六章 最果てからの贈り物
出勤ラッシュの始まった政府館ロビーを上がり、階段を昇って三階へ。
「おはよう三人共」
一週間以上振りの執務室の隅には見慣れぬ物があった。所々塗装が剥がれてはいるが、れっきとしたピアノだ。
「これ、隣の部屋に置いてあった」
「はい。昨日、約束通り由香さん達が遊びに来てくれたんです。姉さんとピアノを弾いていた話をしたら是非一曲聞きたいと仰ったので、ラキスさんにも手伝ってもらってここへ」
「音楽は心を癒すからね。執務の気晴らしにも良いし、良かったらどうぞ。誠は確か弾けたよね?」
「うん、一応」
応接セットのソファに三人並んで腰掛ける。と、バタンッ!勢い良くドアが開いた。途端にこやかだった弟が目を吊り上げる。
「遅いぞラキス!ほら、次は郵便局に速達と荷物だ!夕方には先方に届いてないと拙いんだからな、走れ!!」
「ちょ、ちょっと待てよエル!せめて五分、いや三分でいい!休憩させてくれ!!」ぜーはーぜーはー。「こっちは朝四時から朝飯抜きで新聞社やら図書館を駆けずり回ってんだぞ!いい加減スタミナが保たねえ!」
「はっ!知ったこっちゃないね。何せ君は美希に銃口を向けた極悪人だ。幾ら音を上げても聞く耳持たないよ。さあ、さっさと行け!終わったら今度は政府館中のトイレ掃除だからな!!」
そう言い放って段ボール箱を投げ付け、尻を蹴飛ばすように追い出した。
「ふう、やれやれ」
「酷い扱いだな。あれじゃとても三ヶ月保たないぞ?」
「いいんだよ、今日はあいつ半休だから。午後は相続手続きをしに役所へ行くそうだ」
「へ?」
「持ち家とか、財産を全部妹の名義に代えるんだってさ。ほら、もう実質死なない訳だし」
「あ、ああ。そうか……」
百七十二条がある以上、何れは世間から身を隠さなければならない。遺産を速やかに渡すなら、自分名義の物は少ないに越した事は無い。
「じゃあ説得、出来たのか?」
「うん」答えたのは意外にも誠だった。「と言うか、知ってたんだって。大分前から」
「まぁ、そりゃな」
あの外見で四十近くはやや苦しい。身内なら余計おかしいと思うだろう。
「不死って事より、エルの結婚の方が驚いてたよ。どうしてかな?」
「人には色々な考え方がありますから」
秘書が苦笑いを浮かべる。どう言う意味だ?
「変なお姉さんだったよね。兄様は女の子じゃないよ、って教えたら急に元気になったし」
「一目惚れか?」
多少の年齢差など関係無い綺麗さだ。本人が気付いていないだけで、きっと俺以外にも何人か片想いの奴はいるだろう。
「違うと思うよ。上手く言えないけど、勘で何となく。ねえ兄様?」
少年が問い掛けると、天衣無縫の愛しい人は小首を傾げた。
「ああ、そうだ。忘れない内に」
執務デスクに戻った弟は、机の陰に置かれたもう一つの段ボールの蓋を開けた。
「“黒の都”から一人ずつプレゼントだよ。―――はい、まずは誠」
「あ、うん。これ、手紙?」
受け取った封筒の束の一番上を抜き、封を切って中の便箋を広げる。
「これ、あの男の人からだ。―――良かった。もう頭の怪我治ったって」
嬉しそうにしげしげ読み、丁寧に畳んで元通り仕舞う。
「ありがとうエル。残りもちゃんと読ませてもらうね」
「ああ。次はオリオール。君はこれだ」
「やった!……ってこれ、辞書?」
シックな紺色に装丁された、厚さ約五センチの長方体をクルクル回して首を捻る。
「どうやらうろ覚えの四字熟語や言葉を勉強しろって事らしいな」
「えー!?」
不服げな声を上げる少年を除く全員が笑う。
「ところで二人は何を貰ったんだ?」
「美希は“闇桜”のエキスを抽出した超希少な香水を。僕はこれ」
デスクの端に置かれた立方体の金属箱を手に取って見せる。所々継ぎ目があり、一つだけ開いた穴から複数の金属環が覗いていた。
「知恵の輪?」オリオールが中へ指を突っ込もうとするが、小指の先すら入らない。
「キャストパズルだよ、しかも魔術機械の。順番通り精密に魔力を掛けないと外れない仕組みさ。僕にとっては最高のプレゼントだね」
「ふふ。エル様、熱中し過ぎて昨日は夕食を召し上がらなかったんですよ?こんな目に付く所に置いてはいけません。家に帰ってから挑戦して下さい」
「分かってるよ」
渋々一番上の抽斗に片付ける。
「ウィルの分は?」
「勿論あるよ。はい」
A四サイズの茶封筒の中身はやけに軽かった。……え?おい、これって、
「表彰状……だよな?」
「―――『白鳩調査団団長、ウィルベルク様。あなたは我が国の至宝“黒の燐光”を守り抜き、“黒の都”を見事救いました。その英雄的行為を讃え、ここに永久都民として表彰します。不死族一同代表 ジュリト・マーキス―――』……これ、ジュリトさんが書いてくれたんだ」
絶対これ嫌味だろ。悪意しか感じられねえ、しかも字が所々小刻みになってるし。笑いながら書いたのがバレバレだ。
「お兄さんのが一番ショボくて軽いね」フフン、得意げに鼻で笑う。「重さは僕が一等賞で、数なら兄様だね」
「でも表彰状って相当頑張らないと貰えないんだよ。凄いねウィル」
ぱちぱちぱち。その心の籠もった拍手は、俺にとって何より素晴らしい贈り物だった。
「えー、僕だって一杯頑張ったでしょ?」
「ふふ、そうだね」ぱちぱちぱち。「でしょ?わーい!」
諸手を上げてはしゃぐ少年を見つつ、弟は再度箱の中身を確認した。
「やれやれ、残るはあの問題児だけだな」嘆息。「ちゃんと大人しくしてるのか、あいつは」
「課長の命令通り、公安課には出勤していないようです。自宅の方へ電話を掛けてみますね」
黒電話の受話器を上げ、政府員の名簿を広げながらダイヤル。が、一分後。カチャン。
「おいおい、入院なんて連絡は聞いてないぞ?」
「アムリさんの携帯に掛けてみますね」
再びボタンを押す。今度は数十秒で繋がった。
「朝早く済みません。フィクスさんは何処かへお出掛け―――ああ、そうなんですか。いえ、急ぎではありません。少し渡したい物があったので……え?あ、はい。分かりました。ありがとうございます」
カチャン。
「何処だったの、お姉さん?」
「中央病院の精神病棟だそうです。傷病休暇に入ってから、連日お母さんのお見舞いに行っているらしくて」
「シェニーさんの?それなら私知っているよ。届けて来ようか?」
誠がそう言い、段ボールに残るピンクのリボンが掛かったラッピング袋を覗く。
「中身は何かな?」
「あ、誠さん!それが、アムリさんの方から明日にして下さいと頼まれて」
「は?本人は元気なんだろ?」
「私もよくは知りませんが……明日、直接本人に取りに来させるそうです」
病気の母親と接触させたくないのか?しかし誠は何度も慰問に行っているぞ?
「変なの」オリオールも首を傾げる。「一昨日もおかしかったし、ねえ兄様?」
「?会ったのか?」
「私達のお見舞いに来てくれたんだよ。病室にお花があったでしょ?」
あれか。へえ、意外に気の利く事するじゃないか。
「兄様の生えかけの腕触って、尻餅付いたまま逃げるように出て行ったんだ。酷いと思わない?」
「オリオールが無理矢理触らせたからだよ。まだ骨も付いてなかったし、吃驚するのが普通だと思う」
「でもキューキンドロボー、僕等が不死だって知ってるじゃん。あんなに驚かなくても」ダンダン!靴で床を叩く。「兄様が傷付くとか思わないのかな?」
「シャーゼさんは悪くないよ。―――でも気になるね。帰って来てからちゃんと診察受けたのかな?」
心配する誠に、ああ、それは大丈夫、弟が言った。
「宇宙船を降りてすぐ、アムリが迎えに来たからね。骨は異常無し、青痣だけで済んでいたそうだ」
「なら良かった」ほっ、安堵の息を吐く。「じゃあ帰ろうよ、“碧の星”に。聖樹さんにウィルの元気な顔を見せてあげないと」
「ああ、荷物を取って来てからな」
俺達がソファを立つと、黒の紋様の浮かんだ手で弟が制止を掛けた。
「何だ?報告書でも書くのか?」
「僕が幾ら仕事の鬼だからって、流石にそれは体調が万全になってからでいいよ」自覚はあるのか。「他の皆へはもう伝えたけれど、明日正午に白鳩調査団の第一回会議を開くから」
「会議?」
「ぶっちゃけて言えば花見だよ。政府館の裏の桜が丁度満開なんだ。天気予報に因ると明日は晴天らしいしね。と言う訳で三人共、聖樹と協力して外で食べられる菓子を用意してくるように、以上」
意外な提案。へえ、お前でもんな風流な事するんだな、感心の声を出した。
「まぁね。全員が一同に揃うのはプルーブルー以来かな?」
「そうだね。ふふ、楽しみ」
天使の微笑みに釣られて頬を緩めた後、けど何で今になって?、首を捻る。
「現在、調査団には色々厄介な問題があるだろう?」
「“炎の魔女”と、私の“燐光”……」
聖王代理は首を小さく横へ振り、残念ながらそれだけじゃない、否定した。
「アイザの体調の事か」
「それとリーズだね。彼女、最近学校を無断欠席してるそうだよ」
「えっ!?」
そいつは初耳だ。
「余りに頻度が高いと、担任の先生から政府館へ問い合わせの電話があったんです。リーズさん、白鳩の活動はボランティアだと説明していたそうで」
「優等生のビトスさんを変な事に巻き込まないでくれ、だってさ。誤解を解くのに随分時間が掛かったよ」
「ケルフには訊いたのか?」彼女が最も親しい義息の名を出す。
「ああ、ノーコメントだったけどね。それも含めての召集さ」
やれやれと両手を天井に向けて上げる。
「でもリーズ、平日はずっと授業だって……皆に嘘を吐いてでも、しなきゃいけない事があるんだね……」
心の苦しみから、両手を胸の前で組む。
「さっきだって様子が変だったし……やっぱり、アイゼンハーク家の事件はまだ」
「どう言う意味だい?」
『あの子の所に行きなさい、でないと取り返しの付かない事になる。今だけではない、これからもずっと―――』
『急いで。この夢の主が彼の価値に気付いていない内に』
説明を始め掛けた誠を、俺は無言のまま手で制した。
「?」
別に口止めされている訳ではない。リーズは俺達が考えているよりずっと多くの真実を知っているだろう。―――が、あの目。少なくとも誠を想う気持ちだけは本物だった。
「兄上?」
「俺達が説明するより、本人に直接問い質した方が早いだろ?」
あの様子ではそう簡単に喋るとは思えないが。
「承諾無しに秘密はおいそれとは話せない、と。成程、一理あるね。―――誠、オリオール」
「何、エルのお兄さん?」
「そろそろ“碧の星”行きの船が到着する頃だ。君等は病院へ荷物を取って来るといい。兄上と船着場で合流出来るように、ね」
「ウィルだけにお話?」
「まぁね。乗り遅れる程長くはならないよ、安心して」
「あ、うん。分かった。行こ、オリオール」
「じゃあまた明日!」
兄弟は椅子から立ち上がり、明るく手を振って執務室を出て行く。
キィ、バタン。
十数秒の沈黙の後、俺は徐に口を開く。
「未来視が消えた」
「!?完全に……か?」
「ああ―――ジプリールに言わせれば、俺が心底望んだからだそうだ」
「処刑が執行された時、か……しかし折角受け入れた未来は、誠に因って否定された」
婚約者が目線を送ると、秘書は無言のまま鞄を持って部屋を後にする。彼女を完全に見送った後、弟はそっと俺の頭を抱いた。
「それだけじゃない、あいつは……」
頬を伝う熱い物が、肉親の腕を振り払う気を消した。
咽喉の奥から絞り出すように残酷な過去を吐く度、ああ、とか、そうだね、まるで母親のように丁寧な相槌を打つ。
弟は何も問おうとはしなかった。それが何より有り難く、衝撃で深く傷付いた魂を慰められた。
「強く……」本心から叫ぶ。「強くなりてえよ、もっともっと!!」
邪悪な意志を難無く打ち砕き、誠がずっと笑顔でいられるように。もう誰も理不尽を与えられずに済むように。
「兄上……はい」
涙を出し切ったのを見計らい、ハンカチが差し出された。借りて頬と目元を拭う。
「済まない」
「いいって」
腕を離した弟は微笑み、さ、もう出発時刻だよ団長、快活に告げた。