第二話 王家の墓に眠るもの
十年前、父を殺人者と断じた男が、今は自分の目の前で顔色を失っていた。オズワルド・ベルクマンは診療所の戸口に立ったまま、エリオスの顔を食い入るように見つめていたが、やがてその視線が左手の曲がった小指へ移ると、何かを確かめるように唇を震わせた。十二歳だったカシアン・ヴァルケインは、両親から毒杯を与えられて死亡したことになっている。その遺体を検分したのは王宮の役人であり、死亡証明書も正式に発行されていた。オズワルド自身、十年間その事実を疑ったことはなかったのだろう。だからこそ、処刑したはずの親友の面影を残す青年が、貧民街の診療所で自分を待ち受けていたことが信じられないらしかった。
「馬鹿な……あの子供は死んだはずだ。私も報告書を読んだ。間違いなく毒を飲んで死んだと……」
「ええ、カシアン・ヴァルケインは十年前に死にました。ですから、今ここにいるのはエリオスという名の闇医者です。身分証も戸籍も持たず、あなた方が施療院から追い払った人間を治して暮らしている、ただの医者ですよ」
エリオスは自分でも驚くほど穏やかに答えた。十年間、幾度となく思い描いてきた再会だった。父の名誉を奪い、母を処刑台へ送り、自分から家も名前も奪った男に出会えたなら、喉を掻き切ってやろうと考えた夜もあった。それなのに、実際に目の前にすると不思議なほど手が震えなかった。父が使っていた懐中時計は胸元にしまってある。先ほどティルマンから渡された時計の蓋を開いたとき、十年ぶりに見た母の肖像に涙が止まらなくなったが、その涙さえ今は乾いていた。怒りが消えたのではない。あまりに長く抱えていたせいで、それが自分の一部になってしまったのだろう。
「先生、昨夜の患者についてお尋ねになりたいのでしょう。こちらへどうぞ。残念ながら亡くなられましたが、遺体はまだあります」
エリオスが身を引くと、オズワルドは躊躇した。背後の近衛兵たちが剣を構え直したが、エリオスは構わず診療所の奥へ歩いた。手術台には白布をかけられた老人の遺体が横たわっている。昨夜、若い女に連れられて運び込まれた男だった。腹部は異様に膨れ、皮膚の下を黒い筋が這い回り、手術によって壊死した組織を取り除いても、結局は助けられなかった。死の直前、老人はセヴランの名を口にし、王太子は死んでいないと言い残した。そして、王家の地下墓所にある棺を開けるなと警告したのである。
オズワルドは白布をめくった途端、息を呑んだ。
「……バルツァー」
「ご存じでしたか」
「どこで……この男を見つけた」
「患者の素性は尋ねないことにしています。ですが、この方はあなたをご存じだったのでしょうね。十年前、王太子殿下の遺体を検分した医師だと聞きました」
オズワルドは答えず、老人の腹部に残された縫合痕を見つめた。その目がわずかに動いたのを、エリオスは見逃さなかった。
「何かお探しですか。腹の中に入っていたものなら、すでに取り出しましたよ」
エリオスは棚から小瓶を取り出した。中には黒い膜に覆われていた白い骨片が二つ収められている。どちらにも三本の棘を持つ王冠が刻まれており、父の医学書に記されていた禁薬の核と酷似していた。オズワルドはそれを見た瞬間、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「それを渡せ。お前が持っていてよいものではない」
「なぜですか。父も、同じものを見つけたのでしょうか」
「セヴランの名を出すな!」
怒鳴った直後、オズワルドは自分の失態に気づいたらしく、口を閉ざした。エリオスは小瓶をしまい、代わりに老人の外套から見つかった地下墓所の見取り図を広げた。王太子の棺の位置に赤い印があり、その下には、父が無実であることを証明すれば王家が終わると記されている。
「あなたが何も話さないのであれば、私はこれを持って王宮へ行きます。十年前の裁判記録と、王太子殿下の遺体を照合していただくつもりです」
「そんなことをすれば、お前は殺される」
「一度死んだ人間ですからね。今さら惜しいものもありません」
オズワルドの顔が歪んだ。エリオスはその表情を見て、ようやく確信した。男が恐れているのは、自分が生きていたことだけではない。十年前に埋めたはずの秘密が、死んだ同僚の腹から掘り出されたことを恐れているのだ。
そのとき、診療所の裏口に立っていたティルマンが口を開いた。
「ベルクマン卿。その骨片を王宮へ持ち帰るよう、陛下から命じられていたのでしょう。バルツァー殿が逃げ出したと知って、昨夜から捜しておられたはずです」
オズワルドはティルマンを見るなり、目を見開いた。
「貴様……生きていたのか」
「あなたのおかげで右目を失いましたが、幸い命までは取られませんでした」
ティルマンは仮面を外した。右頬には古い火傷の痕があり、白く濁った片目はほとんど見えていない。十年前、セヴランの友人だった薬師マティアスの弟子として働き、カシアンの逃亡を手伝った男である。処刑後、王宮の追っ手に捕まり、火を使った拷問を受けたが、師匠の協力で逃げ延びたのだという。エリオスはその話を聞きながら、先ほどから胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「ティルマンさん。あなたは十年間、私がどこにいるのか知っていたのですか」
「……はい」
「では、なぜ今まで会いに来なかったのですか」
ティルマンは答えなかった。その沈黙に、エリオスは嫌な予感を覚えた。父の懐中時計を持ち、地下墓所の鍵を持ち、十年前の事件を知っている男が、なぜ今日まで自分の前に現れなかったのか。助けるためだと言われれば、それまでだった。けれど十年間、誰かを信じるたびに裏切られてきたエリオスには、その説明だけでは足りなかった。
「あなたも、何か隠しているんですね」
ティルマンはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、すべてをお話しするには、まず地下墓所へ行かなければなりません。セヴラン様が命を懸けて残されたものが、そこにあります」
エリオスはオズワルドを見た。男はすでに逃げ道を探すように視線を泳がせていたが、近衛兵たちは動かなかった。兵士たちも、王宮の秘密に巻き込まれることを恐れているのだろう。エリオスは小瓶を懐にしまい、ティルマンへ頷いた。
「わかりました。ただし、私に嘘をついたら、あなたのことも許しません」
ティルマンは何も言わなかった。
王宮の地下墓所へ向かう道は、十年前に父の友人たちが医療記録を運び出すために使っていた古い排水路だった。ティルマンはその通路を知っており、オズワルドを連れて地下へ潜り込んだ。近衛兵たちは診療所に残された。オズワルドが王宮へ戻らなければ、いずれ捜索が始まるだろうが、それまでの時間は稼げる。エリオスは暗い通路を歩きながら、父のことを考えていた。父もこの道を通ったのだろうか。王宮の秘密を知り、命を狙われながら、何を思っていたのだろう。自分なら逃げただろうか。それとも父と同じように、患者を救うために立ち向かっただろうか。十年間、父のような医者になりたいと思って生きてきたが、今はその願いがひどく遠く感じられた。
地下墓所の奥には、三本の棘を持つ王冠が刻まれた鉄扉があった。ティルマンが父の遺した鍵を差し込むと、重い金属音が響き、扉がゆっくりと開いた。エリオスはその向こうに広がる光景を見て、足を止めた。
そこは墓ではなかった。広い石室には硝子製の棺が二十基ほど並び、それぞれに黒紫色の液体が満たされていた。液体の中には人間の体が浮かんでいる。老人も、若い女も、まだ十歳にも満たない子供もいた。胸が上下している者もいれば、腹部が裂け、内臓の一部を失ったまま液体に浸されている者もいた。棺の側面には番号が刻まれ、被験者の年齢、体重、投薬量、拒絶反応の有無が記録されていた。エリオスは一番手前の棺に近づいた。中には痩せ細った少女が浮かんでいた。年齢は九歳。両腕には無数の針痕があり、腹部には何度も切開された痕が残っていた。棺に貼られた記録には、少女の名前ではなく「第七十三号」とだけ記されている。
エリオスは硝子越しに少女の顔を見つめた。十年前、自分が死を偽装するために使われた少年の遺体も、こんなふうに番号で管理されていたのだろうか。名前を奪われ、家族から引き離され、死んだ後には別の人間の身代わりに使われる。そんなことが当たり前に行われているのなら、この国で人間として扱われているのは、いったい誰なのだろう。
「これは……何のための施設ですか」
エリオスが尋ねると、ティルマンは黙って奥の扉を指した。そこには、ほかの棺とは異なる豪奢な装飾が施された一基の棺が置かれていた。棺の蓋には王太子の名が刻まれている。十年前に死亡したと発表された、アシュレイン・ヴェルデュール。その名前を見た瞬間、オズワルドが呻いた。
「開けるな……頼むから、それだけは……」
エリオスは棺の蓋に手をかけた。硝子の向こうには、若い男が横たわっていた。十年前に死亡した王太子の肖像画と同じ顔だった。ただし、肉体は異様に変形していた。胸部には黒い血管が浮かび、腹部は大きく膨れ、皮膚の下に無数の瘤が生じている。それでも心臓は動いていた。十年間、王太子は生きていたのだ。いや、生かされていたと言うべきかもしれない。棺の側面には、禁薬の投与記録がびっしりと刻まれていた。投与量は年々増加し、拒絶反応も悪化している。それでも治療は中止されていなかった。王太子の肉体は、すでに人間としての形を保つことさえ難しくなっていた。
「王太子殿下は、十年前に死んでいなかったんですね」
エリオスが呟くと、オズワルドは顔を覆った。
「死んだ方がましだった……あの方は、十年間ずっと……」
「では、なぜ父は殺されたんですか。王太子を救おうとしたのではないのですか」
オズワルドは答えなかった。代わりに、ティルマンが口を開いた。
「セヴラン様は、王太子殿下を治療する過程で、禁薬の正体を知ってしまわれたのです。この薬は、王族の寿命を延ばすために作られたものではありません。正確には、王族の肉体を維持するために、他人の生命を奪う薬なのです」
ティルマンは棺の側面に刻まれた記録を示した。禁薬は王家の血を持つ者にしか定着しない。しかし、その力を維持するには、定期的に他人の血肉から抽出した生命力を補充しなければならない。貧民街から連れてこられた孤児や、罪人として処刑された者たちは、そのための材料にされていた。王太子は十年前、父王から禁薬を投与され、肉体が拒絶反応を起こした。セヴランは治療を命じられたが、禁薬の製造過程を知り、人体実験の中止を求めた。王家はそれを拒み、セヴランを王太子殺害犯に仕立て上げた。王太子が死んだと発表すれば、禁薬の研究を隠し続けることができる。セヴランを処刑すれば、研究の秘密を知る者を消せる。ヴァルケイン家が一族ごと処刑されたのは、セヴランの血縁者が生き残れば、いつか真実を暴くかもしれないと恐れたからだった。
エリオスは黙って聞いていた。父が何を知り、なぜ殺されたのか、ようやく理解できた。だが、納得はできなかった。王家の秘密を守るために、父は殺された。母も、祖父母も、叔父夫婦も、何も知らない使用人たちまで殺された。自分は十年間、名前を捨て、身分を失い、貧民街で泥水を啜って生きてきた。そのすべてが、王族の一人を生かすためだったというのか。エリオスは棺の中の王太子を見つめた。苦しげに顔を歪め、黒紫色の液体の中でわずかに身じろぎしている。王太子もまた、父王によって禁薬を投与された被害者なのだろう。だが、だからといって許せるわけではなかった。王太子を生かすために、何百人もの命が奪われた。父も、その犠牲者の一人だった。
「国王は、どこにいるんですか」
エリオスが尋ねると、ティルマンは奥の扉を見た。
「この施設のさらに奥です。王太子殿下の治療を続けるため、国王陛下もここへおいでになります」
エリオスはオズワルドを見た。男はすでに抵抗する気力を失っていた。十年前、父を裏切った男が、今は自分の命を守るために怯えている。その姿を見ても、エリオスの胸は晴れなかった。復讐とは、もっと甘美なものだと思っていた。仇を目の前にすれば、十年間の苦しみが報われるのだと信じていた。けれど実際には、父の死があまりにも無意味だったことを突きつけられただけだった。父は何も悪くなかった。医者として正しいことをしようとしただけだった。それなのに殺された。母も殺された。自分だけが生き残った。十年間、何度も繰り返してきたその事実が、今になってようやく本当の重さを持って胸にのしかかってきた。
奥の扉が開いたのは、そのときだった。
「よく来たな、カシアン・ヴァルケイン」
低い声が石室に響いた。現れたのは、白髪を長く伸ばした老人だった。豪奢な黒い衣装をまとい、胸元には五本の棘を持つ王冠の紋章が輝いている。ヴェルデュール国王、レオポルド三世。十年前、ヴァルケイン家の処刑命令に署名した男だった。エリオスは初めて国王を間近に見た。肖像画で見た姿よりも老いていたが、その目には人間を人間として見ていない者特有の冷たさがあった。
「父親によく似ている。特に、その目がな」
国王はエリオスを眺め、懐かしそうに笑った。
「セヴランも、最後までその目で私を見ていた。自分が正しいと信じて疑わない、愚かな目だった」
エリオスは何も答えなかった。国王はゆっくりと王太子の棺へ近づき、硝子越しに息子の顔を撫でた。
「私は息子を愛していた。王家の血を継ぐ唯一の跡取りだ。病に倒れたとき、どんな犠牲を払っても救いたいと思った。それが父親というものだろう」
「そのために、他人の子供を殺したんですか」
国王は不思議そうにエリオスを見た。
「王族の命と、名もない孤児の命が同じ価値だとでも思っているのか」
その言葉を聞いた瞬間、エリオスは父の声を思い出した。王の血も物乞いの血も同じ赤色をしている。腹を切れば誰だって痛がる。父はそう言っていた。幼い頃は当たり前のことだと思っていたが、今になって、その言葉がどれほど危険な思想だったのかを理解した。この国では、王族の命を守るためなら、何百人もの子供を殺しても構わないのだ。父はそれを否定した。だから殺された。
「父は、あなたに何と言ったんですか」
国王はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「セヴランは、私に息子を殺せと言ったのだ。あの薬を使い続ければ、王太子はもはや人間ではなくなる。これ以上苦しませるくらいなら、安らかに死なせてやるべきだとな。父親である私に、そんなことを言ったのだ」
エリオスは王太子の棺を見た。十年間、黒紫色の液体に浸され、肉体を変形させながら生かされ続けた青年。十六歳だった王太子は、今では二十六歳になっているはずだが、その顔は十年前のままだった。時間さえ奪われたような姿だった。父はこの青年を救おうとしたのだ。生かすことだけが治療ではないと、国王に訴えたのだろう。だが、その言葉は王の怒りを買い、ヴァルケイン家の滅亡につながった。
「……あなたは、息子を愛していたのではありません」
エリオスが言うと、国王の眉が動いた。
「何だと」
「あなたが愛していたのは、王家の血を継ぐ跡取りです。息子が苦しんでいても、何百人もの人間を犠牲にしてでも、王家の血筋を残したかっただけでしょう」
国王の顔が歪んだ。エリオスは続けた。
「父は、王太子殿下を人間として見ていた。だからこそ、これ以上苦しませるなと言ったんです。あなたには、それが理解できなかった」
国王は突然、腰の剣を抜いた。だが、その刃がエリオスに届く前に、ティルマンが間に入った。剣はティルマンの肩を深く切り裂き、血が床に飛び散った。エリオスは反射的にティルマンを支え、傷口を押さえた。国王はなおも剣を振り上げようとしたが、そのとき、石室の奥から低い声が響いた。
「もう、おやめください……父上……」
エリオスは顔を上げた。王太子の棺の中で、アシュレインが目を開けていた。黒紫色の液体の中で唇が動き、かすかな声が漏れている。十年間、誰にも聞かれることのなかった声だった。
「私は……もう……疲れました……」
国王は剣を落とした。
「アシュレイン……お前……」
「父上……お願いです……もう……誰も……殺さないで……」
王太子の目から、涙が一筋流れた。液体の中に溶けて消えていくその涙を、エリオスは黙って見つめていた。父が十年前に救おうとしたのは、この青年だったのだ。王族としてではなく、一人の人間として。父は最後まで医者だった。自分が処刑されるとわかっていても、患者の苦しみを見捨てることができなかった。
国王は棺に縋りつき、息子の名を何度も呼んだ。だが、王太子はもう目を開けなかった。心臓はまだ動いていたが、その鼓動は弱く、途切れがちになっていた。エリオスは棺の側面に刻まれた投薬記録を見た。禁薬の投与は限界に達しており、これ以上続ければ肉体が崩壊することは明らかだった。父は十年前にそれを見抜いていたのだろう。だからこそ、治療の中止を求めた。だが、王は聞かなかった。
そのとき、ティルマンがエリオスの腕を掴んだ。
「カシアン様……まだ、終わっていません……」
ティルマンは血に濡れた手で、懐から一冊の古い記録帳を取り出した。表紙にはセヴランの筆跡で「禁薬研究記録」と記されている。エリオスが開くと、そこには王家の人体実験の詳細が記されていた。被験者の名前、年齢、出身地、投薬量、死亡日時。そして、そのすべてに国王とオズワルドの承認印が押されていた。父は処刑される前に、この記録を密かに持ち出していたのだ。
「これを……十年前に……公表できなかったのですか」
エリオスが尋ねると、ティルマンは苦しそうに笑った。
「できませんでした……王宮の外へ持ち出したところで……誰も信じてくれなかったでしょう……それに……」
ティルマンはそこで言葉を切った。エリオスは嫌な予感を覚えた。十年前、父の友人たちは自分を逃がすために少年の遺体を調達した。身元不明の子供の遺体だと聞かされていた。だが、今目の前にある記録帳には、同じ年齢の子供たちが番号で管理され、人体実験の材料として使われていたことが記されている。
「……まさか」
エリオスは記録帳をめくった。十年前の処刑日の前日に死亡した被験者の欄に、十二歳の少年の記録があった。名前は記されていない。番号は第四十二号。死亡原因は禁薬の拒絶反応による多臓器不全。遺体は王都の共同墓地へ移送されたと記されている。
エリオスは顔を上げた。
「私の身代わりになった子供は……」
ティルマンは目を閉じた。
「その少年です。マティアス様が墓地の管理人から引き取った遺体は、王宮の実験で死んだ子供でした」
エリオスは言葉を失った。十年間、自分の代わりに死者として扱われた少年が誰なのか、ずっと気になっていた。名前も知らず、顔も知らず、どこで生まれ、どうして死んだのかも知らない。自分が生き延びるために、誰かの死を利用した。そのことを忘れた日はなかった。だが、その少年まで王家の犠牲者だったとは思わなかった。
「なぜ……私に教えてくれなかったんですか」
「あなたを守るためです。あの少年の遺体が王宮の実験に使われたものだと知られれば、偽装死亡が疑われるかもしれなかった。だから、すべてを隠しました」
ティルマンの声は弱々しかった。エリオスは記録帳を握りしめた。十年前、父は自分を生かすために友人たちへ頭を下げた。友人たちは命懸けで遺体を調達し、偽装死亡を成功させた。その遺体が、王家の実験で死んだ少年だった。父が救えなかった子供の一人が、父の息子を救ったのだ。あまりにも残酷な巡り合わせだった。
エリオスはしばらく動けなかった。十年間、自分は生き残ったことを恥じてきた。家族が死んだのに、自分だけが生きている。父の無実を証明することもできず、ただ貧民街で人を治している。そんな自分に、生きている価値があるのかと何度も考えた。だが、今になってようやくわかった。自分が生きているのは、父の願いだけではなかった。名前も知らない少年の死があり、父の友人たちの犠牲があり、何人もの人間が命を懸けて守ってくれたからこそ、今ここにいるのだ。
そのとき、国王が笑い始めた。
「くだらん……たかが孤児一人の死が、何だというのだ。王家のために死ねたのなら、むしろ名誉ではないか」
エリオスはゆっくりと顔を上げた。国王は棺の前に立ち、狂ったように笑っていた。
「お前たちは何もわかっておらん。王家が滅びれば、この国は終わる。王族の命を守るためなら、百人でも千人でも犠牲にする。それが王の責務だ」
エリオスは国王を見つめた。十年間、父を殺した者たちを憎み続けてきた。復讐のためなら、自分の命を捨てても構わないと思っていた。だが今、目の前にいる男を殺したところで、父が望んだものは戻らない。母も、家族も、身代わりになった少年も、生き返らない。それでも、この男を許すことはできなかった。
「陛下。あなたは、医者に診てもらったことがありますか」
国王は笑いを止めた。
「何を言っている」
「病気になれば医者を呼び、怪我をすれば治療を受ける。あなたはそれを当然の権利だと思っているのでしょう。ですが、医者は神ではありません。救える命にも限界があります。父はそれを知っていた。だからこそ、あなたに治療の中止を求めたんです」
エリオスは記録帳を掲げた。
「あなたが殺した人間の名前は、ここにすべて残っています。父が書き残した記録です。あなたはこの人たちを番号でしか見ていなかったでしょう。でも父は、一人ひとりの名前を調べ、年齢を記し、どこから連れてこられたのかを残していた。誰かに忘れられないように」
国王の顔が歪んだ。
「黙れ!」
「黙りません。十年前、父は黙らなかった。だから殺された。今度は私が話します。あなたが何をしたのか、この国のすべての人間に知らせます」
エリオスはティルマンを支えながら立ち上がった。オズワルドは床に座り込んだまま、顔を覆っていた。国王は剣を拾おうとしたが、エリオスが先に足で遠ざけた。
「あなた方は、私の家族を殺しました。父の名誉を奪い、母を処刑し、私から名前も人生も奪った。十年間、私はあなた方を殺すことばかり考えてきました。でも、今は違います」
エリオスは国王の目を見据えた。
「あなた方には、生きて、自分たちが何をしたのかを見届けてもらいます。王家の秘密が暴かれ、あなた方が守ろうとしたものがすべて崩れていくところを、最後まで見てもらいます」
国王は何かを言い返そうとしたが、言葉が出なかった。エリオスは記録帳を胸に抱え、地下墓所を後にした。背後では、王太子の棺から微かな鼓動が聞こえていた。エリオスは一度だけ振り返った。十年前、父が救おうとした青年が、今も苦しみ続けている。その姿を見て、胸の奥に小さな痛みが走った。父なら、きっとこの青年を見捨てなかっただろう。自分もまた、そうするべきなのかもしれない。だが、今はまだ、その答えを出せなかった。
王宮の秘密が明るみに出たのは、それから三日後だった。ティルマンが長年密かに連絡を取っていた司法官と、王宮の不正を調べていた貴族たちが動いたのである。エリオスが持ち出した禁薬研究記録には、国王とオズワルドの承認印が残されており、地下墓所には生きた被験者たちがいた。さらに、十年前に死亡したとされる王太子が生存していることも確認された。これらの証拠は王都中に広まり、王家の権威は瞬く間に失墜した。国王は退位を余儀なくされ、オズワルドは医師免許を剥奪されたうえで投獄された。ヴァルケイン家に下された判決は正式に取り消され、セヴラン・ヴァルケインの名誉は回復された。
だが、エリオスの胸は晴れなかった。父の無実が証明されても、母は戻らない。家族も戻らない。十年間の苦しみが消えるわけでもない。王都の人々はセヴランを英雄と呼び、かつて石を投げた者たちまで涙を流して謝罪したが、エリオスにはその言葉が空虚に聞こえた。十年前、父が処刑台に立たされたとき、誰も助けようとしなかった。母が泣き叫んでも、誰も手を差し伸べなかった。それなのに今になって、皆が父を称えている。人間というものは、どうしてこんなにも簡単に態度を変えられるのだろう。
ある日、エリオスは王都の共同墓地を訪れた。そこには、十年前に自分の身代わりとなった少年の墓があった。名前のない小さな墓石だった。エリオスはその前に膝をつき、花を供えた。
「……ありがとう」
声に出すと、涙がこぼれた。十年間、誰にも言えなかった言葉だった。自分が生きているのは、この少年が死んだからだ。少年が死ななければ、父の友人たちは別の遺体を探さなければならなかった。もしかしたら、間に合わなかったかもしれない。そう考えるたび、胸が締めつけられた。
「君の名前を、知りたかった」
墓石に触れながら、エリオスは呟いた。少年の名前は、記録帳にも残されていなかった。王家にとっては、ただの第四十二号だったのだ。エリオスはその番号を墓石に刻むことを拒んだ。少年には名前があったはずだ。誰かに呼ばれ、誰かに愛され、笑った日も泣いた日もあったはずだ。そのすべてを奪われた少年を、最後まで番号で呼ぶことなどできなかった。
墓地を出る頃には、夕暮れが迫っていた。エリオスは王都の貧民街へ戻った。診療所の扉には、今日も患者が列を作っていた。正式な医師免許を取得することも、父の名を継いで宮廷医師になることもできたが、エリオスはそのどちらも選ばなかった。十年間、自分を支えてくれたのは、この街の人々だった。身分も金もない自分に、治療を任せてくれた人々だった。だからこそ、ここで医者を続けたいと思った。
診療所の扉を開けると、最初の患者が入ってきた。痩せた少年で、腕に深い傷を負っていた。エリオスは少年を椅子に座らせ、傷口を洗い始めた。少年は痛みに顔を歪めながらも、必死に泣くのを堪えていた。その姿が、十年前の自分と重なった。
「痛かったら、泣いてもいいんだよ」
エリオスがそう言うと、少年は驚いた顔をした。
「……男なのに、泣いてもいいの?」
「もちろん。痛いものは痛いんだから」
少年はしばらく唇を噛んでいたが、やがて小さく泣き始めた。エリオスはその頭を撫でながら、父のことを思い出した。父も、こんなふうに患者に接していた。王の血も物乞いの血も同じ赤色をしている。腹を切れば誰だって痛がる。だから医者は、相手の身分で治療を選んではいけない。
十年前、父はその信念を貫いて殺された。けれど、その教えは今も自分の中に生きている。父が守ろうとしたものを、自分はこれからも守っていくのだろう。
夜になり、診療所の灯りが窓から漏れ始めた頃、エリオスは机の引き出しから父の懐中時計を取り出した。蓋を開くと、若い父と母、そして幼い自分が笑っている。エリオスはその肖像をしばらく見つめ、静かに蓋を閉じた。
「父上、母上……私は、まだ生きています」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、薄暗い診療所に溶けて消えた。だが、その声には十年前にはなかった確かな強さがあった。
カシアン・ヴァルケインは、十二歳のときに死んだことになっている。王国の記録には、今もその名が刻まれているだろう。けれど、エリオスという名の闇医者は、今日も貧民街で人を治している。
父が救えなかった命を、一つでも多く救うために。
そして、二度と誰かの命が、王冠の下で踏みにじられることのないように。
――完――
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




