7月
温暖化はなんとしてでも食い止めなくては……!! 毎年そう思ってしまう、7月。
今日も今日とて俺はフローリングの上で冷たさを求めて寝そべっていた。因みに玄関である。(自分の部屋はフローリングが見えない状態になっているのだ。)日当たりもあまりよくなく、いつもひんやりしているここの床はとても気持ちいいのだ。
「シュリちゃーん……」
愛しのシュリちゃんの歌声ををイヤホンで聴きながら涼むのはなかなかいいものだ。母さんも暑いのをわかっているためか何も言ってこない。かすかに聴こえてくる蝉の声、自動車の音。額を伝って床に落ちる汗。もう少しで意識を手放す、そんなときに玄関の扉が開いた。
「お邪魔しまー……おいこのくそオタク。何してんだよ」
須田だった。仰向けで大の字になりながら寝ているため逆さまに見える須田はいつもどおり不良さまだった。金色の髪の毛からたれてる汗がかっこいい。なんで俺の汗と須田の汗だとぜんぜん違うんだろうか。そんなことを考えながらじいっと須田を見て答えないままでいると、須田ががしっと俺の顔をつかんできた。
「はいはい、俺がカッコいいのは良く分かってるからはよ答えろや」
「んがっ、ふがふがっ」
「オタク顔がさらにキモくなってんぞー」
「うっせー! うぶっ」
顔を悪くしながら手の力をどんどん強くする須田に抵抗していると、騒ぎを聞きつけたのかリビングから母さんが出てきた。そしてにっこりと嬉しそうな顔で笑った。
「あら須田くん、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
ぱっと手を離して笑顔で頭を下げるので脛を蹴ってやったら倍以上の力で蹴り返された。力の差を考えてくれ。痛い。
母さんはそれを見てなぜかいっそう笑みを深くしてふふふとご機嫌そうに笑いながら戻っていった。
「で、どうしたんだよ。せっかく涼んでたって言うのに」
「ん? ああ、夏といえばあれだろ」
「あれ?」
にいいっと歯を見せる須田。なかなか言わないので早く言え、とがしがし足を殴ればまた蹴られた。
「プール行くぞ」
「プール?」
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来たのは一番近くにある市民プール。流れるプール、ウォータースライダー、キッズプールなどといった遊べるプールももちろん25mプールもあって、夏になるとたくさんの人が泳ぎに来る。
大半の人が遊べるプールでリアルを充実させているなか、俺は25mプールで黙々と泳いでいた。(須田はベンチのほうで偶々会った友人と話している。)小学生のころに水泳を一通り習っており、そこそこ早く泳ぐことが出来る。唯一の運動能力だ。2往復泳いだところで丁度休憩時間となったので疲れて少し重くなった体をプールから出す。
「あー…体力おちてるなぁ」
そりゃそうか。ほとんど毎日歩く以外動かないのだから。
運動したほうがいいのかな、何か身近に体を動かすことはあるだろうか……と考えてふと頭をよぎったことにいやいやいや、と一人頭を振る。なんで今これを思い出したんだ、自分。
というのも、恋人同士ならではの行為を思い出したのだ。そのときも体力がないためすぐにへばってしまい、気を失ってしまうこともしばしばである。
--というか、あいつが絶倫過ぎるんだよな。
と、少し赤くなりながらあいつを恨めしく思う。
水道で顔を洗い顔の色を戻してベンチへいくと、そこには人だかりが。なんだなんだと不思議に思って立ち止まって見ているとそれが須田と、さっきから話していた前に何度か見たことのある須田の友達数人と、スタイルの良い綺麗な女性たちだということが分かった。
「逆ナン……か?」
俺は一生触れ合えなさそうなそんな綺麗なお姉さんは須田に擦り寄り、楽しそうに笑っている。(いやシュリちゃんのほうが可愛いけどさ)本当にあるんだな、と感心していればいきなり誰かが背中にもたれかかってきた。
「さっとーくーん」
「うわっ、……東雲さん?」
「正解ー。久しぶりだね、砂島くん」
「お久しぶりです」
間延びした喋り方で話しかけてくるこの男は東雲さん。須田の幼馴染だという。須田と俺がまだ会って間もないころや、その後のごたごたなどでとてもお世話になった。
そんな彼に頭を下げればにやぁ、と東雲さんは悪巧みをした子供のような顔をした。
「なになに、須田のことじっと見ちゃって。嫉妬してんのー?」
「何言ってるんですか。そんな訳ないですよ。むしろ尊敬しますよ、あんな美人にナンパされるなんて」
「ふーん」
はぁ、と外国人のようなジェスチャーをしてそう言うものの、東雲さんはにやにや笑うのをやめない。本当ですよ、と何度も言えば分かった分かったとやっと普通の顔に戻った。
そして背中から離れて俺の腕をとった。
「でも須田があんなんだから暇でしょ? 俺もあそこから逃げてきて暇なんだけどさ、一緒に遊ぼうよ」
「いや、今休憩時間終わったんでまた泳いできます」
「暇でしょ?」
「離してください」
「暇、でしょ?」
「……はい」
東雲さんはいつも基本的に笑顔だが、こういうときの笑顔はとても怖い。当然俺はもう何も反論することはできず、引かれるままに歩いた。
しばらくずいずい歩いて連れてこられたのは流れるプールだった。来る途中に買ったドーナツを模った浮き輪に俺が入り、それを東雲さんが掴むというふうな形で流れることになったのだが……--
--なんなんだここは。
昔から友達のいなかった俺は、実はこの市民プールに来るのは初めてだった。いつもは一人で25mや50mプールしかない施設に行ってもくもくと泳ぐことしかないので、遊ぶプールは初体験である。
だからこの人のひしめき合いには驚いた。これは本当にプールなのか? プールって泳ぐためのものじゃなかったっけ? え?
東雲さんはなにも気にすることなく入って行ったのでこれが普通なのだろう。
「何変な顔してるの、砂島くん」
「え、あ、いや何でもないですよ」
「やっぱり須田が気になるのー?」
「違いますってば」
東雲さんはふふふと笑っただけで何も言わなかった。
ぷかぷかと、喧騒のなか静かに浮いて時たま一言二言話す。こういうプールも良いのかな。ゆったり流れるこの心地良い空気感にそう思い始めた時だった。どこからかビニールボールが飛んできて東雲さんにヒットした。
「いってー。誰だよー」
くるりと振り向けば、そこには笑いながらも目が猛烈に怒っている須田の姿が。
「和啓てめー、なんでこいつといんだよ」
須田はイラついた様子で東雲さんにそう言った。
「須田ナンパされてたじゃーん。砂島くんも俺も暇人同士遊んで何がだめなの」
しかし慣れているのか、東雲さんは全く動じることなくいつもの笑顔で応える。
怖いので黙っていると、須田は俺たちの浮き輪を引き寄せて俺の腕を掴んだ。
「な、んだよ」
「出ろ」
「は?」
「早く」
「……この状態で言われてもどうしようも無いんだけど」
「うっせー」
「うっせーのはどっちだよ、後ろ詰まってんだよ迷惑考えろ。離せ」
「あぁ?」
掴まれていて動かない腕にイラつきながら須田をにらみつけていると、痺れを切らしたのか、須田はもう片方の腕も掴んで無理やり俺を引きずり出してきた。俺も更にいっそう抵抗を強めるもののもちろん須田に勝てるはずもなく、加えてなぜか東雲さんもにこにこと俺の背中を押してきたので俺の身体はするりと浮き輪を抜け、プールサイドへとあげられた。
「ちょ、東雲さん!?」
「はいはい流石に迷惑だからね、面白いけどいったん出ようか」
すみませんねーと周りの人に謝りつつ東雲さんも出て、俺たちは押されながら敷いていたシートの元へと歩いた。そこまでの道のりは割と長かったが終始無言だった。
「さてさて。丁度昼時だし適当に食べ物買ってくるわ」
到着したとたん東雲さんはそう言ってお店のほうへと歩いていった。気まずくなるのは目に見えていたので一緒に行こうと思ったのだが笑ったまま目で咎められ、逃げることも出来ず俺は須田と二人きりとなった。
--どうしよう。
しばらく歩いていたおかげで腹の虫が落ち着いてしまっていた俺は、未だにむすっとしている須田の顔にひぃっとびびる。
今の関係になってから、ふざけたような喧嘩はするもののこんな喧嘩とかはしていなかったからどう声を掛けていいかが全く分からない。ゲームのようにはっきり分かれた選択肢が出てきたらいいのに、なんてぼんやりと考えながら暫く突っ立っていると、須田がその口を開いた。
「座れよ」
「え、あ、うん」
いつのまにか先に座っていた須田から少し距離を置いたところにおずおずと座る。須田の顔は見ず、先ほど自分が入って流れていたプールのほうを見つめる。なんとなく後ろから殺気のようなよろしくない空気が漂ってきているが気にしないことにする。小、中、高とクラスメイトや不良たちに睨まれてきた俺を舐めるなよ! なんて思っていたのだが、掛けられた声は予想とはずいぶん違ったものだった。
「椋蒔」
という、なんともいつものこいつらしくない寂しげな声。驚いて思わず振り向いてしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「椋蒔」
「……」
「椋蒔」
「…………」
我慢、我慢だ自分。と言い聞かせてぐっと堪える。すると、
「……おい、椋蒔」
先ほどとは打って変わって低いうなるような声で俺の名前を呼んできた。条件反射でびくりと肩が揺れる。しかし、我慢。
この応酬もまた数回繰り返したところで須田はイラついた声で何か呟いた後に舌打ちして俺の右肩を掴んで無理やり振り向かせてきた。どうにか踏ん張ろうと下半身に力を入れるも、相手は不良でそれもあの須田である。敵うはずもなく俺はするりと須田の方に顔を向けることとなった。振り向いて見えた須田の顔は、怒ってるようなすねているようなそんな表情をしていた。
「せっかく来たってのにあいつと一緒に何遊んでんだよ、お前は」
がっちり両肩を掴んでそう言った須田は眉間にしわを寄せた。いつもは怖くてすぐに謝ってしまいそうな雰囲気だが、なんだかその言葉にしっくりこなくて出掛かる謝罪を抑え込む。そのもやもやとしたわだかまりが気になって黙っている間にも須田は言葉を重ねていく。
「おい、聞いてんのか」
そんな俺に耐えかねたのか、ぐっと手に力がこめられた時自分の中のなにかが切れた。
「……んだよ」
「あ? 聞こえねー……」
「うっせーな! てめーこそ何なんだよ!」
「……りょ」
「こっちもずっと我慢してんだよ、せっかくお前と来たのに一人で黙々と泳いでるって何なんだよ。お前だってどっかの知らないお姉さんたちとうふふあははしてたじゃねーかよ! それなのに俺が、お前の幼馴染で、なかなか逆らえないって知ってる東雲さんとちょっと遊んでるだけでそんな切れるっておかしいだろうが! 切れたいのは寧ろこっちのほうだっての」
気づけば俺は怒鳴っていた。公共の場だから声はかなり絞ってはいるが。その間須田は何も口を挟んでこなかった。
はぁはぁと荒く息をして自然と下に向けていた目線を元に戻すと、須田はぽかんと口を開いていた。そして数秒にも数分にも感じられた時間が過ぎた後、にやにやと口元を隠しながら笑い始めた。
「な、なんだよ」
「いや、お前……ふはっ」
暫く気持ち悪く笑い続けた須田は食べ物を抱えて帰ってきた東雲さんに帰るわ、といって俺の腕を掴んで立ち上がった。
「え、は? おいちょっと、プールは?!」
「また今度来ればいいだろ。とにかく今は帰るぞ」
「おいおい!」
東雲さんも最初は驚いていたが何か理解したのか今はにまにまと生暖かい目で俺たちを見送っている。須田も何故か先ほどとは正反対でとても嬉しそうである。
未だ事情の読めない俺だけれども、仕方ないので今日は帰ることとなった。
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とくに話すこともなく、にやつく須田と俺の家へ帰る。母さんはどこかへ出かけたのか家にいなかった。(まさかこんなに早く帰るとも思ってなかったのだろう、書置きがなかった)ペットボトルのお茶を2本持って俺の部屋へと上がる。
ドアを開けて部屋へあがった瞬間、強い力で後ろから抱きしめられた。思わず持っていたペットボトルを落としてしまう。驚いて須田……? と小さく呟くと更にぎゅっと俺を抱きしめる腕に力が込められた。
「ど、どうしたんだよ。暑いから離れろよ、エアコンも入れたいし」
「んー……」
じっとりと汗がにじむ。足元にエアコンのリモコンを見つけたので足でスイッチを入れようとするが、なかなか入らない。ひっついてきて離れない須田は放っておいて悪戦苦闘しているとぐいっと引っ張られてベッドの上にそのままの体勢で二人で倒れこんだ。俺が須田の下に来たためくるしくて蛙のような声が出た。
「おい、おい須田! 暑いっていってるだろうが!」
少し動かせる足でがしがしと蹴るとようやく顔を上げた須田は、ひどくだらしのない顔つきをしていた。いまにでも鼻歌を歌いそうなそんな雰囲気もかもし出している。
「……はぁ。さっきからお前はなんなんだよ。怒ったりにやにやしたり」
緩んだ腕から自分の腕を出して肩を軽く殴るとその手を絡めとられて、その甲に唇が当てられた。
まさかの出来事にじわじわと体温が上がり、顔に熱が上る。
「な、なな、なにしてんっ……んん!?」
それからその唇は俺のそれに押し当てられる。
「っふ、ちょ、何……」
「お前さあ、どんだけ殺し文句言ってっか分かってる?」
「は?」
「あれだろ、つんでれとかいうやつだろ」
つ、つんでれ!?
「なに須田、頭でも沸いたのか? 俺のどこがツンデレだっていうんだよ。そもそもツンデレって言うのは……」
俺がツンデレなんて有り得ない、と須田にツンデレとは何かを説明しようとしたのだが、空いてる手で口をふさがれてしまう。
「さっき言ってたこと、俺にはお前が嫉妬したようにしか聞こえなかったんだけど」
「なっ……!?」
怒りに任せていった言葉であったから詳しくは覚えていない。が出来る限り思い出してみる。
そして次第に俺の視線は須田の目からずるずると下へ下がっていった。
--要約すると「須田が女の子のほうへ行っちゃったから寂しかったんだもん! ちゃんと構え!」ということじゃないか……!!
羞恥心に本当に火がつきそうな顔を隠すように無理やり横を向けば、須田に向けられた頬に手が添えられた。
「思い出したか? 顔赤いなー。いつもに増して不細工になってんぞ」
「う、うっせー!」
「まあそう怒るなって」
そういった須田はいつも以上の悪人顔で俺の頬をなでた。
「椋蒔くんの希望にお応えして今日は二人きりで遊ぼうか」
「ううううっさい黙れこの……!」
須田の腕の中でじたばたと抵抗するが、プールで実は寂しかったというのも(認めたくはないが)本当だった。なんだかんだ言って須田の手はとても優しく、許してしまうのだ。
こんな乙女思考になっている自分に鳥肌がたつが、もう仕方ないと若干諦めることにして俺は考えることをやめた。
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夏休み明けの月曜日、俺は長袖のワイシャツを着て学校の席に座っていた。
周りのクラスメイトはさっきから気持ち悪いとかオタクだとかよく分からない悪口を言いながら俺のことを指差してくる。
しかし俺はもうそんなものには慣れてしまっているから気にならない。
気になるのは襟でぎりぎり見えない位置にある絆創膏だった。
--くそ須田め……!! 結局プールにはいけなかったし、直らないまま学校始まっちゃうしふざけんな……!
腹にある一番濃いソレがある場所を手で抑えながら俺はそう思うのだった。