部下が恋をしたようだ
割烹で上げていたボツネタを連載にしました。
「どう思います?」
どう思います、って仕事しろって感じだ。
何度目かのどう思いますを聞き流し、本日締め切りの人事書類を決裁していく。部下が多いのは大変結構だが、こうした雑務があるのがいただけない。電子決済になったのはありがたいが、入力ミスをしている奴らも多い。注意したところでうっかりミスがそう簡単に治るわけでもない。
ぽちぽちとミスをした奴に差し戻しを設定し、一度画面から顔を上げた。顔を上げれば、隣の脇机で書類を整理している部下の高田美咲がぶちぶち言っていた。
「彼ったらひどいんですよ。職場だって同じなのに、目を合わせてくれない。こんなにも見つめているのに無視するなんてひどすぎます」
どうやらまだこの話は続いていたようだ。手元が疎かになっていないのなら、別に無駄話ぐらいはいいのだが。会議用にまとめてもらっている資料を一式、手に取った。
「これ」
資料の綴じる順番が間違っているので指摘すれば、唇を尖らせてくる。
「課長が悪いんです。わたしの話を聞いてくれないから。コミュニケーション、大事って言われていませんか?」
「……聞いていたよ」
「ずっと流していたじゃないですか。それを聞くとは言わないんです」
無茶苦茶な言い分にため息が出るが、女性に逆らっていいことはない。適当に流して適当に宥めるのが結婚生活十数年で培った知恵だ。嫁も言っていた。女性社員が多いのだから、誰の味方にもなってはいけないと。加齢臭のするおじさんがお小言など行った日には仕事をボイコットされるし、特定の人を擁護したりしたらキツイ反乱に合う。
流せるものはすべて流せ。誰の味方にもなるな。中立を守れ!
素晴らしい格言だ。
「聞いていたよ。早川君の話しかしていなかったじゃないか」
「課長、意外と人の話を聞いているんですね」
入社したての頃とは大幅にイメージチェンジした高田を見返した。大きく見えるようにしているのか、目の周りの陰影がすごい。まつげもばっさばっさに上向いている。今の若い女性にとってはやりすぎてはいないのだろうけど、おじさんである僕には別次元の存在に見える。ああ、入社したての頃の初々しさが懐かしい。
「ここしばらく早川君の話題しか口にしていないだろう?」
「そうでしたか?」
不思議そうに首をかしげて見せているが、本当に一日中彼についてああだこうだと話している。
早川大輔。
30歳。季節外れに本社から転勤してきた爽やかイケメンだ。
人当りもよく、上司にも部下にも受けがいい。当然、社内中の女性が色めきだった。結婚十数年というベテランの既婚者女性まで瞳を潤めてうっとりする始末だ。もう10歳ほど若かったらねぇというのが彼女たちの口癖になっている。今年の口癖ランキング一位間違いなしだ。
だがこれだけは断言しておく。10歳程度では釣り合わない。さらに10歳ほど若くしないとダメだ。具体的な年齢は明言しないが、僕とあまり変わりない年齢という事だけ言っておく。
比較的何事もなく穏やかな職場に恋愛沙汰を持ち込んできたのは直接の部下の高田だ。入社して3年、とても優秀で呑み込みが早いからとても重宝していたのだが。
何をとち狂ったのか、彼が転勤してきて一週間後。
一世一代の恋をした。
どんな接触があったかわからないが、その日から優秀な部下が恋愛脳のポンコツになった。
今まで浮ついた話がなかったから、彼女までそんなことになるとは思っていなかった。今ではすっかり彼の取り巻きと化している。ここで勘違いしてはいけない。彼女はただの取り巻き、だ。つきあっているわけではない。
入社当時は真面目が服を着て歩いているような恰好だったのに、今では化粧もばっちり決め、服装は軽やかなふんわりした雰囲気を持つ女をアピールするものばかり。パンツスーツにキリリとした姿勢がすっかり鳴りを潜めてしまった。僕としてはそちらの方が仕事をしていると言った感じがあって好ましかった。
「ああ、本当に素敵。彼の部下になりたい」
それって僕の下から抜けたいということだよね?
若干遠くを見つめ、ため息を付いた。もう仕事にならない。これならやや融通の利かない男性社員の方がいい。彼の上司は僕にとっても上司だ。面倒事は一つにまとめた方がいいと言いくるめてくるか。きっとあちらはあちらで頭を抱えているに違いない。
「本当に彼の下につきたいのかい?」
「ええ。ずっと一緒にいたいもの」
いや、ここ会社だから。せめて一緒に仕事したいと言ってくれ。
ああ、今日は残業せずに早く帰って嫁に慰めてもらおう。うちの嫁だっていい女なんだ。結婚当初よりもだいぶ大らかになったけどな、物理的に横に。
ため息を付くと、上司と話し合うために立ち上がった。