選び直すために
瑞穂の里を離れたあと、馬車は西へと進路を取った。
本来であれば、他の里を巡り、綴る者たちと状況を共有するべきだったのかもしれない。
だが、遥花たちは迷わなかった。
「……烏丸を追う。今は、それを最優先にしたい。」
遥花の言葉に、誰も異を唱えなかった。
総力戦の爪痕がまだ久遠全土に残る今、時間だけが確実に敵へと味方する。
迷いはあった。だが、立ち止まる理由はなかった。
向かう先は、篝火の里。
最前線に位置し、幽淵との境界を最も多く経験してきた土地。
篝火の里は、いつもと変わらないようでいて、どこか張り詰めていた。
巡回の数は増え、見張りの配置も以前より密になっている。
「やはり行くのか。」
里の奥、焚き火の明かりの下で、煌志は腕を組んだまま言った。
その顔には疲労がある。だが、迷いはない。
「港の戦いのあとだ。動くなら、今しかないだろうな。」
遥花は、小さく頷いた。
「……全部、報告は来ているんだよね?」
「ああ。」
即答だった。
「恭弥と茜の現状も、烏丸恭弥を洗脳した可能性のことも。
それに、お前たちが幽淵へ行くつもりなのもな。」
煌志は、焚き火に薪をくべながら続ける。
「幽淵は、久遠みたいな“国”じゃない。組織も、秩序も、信仰も、形だけだ。」
火がはぜる音が、言葉の隙間を埋めた。
「力ある者が、言霊を集める。守るためじゃない。自分の利益のためにだ。」
奏多が、思わず息を呑む。
「……じゃあ、烏丸たちは」
「当然、その考えで動いているだろう。」
煌志は視線を上げる。
「幽淵では、言霊は“武器”であり、“交渉材料”であり、“保身”だ。
正義も悪も関係ない。生き残った奴が、正しい。」
悠理は腕を組んだまま、静かに言った。
「……数ヶ月前に行ったときも、似たような空気は感じた。」
「だろ?」
煌志は苦く笑った。
「お前なら、分かってると思ったよ。ただな……」
一拍、間を置く。
「今は、あの頃より状況が悪い。
港での総力戦のせいで、幽淵側も警戒してる。力を持つ者ほど、余計に言霊を集め始めている。」
遥花は、無意識に拳を握った。
(……それでも、行かなきゃ。)
彼女の胸にある理由は、二つあった。
表向きの理由。
烏丸に会い、真実を聞くこと。
久遠の裏で何が行われていたのか。
なぜ「知りすぎた者」が切り捨てられたのか。
そして――
誰にも言っていない、もう一つ。
(……私が、異界に飛ばされた理由)
記憶を失ったあの日。
もしそれが偶然ではないのなら。
もし誰かの意図があったのなら。
「……遥花。」
煌志の声に、彼女は顔を上げた。
「覚悟はあるか?」
真っ直ぐな問いだった。
「幽淵に行けば、もう“知らなかった頃”には戻れない。」
遥花は、迷わず答えた。
「……うん。」
小さく、しかし確かな声。
「もう、知らないままでいたくない。」
煌志は、その答えをじっと見つめ、やがて口角を上げた。
「いい顔だ。」
そして、続ける。
「向こうには、まだ颯牙がいる。あいつも、今回の戦いで色々見ただろう。
連絡は取っておく。会えるようにしよう。」
陽路が、思わず笑う。
「相変わらず、仕事が早いですね。」
「最前線だからな。」
煌志は焚き火を背に、四人を見渡した。
「お前たちは、もう十分戦った。
だが、これからの戦いも困難なものとなるだろう。」
言葉に、沈黙が落ちる。
「疑え。信じろ。そして、自分で選べ。」
それが、激励であり、警告だった。
「帰ってこい。必ずだ。」
煌志の声は、炎よりも強かった。
篝火の里を後にし、境界へと向かう道すがら。
夕暮れの空が、赤から群青へと移ろっていく。
遥花は、歩きながら空を見上げた。
(ここからだ。)
失われたもの。
傷ついた人々。
信じていたものの揺らぎ。
それでも、歩き続けた先で――
ようやく“知ろうとする場所”に立った。
「ねぇ、悠理。」
「なんだ?」
「私、たぶん……怖い。」
正直な言葉だった。
「でも、それ以上に……知りたい。」
悠理は、少しだけ微笑んだ。
「それでいい。」
境界線が、近づいてくる。
久遠と幽淵を分かつ、曖昧な線。
遥花は、胸の奥で静かに呟いた。
(久遠を、もう一度選ぶために)
そして――
幽淵の闇へ。
第一部 久遠編 完




