうやって俺を煽るのだ。



「羊ちゃん、顔赤いよ。大丈夫?」



 自分の顔が良いのは知っている。

 それが武器になるのなら、いくらだって使うつもりだ。


 きっかけは顔でもいい。でも、いつか。

 他でもなく、「俺自身」にそうやって可愛らしい表情を見せて欲しい。



「ここも、真っ赤……」


「ひゃっ」



 熟れたように色付くその耳に、吐息混じりで囁いた。

 びく、と肩を揺らした彼女を今すぐ食べてしまいたい。



「可愛い声」



 思わず零した自分の感想は、驚くほど甘ったるい響きだった。

 彼女を惑わそうとしているのに、逆に溶かされてしまいそうだ。


 朱に染まったままの彼女の頬を撫でる。

 震えながら気持ち良さそうに瞳を揺らす様が、酷く加虐心をくすぐった。







 そうして彼女と連絡先を交換した俺は、一つの作戦に打って出る。



「えー! いいじゃん楽しそう、行こ!」


「じゃあ、三十一日の五時集合ね!」



 教室でのクラスメートの会話。どうやら今月末にイベントがあるらしい。


 調べると、「風鈴祭り」と出てきた。

 ちょうど彼女を誘う口実も欲しかったところだし、それに何より――



「てかこれ、カップル限定じゃん!」


「あはは。まあ男女比半々で行けば大丈夫でしょ!」



 仮に彼女がそれを知っても、俺を意識してくれるきっかけになる。

 知らないままでも別にいい。二人でいるところを誰かに見つけてもらえば、噂好きの奴らが勝手に吹聴してくれるだろう。


 ゆっくり、時間をかけて、確実に。

 外堀から埋めてしまえば、彼女を怖がらせずに囲うことができる。


 そのためには念入りに準備をしなければ。


 一人ほくそ笑んで、俺は通話ボタンをタップした。

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