四章 黒き城の朝
「久しいですね」
音も無く現れた女天使はそう挨拶し、開かれた扉から寝室へ踏み入ろうとした。
「悪いけれど、それ以上は来ないで」窓辺の長椅子に凭れていた私は制止の声を掛ける。「寝起きで髪がまだ乱れているの。仮令同性でも見られたくないわ」
「分かりました」
事実であり、本心ではない。この気味の悪い訪問者と同じだ。
「で、何の用かしら?」
「私から敢えて言わずとも、既に分かっていると思いますが?」
「用件をお尋ねしているのよ、四天使様。単なる御機嫌伺いなら」
「大事な息子を取り戻さなくて宜しいのですか?」
完璧な美しさを持った唇が動く。
「いつ何時『あの夜』の二の舞になるか分かりませんよ」
挑発的な言葉に煽られ、また右腕の“緋の嫉望”が熱く疼く。一瞬頭がウィルネストへの嫉妬で満たされかけたが、グイッ!テーブルの水差しの中身を全部咽喉に注ぎ、強引に理性を取り戻した。
「どのタイミングで子供を迎えに行くかなんて私の勝手でしょう?横から指図される謂われは無いわ」
「随分信頼しているのですね―――卑怯者の殺人犯を」
応えず、瞼を閉じて三日前の光景を思い出した。
(分からない……考えれば考える程、私には分からないの……)
息子を庇い、屍の巨人を前に剣を構えた必死な姿。まだ脳裏にはっきり焼き付いている。思い出すだけで、胸が一杯になるぐらい鮮明に……。
(堪らなく憎くて憎くて―――だけど愛している。どうすればいいの……?このままだと本当に狂ってしまうわ)
「案ずる事はありません。あなたは主の認めし信仰の強き徒。その判断に間違いなど有り得ない」
「巫山戯た事を言わないで!!」
見当違いも甚だしい。思わず大声で怒鳴って否定する。
「何故です?『華の天使』の息子は業深き悪魔の化身。手を下すのを躊躇う理由はありません」
本当に?それが真実なら何故、彼は命を賭けてまでまーくんを守るって言うの?
「言いたい事はそれだけ?―――案内は付けなくて大丈夫よね」手首から先を振る。「帰ってもらえるかしら、出来れば今すぐに」
「はい。ですが、メノウ・マクウェル」
フルネームで呼び掛け、大父神の使者は不気味なスマイルを向けた。
「その迷いが致命的な結果を齎さない事を祈ります。―――滅びの街、エレミアと同じ悲劇を」
バタン。
「あぁっ……!」
両手で顔を覆い、自分でも忘れかけていた野太い声で呻く。
悔しかった。天使の言い分に一瞬でも納得しかけた私自身に!そして、未だに彼を好いている事実にも!二律背反の想いが身体中を駆け巡り、細胞全てが沸騰してしまいそう。
キィ。「奥様、入っても宜しいですか?」
ドアを半分開いた建築主は、シャンパンと細身のグラスを二つ乗せたトレーを片腕で持って来た。何時見ても凄いバランス感覚。
「気を遣わせて悪いわね。ありがとう、頂くわ」
「いえ」
静々ともう片腕で歩き、空の水差しの横にトレーを置く。そうしてから恭しくボトルの栓をコルクで抜いた。
シュポン!トクトクトク……。
「どうぞ、奥様」
「済まないわね」
冷たい炭酸が舌の上で跳ね回り、カッカした頭をクールダウンさせる。食前酒だがアルコールは入っていない。お酒に弱いまーくんでも楽しめるよう、年何本か農場に直接手配している有機仕込みの物だ。
「彼奴め、坊ちゃまの事で何か?」
「大した用じゃないわ。ええ……あなたが気にする必要は無いの」
私みたいな駄目な母親は、精々息子の決断を尊重する事しかしてあげられない。
二杯目を傾けつつ、ふと疑問を口にする。
「ねえ、ワームレイ。ウィルネストと彼女、あなたならどちらを信じる?」
「私の主は奥様と坊ちゃまのお二人です。他の者など」
「もしもの話よ。私達がいなくなって、二人の内の片方へ仕える事になったら」
「―――世を儚んで自ら“黒の森”へ身を投じますね」
「だから真面目に答えて!命令よ!」
凹凸の少ない顔を歪め、私としては至って真面目に考えているつもりですが……困惑した。それでも私が納得していないと悟り、あの男の方が〇・数パーセントはマシかと、そう囁いた。あれは得体が知れなさ過ぎます、とも付け加える。
「そう」私と同じ判断なのか。
「少なくともあ奴は坊ちゃまが好いておりますから、悪人ではないでしょう。城を汚した恨みは残りますが」
「汚した?何故?」
「神経の細い男ですよ」纏ったシーツから紙切れを取り出す。「これを見せた途端人を殴るわ吐くわ、散々です」
それは以前私が記念にあげた出産写真だ。この施工主は好奇心旺盛で、自分が不死として生まれ変わる瞬間を是非とも見たいと希望した。城を建築してもらう上、私自ら口説いて特別気心が知れた人物。敢えて願いを叶えない理由は無かった。以来、彼はお守りの如く肌身離さず持ち歩いていた。
「理解出来ません。私の宝物ですよ?」
「……」
「奥様?」
ウィルネストが嘔吐する程の嫌悪感を……。半裸に血塗れの息子は、私にとっては至極見慣れている。この細い身体も何百回となく抱いて……。
『かあさま……』
『大丈夫。少しの辛抱だから』
苦痛も快楽も感じない仔は、一体どんな気持ちでいたのだろう?自分の身体の上の母親をどう―――。
「うえっ……!!」「奥様!?」
グラスがテーブルから落ち、半分残った中身が絨毯に零れるのが見えた。
口元を押さえ、どうにか上がった酸っぱい水割りシャンパンを戻そうとした。が、努力も虚しく胃は痙攣し続け、バタバタッ……液体が腕を伝って染みを作る。
吐かない方がどうかしている!これはただの蹂躙記録だ。悦ぶ私は卑劣で―――頭の狂った異常快楽者!!
「奥様、手洗いまでへ行けますか?」
「え、ええ……」
不具者に付き添われて階段を降り、洗面台へ。石膏が染み付いて白い手で背中を擦られるまま、胃の中身を出し切る事五分。ようやく落ち着いた。
「突然どうなさったのです?」汚れないよう懐に入れ直した写真を取り出す。「何処か具合でも」
「いいえ、大丈夫。それ、仕舞っておいてくれる?」
「え?」
「早く仕舞って!」
視界に入るだけでおかしくなりそうだ。
「は、はい!」ガサゴソ。「これで宜しいですか?」
「悪いわね……ごめんなさい。だけどもう見たくないの。私の前では二度と出さないで」
「はぁ、分かりました」
背筋がゾッとしたまま戻らない。両肩をこうしてキツく抱いていなければ、マニキュアを塗ったばかりの鋭いネイルで、身体中滅茶苦茶に切り刻んでしまいそうだった。
(あぁ、ウィルネスト……助けて)
かつて拒絶した両腕を求め、鏡の向こうの鬼女は涙を零した。