第一話 死んだ息子
父が処刑された日、王都ヴェルデュールには朝から雨が降っていた。十二歳だったカシアン・ヴァルケインは、荷馬車の底に敷き詰められた汚れた藁の中で膝を抱え、遠くから聞こえてくる鐘の音を数えていた。一度目の鐘が鳴ったとき、父が死んだ。二度目には母が、三度目には祖父が処刑された。鐘はその後も鳴り続け、祖母、叔父夫婦、従兄弟たち、屋敷に仕えていた使用人まで、ヴァルケイン家に連なる者が一人残らず殺されたことを王都中に知らせた。カシアンは両手で耳を塞いだが、鐘の音は指の隙間から容赦なく入り込んできた。泣いてはいけないと言われていた。声を出せば、荷馬車を調べられるかもしれない。そうなれば、自分を逃がしてくれた人たちまで殺される。だから唇を噛み、口の中が血の味でいっぱいになっても、声だけは出さなかった。昨日まで当たり前のようにあった家がなくなり、家族がなくなり、自分の名前さえ捨てなければならないというのに、どうして世界は何事もなかったように動いているのだろう。荷馬車の車輪が石畳を踏むたび、カシアンはそんなことばかり考えていた。
セヴラン・ヴァルケインは、王国で最も優れた宮廷医師と呼ばれていた。王族の診療を任される一方、貧民街にも足を運び、診察料を払えない者を追い返したことがなかった。カシアンは幼い頃から父の診療室に入り浸り、薬草の名前を覚え、傷口を洗う水を運び、父が患者に触れる手つきを飽きることなく眺めていた。父はよく、人間の体は身分によって違うものではないと言った。王の血も物乞いの血も同じ赤色をしているし、腹を切れば誰だって痛がるのだから、医者が相手の身分で治療を選んではいけないのだと。その父が王太子殺害の罪に問われたのは、王太子が十六歳の誕生日を迎える三日前だった。王太子は突然、全身の血管が黒く浮き上がる奇病を発症し、宮廷医師団による治療の甲斐もなく死亡した。死因はセヴランが処方した薬による中毒とされ、薬瓶から禁薬の成分が検出されたという。父は一貫して無実を訴えたが、裁判はわずか二日で終わった。証人として立ったのは、父と二十年来の親交があった宮廷医師長オズワルド・ベルクマンだった。彼は父が王太子に禁薬を投与するところを見たと証言し、さらに父が以前から王家の血を使った禁忌の研究に関心を示していたと付け加えた。父はその証言を聞いて初めて、裁判の間ずっと保っていた平静を失ったという。親友だと思っていた男が、自分を殺すために嘘をついている。その事実が、死刑判決そのものよりも父を傷つけたのかもしれない。
ヴァルケイン家の処刑が決まった夜、父は三人の友人に密かに手紙を送った。いずれも王宮とは無関係の医師や薬師で、かつて父に命を救われた者たちだった。彼らは王都の墓地を管理する老人から、身元のわからない十二歳前後の少年の遺体を引き取り、顔を判別できないよう処置したうえで、カシアンの寝衣を着せた。そして処刑当日の朝、ヴァルケイン家の両親が息子を苦しませまいとして毒杯を飲ませたという届けを出した。検分に訪れた役人は、変色した遺体を一瞥すると、鼻を押さえて部屋を出ていった。王命は一族の根絶を求めていたが、死者を改めて処刑台に上げる決まりはない。死亡証明書に署名がなされ、カシアン・ヴァルケインは正式に死者となった。父の友人たちは、その直後に本物のカシアンを汚物運搬用の荷馬車に隠して王都の外へ逃がした。少年は自分の代わりに死者として扱われた子供が誰なのかを知らなかった。名前も、どこで生まれ、どうして死んだのかも。父が助けようとしていた貧しい人々の中には、こうして名前さえ残らず消えていく子供がいるのだと、彼はそのとき初めて知った。
逃亡の手引きをした三人のうち、一人は半年後に病死し、一人は王都から姿を消した。最後まで面倒を見てくれた老薬師マティアスも、カシアンが十五歳になった冬、流行り病で亡くなった。死の間際、老人は何度も謝った。父の無実を証明できなかったこと、母を助けられなかったこと、そして何より、まだ子供だったカシアンにこれから先の人生を一人で生きさせることを。カシアンは謝らないでほしかった。老人がいなければ自分はとっくに死んでいたし、老人が教えてくれた薬の知識があれば、どうにか食べていけると思っていたからだ。しかし現実は、それほど甘くなかった。身分証のない少年を雇うまともな店などなく、住む場所も借りられず、病に倒れても施療院では名前と出生地を尋ねられる。父の名を口にすることはできなかった。ヴァルケイン家の生き残りと知られれば、今度こそ殺される。エリオスという名は、そんな生活の中で自分につけたものだった。誰の息子でもなく、どこの家の者でもない。ただのエリオス。そう名乗れば、少なくとも父の名を汚さずに済むと思った。
***
十年間、彼は人が生きるためにどれほど醜くなれるのかを嫌というほど見てきた。飢えた母親が乳飲み子を売るところも、借金のかたに妻を差し出す男も、治療費を払う代わりに死んだ隣人の指から指輪を抜き取ってくる老人も見た。十七歳の頃には、貴族の私兵に殴られて瀕死となった娼婦を助けたことで逆恨みされ、三日間地下牢に閉じ込められた。娼婦が死ねば、貴族は面倒な口封じをする必要がなかったのだという。エリオスはそこで左手の小指を折られ、二度と治療行為をするなと脅された。釈放された夜、腫れ上がった指を自分で固定しながら、父が生きていたら何と言うだろうと考えた。きっと、よく頑張ったと言ってくれる。そう思った途端、堪えていたものが崩れた。父の声を思い出そうとしても、もうはっきりとは思い出せなかった。顔も少しずつ曖昧になっていた。十年という歳月は、人から家族を奪うだけでは飽き足らず、残された記憶まで腐らせていくらしい。それが何より恐ろしかった。
***
二十二歳になったエリオスは、王都の最も貧しい地区に小さな診療所を構えていた。診療所といっても、廃業した肉屋の建物を借り受け、血の染みた床板を削り、古い調理台を手術台に作り替えただけの粗末な場所だった。窓は一つしかなく、雨が降れば天井から水が漏れた。それでも患者は絶えなかった。正式な医師免許を持たない彼のところへ来るのは、正規の施療院に行けない人間ばかりだったからだ。犯罪者、娼婦、逃亡奴隷、貧しい労働者、時には身元を隠した貴族の使いまでやって来た。エリオスは患者の素性を尋ねなかった。金があれば受け取り、なければ後で払えと言った。払わずに消える者も多かったが、追いかけたことはない。父の真似をしているだけだと自分では思っていたが、時折、自分が何のために生きているのかわからなくなることがあった。父の無実を証明したい。その気持ちは十年前から変わらない。けれど、証拠も、味方も、身分もない。王宮に近づくことさえできない自分に、いったい何ができるというのか。復讐を誓った夜は数え切れないほどあったが、翌朝になれば腹を空かせた患者が扉を叩き、彼はまた薬を煎じ、傷を縫い、命をつなぐことに一日を費やした。
その夜、診療所に運び込まれた男は、腹の中で何かが蠢いていた。粗末な外套を着た老人で、右の頬から顎にかけて皮膚が黒く変色し、口を開くたびに腐肉のような臭いが漏れた。男を連れてきた若い女は、治療費ならいくらでも払うと言い、金貨の詰まった袋を机に置いた。エリオスは金貨には触れず、老人の衣服を切り開いた。腹部は異様に膨れ、皮膚の下を黒い筋が這い回っている。指で押すと筋が逃げるように動き、老人が喉を引きつらせて悲鳴を上げた。エリオスはその症状に見覚えがあった。正確には、父の書斎で見た医学書の挿絵に似ていた。幼い頃、父が決して触れてはいけないと言って鍵をかけていた書物。その中に、黒い血管が全身に広がり、内臓が異常に肥大化した患者の図があった。王太子が死亡したときの症状も、確か同じだったはずだ。エリオスは老人の瞼を開き、瞳孔を確かめた。白目に細い黒い線が走っている。さらに舌の裏を調べると、そこには小さな紋章のような痣が浮かんでいた。三本の棘を持つ王冠。それはヴェルデュール王家の古い紋章だった。
「この方は、どこでこのような状態になったのですか」
女は答えなかった。エリオスが顔を上げると、彼女は唇を噛み、何かを言いかけては飲み込んでいた。身なりは貧しいが、手には労働の痕がなく、首元には外套で隠しきれない上質な絹が見えた。貴族の使用人か、それとも貴族本人か。どちらにせよ、事情を隠していることは明らかだった。エリオスは追及をやめ、老人の腹部に耳を当てた。内側から湿った音が聞こえる。腸が動く音ではない。何かが肉を擦り、ゆっくりと場所を変えている。老人の脈は異常に速く、このままでは朝を迎える前に死ぬだろう。エリオスは女に、手術をしなければ助からないと告げた。女は震える声で、何をしても構わないから生かしてほしいと言った。エリオスはその言葉を聞いて、妙な気分になった。十年前、父も同じことを言われたのではないだろうか。王太子を救ってほしい。何をしても構わない。そう懇願され、懸命に治療した挙げ句、殺人者として処刑されたのではないか。そんな考えが頭をよぎったが、目の前の患者を見捨てる理由にはならなかった。
手術は夜半から始まった。エリオスは老人に麻酔薬を飲ませ、腹部を慎重に切り開いた。皮膚の下には黒く変色した脂肪が広がり、腹膜には細かな斑点が浮かんでいた。異様だったのは、腹腔内に溜まった黒紫色の液体だった。血液とも膿ともつかないそれは、器具に触れると糸を引くように伸び、腐敗した臓器の表面にまとわりついていた。腸の一部は壊死し、肝臓には小さな瘤が無数に生じている。エリオスは壊死した組織を取り除き、腹腔内を洗浄しながら、父の書物にあった記述を必死に思い出していた。あの本には、王家の血を用いて調合された禁薬が、投与された者の体内で異常な増殖を引き起こすと書かれていたはずだ。ただし、禁薬そのものは王族にしか作用しないとも記されていた。もしそれが本当なら、この老人は王族ということになる。だが王家の血筋を持つ者は厳重に管理されており、こんな貧民街に運び込まれるはずがない。
老人の腹部から取り出した黒い塊を器に移したとき、エリオスは思わず手を止めた。塊の中心には、米粒ほどの白い硬質物が埋まっていた。骨片に似ているが、表面には細かな文字が刻まれている。父の書斎で見た禁薬の挿絵にも、同じものが描かれていた。エリオスはそれを取り出し、洗浄液に浸した。黒い膜が剥がれると、白い表面に刻まれた紋様がはっきりと現れた。三本の棘を持つ王冠と、その下に刻まれた小さな数字。王家の古い暦で記された製造年だった。十年前、王太子が死亡した年と一致している。エリオスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。父が処刑された事件と、目の前の老人の病が、同じ禁薬でつながっている。偶然で片づけるには、あまりにも出来すぎていた。
手術が終わったのは夜明け前だった。老人はまだ意識を取り戻さなかったが、脈は落ち着き、呼吸も安定していた。エリオスが手を洗って戻ると、女は老人の枕元で泣いていた。彼女はエリオスに深く頭を下げ、約束した金貨をすべて置いていこうとした。エリオスは半分だけ受け取り、残りは薬代と今後の療養費に使うよう告げた。女は驚いた顔をしたが、何も言わずに金貨をしまった。そのとき、老人が微かに呻いた。女が慌てて身を乗り出すと、老人は彼女の手を掴み、乾いた唇を震わせた。言葉にならない声が何度か漏れ、やがて老人の目がエリオスを捉えた。
「……その手は……」
老人はエリオスの左手を見つめていた。小指がわずかに曲がったままになっている手。十七歳のときに折られ、完全には元に戻らなかった指だった。老人は何かを思い出したように顔を歪め、女の手を強く握った。
「セヴラン……あの男の……」
エリオスは息を呑んだ。父の名前を、こんな場所で聞くとは思っていなかった。老人の目は恐怖に見開かれ、喉の奥から濁った音が漏れていた。
「生きて……いたのか……」
女が老人を落ち着かせようとしたが、老人は聞かなかった。エリオスの顔を見つめたまま、震える指で彼を指した。
「殺したはずだ……あの子供は……毒を飲んで……死んだはず……」
エリオスは動けなかった。老人は自分を知っている。十年前、十二歳だったカシアン・ヴァルケインを知っている。それだけではない。毒杯による偽装死亡のことまで知っている。父の友人たちが命懸けで隠したはずの秘密を、この老人は知っていたのだ。女が青ざめた顔で老人の口を塞ごうとしたが、エリオスはその手を掴んだ。
「あなたは誰ですか」
老人は答えなかった。代わりに、喉の奥から奇妙な笑い声を漏らした。笑っているのか、泣いているのかもわからない声だった。
「……あの男は……最後まで……知らなかった……」
「何をですか。父は何を知らなかったんですか」
「王太子は……死んでなど……」
そこで老人の体が激しく痙攣した。腹部の縫合部分から黒い液体が滲み出し、首筋に浮かんだ血管が一斉に膨れ上がった。エリオスはすぐに処置を始めたが、老人の心臓は急速に弱っていった。手術で取り除いたはずの禁薬が、まだ体内に残っていたのだ。老人は最後の力を振り絞り、エリオスの袖を掴んだ。
「地下……王家の墓……棺を……開けるな……」
老人の指が緩み、手が寝台から落ちた。エリオスは脈を確かめ、胸に耳を当て、何度も呼びかけたが、返事はなかった。老人は死んだ。十年前の真実を知る者が、目の前で死んだのだ。エリオスはしばらく動けなかった。父の名を聞いた瞬間から、胸の奥に押し込めていたものが暴れ始めていた。怒りなのか、恐怖なのか、それともようやく何かを掴めるかもしれないという期待なのか、自分でもわからなかった。ただ、老人が最後に口にした言葉だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。王太子は死んでなどいない。では、十年前に父は誰を殺した罪で処刑されたというのか。
女は老人の死を確認すると、突然、診療所の扉へ走った。エリオスが呼び止めるより早く、彼女は外へ飛び出し、夜明け前の路地へ消えていった。金貨の袋も、老人の遺体も置き去りだった。エリオスは追いかけなかった。今はそれどころではなかったからだ。彼は老人の遺体を改めて調べ始めた。腹部から取り出した白い骨片、舌の裏に浮かんでいた王冠の紋様、そして最後の言葉。すべてが十年前の事件につながっている。老人の外套を調べると、内側に小さな革袋が縫い付けられていた。中には古びた鍵と、一枚の紙片が入っていた。紙には王宮の地下墓所の見取り図が描かれ、最も奥にある王太子の棺の位置に赤い印がつけられていた。さらに、その下には震える筆跡で短い文章が記されていた。
『セヴラン・ヴァルケインは、王太子を殺していない。だが、彼が無実であることを証明すれば、この国の王家は終わる。』
エリオスは何度もその文章を読み返した。父が無実であることと、王家が終わることに、どんな関係があるというのか。王太子が生きているなら、なぜ死んだことにされたのか。そして、なぜ父は一族ごと処刑されなければならなかったのか。疑問は次々と浮かんだが、答えはどこにもなかった。エリオスは紙片を握りしめ、死んだ老人の顔を見下ろした。老人は何かを恐れていた。死の間際まで、王家の墓を開けるなと訴えていた。その恐怖が何に向けられていたのか、今なら少しだけわかる気がした。棺の中には、死んだ王太子の遺体があるはずだ。だが、もしそこに別のものが入っていたとしたら。もし十年前、父が処刑された理由が、王太子の死そのものではなかったとしたら。
窓の外が白み始めた頃、診療所の裏口が三度叩かれた。エリオスは反射的に身構えた。こんな時間に訪れる患者は珍しくないが、叩き方が妙だった。三度、間を置いて二度。幼い頃、父の診療室を訪ねる者が使っていた合図と同じだった。エリオスが扉を開けると、そこには黒い外套をまとった男が立っていた。顔の半分を覆う仮面の下から、白髪混じりの髪が覗いている。男はエリオスを見るなり、深く頭を下げた。
「ようやくお会いできました、カシアン様」
十年間、一度も他人の口から聞くことのなかった名前だった。エリオスは背筋が凍るのを感じた。男は懐から古い銀の懐中時計を取り出した。蓋にはヴァルケイン家の紋章が刻まれていた。父がいつも胸ポケットに入れていた時計だった。処刑の日、父の持ち物はすべて王宮に没収されたはずだった。
「セヴラン様からお預かりしたものです。あなたが二十二歳になり、あの方の遺した秘密に辿り着いたとき、必ずお渡しするようにと」
男は時計を開いた。内側には小さな肖像画が収められていた。若い頃の父と母、そして幼いカシアン。家族三人が並んで笑っている。エリオスはその絵を見た瞬間、喉の奥が詰まった。母の顔を、こんなにはっきり見たのは十年ぶりだった。忘れていたと思っていた声や匂いまで、一度に蘇ってきた。母はいつも、父の帰りが遅いと文句を言いながら、夕食を温め直して待っていた。父はそんな母に謝り、カシアンの頭を撫で、三人で食卓を囲んだ。何でもない日々だった。あの頃は、それが永遠に続くものだと思っていた。
「父は……何を知っていたんですか」
男は答える前に、診療所の奥に横たわる老人の遺体を見た。その瞬間、仮面の下の顔が強張った。
「その男を、治療されたのですか」
「ええ。ですが助けられませんでした。父のことを知っているようでしたが、あなたもこの男をご存じなのですか」
男はしばらく黙っていた。やがて、低い声で答えた。
「その男は、十年前に王太子の遺体を検分した宮廷医師です。セヴラン様が王太子を殺したと証言した者の一人でもあります」
エリオスは死体を見た。父を陥れた人間が、自分の診療所で死んでいる。十年間、殺してやりたいと願い続けた者たちの一人を、自分は必死に救おうとしていたのだ。おかしな話だった。もし最初から正体を知っていたら、同じように治療できただろうか。苦しむ姿を眺め、もっと苦しめばいいと思わなかっただろうか。父ならきっと助けただろう。けれど自分は父ではない。家族を殺された恨みを忘れられるほど、立派な人間でもなかった。
「なぜ今になって現れたんですか。十年間、どこにいたんですか」
男は答えず、懐中時計の裏蓋を外した。そこには薄く折り畳まれた紙が隠されていた。父の筆跡だった。エリオスは震える手でそれを受け取り、ゆっくりと開いた。短い手紙だった。処刑前夜に書かれたものらしく、ところどころに血の染みが残っていた。
『カシアンへ。お前がこれを読む頃には、私はもうこの世にいないだろう。父として、お前を守れなかったことを許してほしい。私は王太子を殺していない。だが、私が知ってしまったことは、王太子の死よりも恐ろしい。王家は長い年月をかけて、死者を生かす方法を探していた。そして、そのために生きた人間を使っている。お前がいつか真実を知ることになったとしても、どうか復讐のために自分を失わないでほしい。お前には、私のような医者になってほしいのではない。ただ、生きていてほしい。お前が生きていることだけが、私と母さんに残された最後の救いなのだから。』
最後の一行を読んだところで、文字が滲んだ。エリオスは手紙を握りしめ、声を殺して泣いた。父は最後まで自分のことを案じていた。無実を証明してほしいとも、仇を討ってほしいとも書いていなかった。ただ生きてほしいと、それだけを願っていた。十年間、自分は何をしていたのだろう。父の無実を信じながら、何もできない自分を責め続け、復讐を誓っては諦め、父の教えに縋るように人を治してきた。けれど父が本当に望んでいたのは、そんな苦しみではなかったのかもしれない。
男はエリオスが泣き止むまで待っていた。やがて、静かに口を開いた。
「セヴラン様は、王家の秘密を知ったために殺されました。王太子殺害の罪は、その秘密を葬るために作られたものです。そして、あなたのご家族が皆殺しにされたのも、同じ理由です」
「……王家は、何を隠しているんですか」
男は懐からもう一枚の紙を取り出した。それは王宮の地下墓所に保管されている棺の一覧だった。十年前に死亡した王太子の名が記され、その下には、さらに古い時代の王族たちの名前が並んでいた。エリオスは目を通し、あることに気づいた。王太子の棺だけが、他の棺と異なる印をつけられている。そして同じ印が、百年以上前に死亡した王族の棺にも記されていた。
「王家の地下墓所には、決して開けてはならない棺があります。そこに眠っているのは、死んだ王族ではありません」
男はそこで言葉を切った。診療所の外から、馬車の車輪が石畳を踏む音が聞こえてきた。続いて、金属の擦れる音。武装した兵士が馬車から降りる音だった。男は窓の隙間から外を覗き、顔色を変えた。
「……もう嗅ぎつけられたか」
エリオスも窓へ近づいた。路地の入口には王宮直属の近衛兵が十数人並び、その中央に黒い馬車が停まっていた。扉に刻まれているのは、三本の棘を持つ王冠。老人の舌の裏に浮かんでいたものと同じ紋章だった。馬車の扉が開き、一人の男が降りてきた。白髪を丁寧に撫でつけ、上等な黒い礼服を着た老人。エリオスはその顔を知っていた。十年前、父の裁判で偽証した宮廷医師長オズワルド・ベルクマンだった。
オズワルドは診療所の前に立つと、扉越しに穏やかな声をかけた。
「エリオス先生。昨夜、こちらに運び込まれた患者についてお尋ねしたいことがあります。どうか扉を開けていただけませんか」
その声を聞いた瞬間、エリオスの中で何かが音を立てて切れた。十年間、夢の中で何度も聞いた声だった。父を殺人者と呼び、王国のために処刑すべきだと証言した男。その男が今、自分の診療所の前で、何事もなかったように丁寧な言葉を使っている。エリオスは手術台の上に置かれたメスを取った。父が使っていたものではない。自分が十年間、数え切れないほどの命をつないできた道具だった。
「……父上」
声に出してみると、胸の奥に残っていた悲しみが、ゆっくりと別のものに変わっていくのがわかった。父は復讐を望まなかった。けれど、父を殺した者たちは今も生きている。自分たちが何をしたのかも忘れ、罪を償うこともなく、また誰かを殺そうとしている。それを見過ごすことが、父の教えを守ることになるのだろうか。
エリオスはメスを置き、父の手紙を胸元にしまった。そして、死んだ老人の腹部から取り出した白い骨片を小瓶に収めると、静かに診療所の扉へ向かった。
「お待たせしました、ベルクマン卿」
扉を開けた瞬間、オズワルドの顔から笑みが消えた。彼はエリオスの顔を見つめ、まるで墓から死人が這い出してきたかのように目を見開いた。
「……まさか……」
エリオスは微笑んだ。十年間、鏡を見るたびに父に似てきたと思っていた顔を、今は隠そうとも思わなかった。
「お久しぶりです。十年前、あなたが殺した男の息子です」
オズワルドの唇が震えた。その反応だけで十分だった。父を陥れた男は、カシアン・ヴァルケインが生きていることを知らなかったのだ。エリオスはゆっくりと一歩踏み出した。
「父の無実を証明するために、少しお話を伺いたいのですが」
オズワルドは答えなかった。代わりに、背後の近衛兵たちへ目配せした。剣が一斉に抜かれ、朝の薄い光を受けて鈍く光った。エリオスはその刃を見つめながら、十年前の処刑台を思い出していた。父も、母も、同じように剣を向けられたのだろう。逃げ場のない場所で、何を思ったのだろう。
だが、今度は違う。
十二歳の少年は、もういない。十年間、泥水を啜り、腐肉を切り、死にかけた人間を何百人も救ってきた闇医者が、ここにいる。
エリオスは近衛兵たちを見渡し、最後にオズワルドへ視線を戻した。
「先生。人間の体というものは、実に正直なんですよ。どれほど立派な服を着ていても、腹を開けば、隠していたものが全部見えてしまう」
オズワルドの顔が引きつった。
「あなた方が十年間、何を隠してきたのか。私がこの手で、確かめさせていただきます」
そのとき、診療所の奥で、死んだはずの老人が小さく呻いた。
エリオスは振り返った。手術台の上に横たわる老人の腹部が、再び膨らみ始めていた。縫合した傷口から黒い液体が滲み、皮膚の下を何かが這い回っている。心臓は止まっているはずだった。呼吸も、脈も、確かに確認した。にもかかわらず、老人の指がゆっくりと動き、白く濁った目が開いた。
オズワルドが悲鳴を上げた。
「馬鹿な……まだ生きているのか!」
その声には、驚きよりも恐怖が滲んでいた。エリオスは老人の遺体を見つめた。腹部から黒いものが盛り上がり、皮膚を内側から押し破ろうとしている。老人の口が開き、血の混じった泡が溢れた。そして、喉の奥から、老人自身のものとは思えない若い男の声が漏れた。
「……父上……」
オズワルドはその場に膝をついた。近衛兵たちも動けずにいた。老人の口から、もう一度声がした。
「……なぜ……私を……殺したのですか……」
エリオスは息を呑んだ。その声を聞いたことはなかった。けれど、オズワルドの反応を見れば、それが誰の声なのかは明らかだった。
十年前に死んだはずの王太子。
その声が、見知らぬ老人の死体から聞こえていた。
そしてエリオスは、父が最後まで守ろうとした秘密が、想像していたよりも遥かにおぞましいものであることを、このとき初めて知った。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




