正しさの名を借りて
久遠の空は、あの雨が嘘だったかのように澄んでいた。
港の騒乱から数日が経ち、各地に散っていた綴る者たちは、それぞれの里へと戻り、日常へと引き戻されていく。
それは「平穏への回帰」と呼ぶには、あまりにもぎこちないものだった。
遥花と悠理は、天響の里に留まっていた。
恭弥がこの里の綴る者であり、事件の中心にいた以上、事情聴取と処遇の判断を下す責任も、ここに集約される。
だからこそ。
あの牢での面会は、二人にだけ許されたのだ。
他の綴る者たちは、それぞれの里で言霊の封じと安定化に追われている。
この件に深く関われるのは、もはや限られた者だけだった。
天響の里の長老屋敷は、以前と変わらず厳かな空気を保っていた。
だが、ひとつだけ、決定的に違うものがある。
玉座のように設えられた席に座る人物が、変わっていた。
先代の長老、烏丸によって殺害された男の息子が、そこにいた。
まだ若い。
年の頃は、篝火の里の綴る者、煌志と大きく変わらないだろう。
だが、背筋は不自然なほど真っ直ぐで、視線には張り付いたような硬さがあった。
「……報告を」
短く告げる声には、感情がほとんど混じらない。
遥花が一歩前に出かけた、その時だった。
「私から話そう。」
悠理が、静かに口を開いた。
遥花は一瞬だけ彼を見る。
悠理は小さく頷き、視線だけで「任せろ」と伝えてきた。
――ここは、感情を出す場じゃない。
そう判断したのだろう。
悠理は、淡々と、しかし要点を外さずに語った。
恭弥が幽淵への任務中、首謀者の烏丸と接触していたこと。
その際、催眠、もしくは強い精神干渉を受けていた可能性が高いこと。
結果として、判断力が歪められ、今回の事件に加担したと考えられること。
「……そのため」
悠理は一度言葉を区切り、長老を真っ直ぐに見据えた。
「今後、同様の事件を防ぐためにも。
首謀者が再び久遠に刃を向けないよう、我々は幽淵へ渡り、直接調査・対処を行う必要があります。」
長老の視線が、わずかに細くなる。
「……遥花と、共にか?」
「はい。」
悠理は即答した。
「遥花もそろそろ外の国へ行ける実力はあるかと。
経験のためにも、彼女以上に適任はいないと考えます。」
遥花は、その言葉に胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
だが、顔には出さない。
悠理は続ける。
「また、恭弥については――」
その名が出た瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「真実が明らかになるまで、別の場所での軟禁を提案します。厳重な監視のもと、自害の恐れがない形で。」
長老の眉が、ぴくりと動く。
「情けをかけろ、と?」
「功績もあります。」
悠理は、淡々と返した。
「それに……これは、結芽の精神安定のためでもあります。」
その名を聞いた瞬間、長老は完全に言葉を失った。
しばらくの沈黙。
遥花は、その沈黙の重さに、思わず喉を鳴らす。
――見られている。
そう、直感的に感じた。
やがて、長老はゆっくりと二人を見渡し、口を開いた。
「……分かった。」
その声は、静かだった。
「そなたたちの言う通りにしよう。」
遥花の胸が、わずかに緩む。
だが、続く言葉が、その安堵を打ち消した。
「ただし――」
長老の目が、鋭く光る。
「必ず、父上を殺害した賊を捕らえよ。」
一拍。
「生死は、問わぬ」
その断言は、あまりにもはっきりしていた。
悠理の胸の内で、何かが冷たく沈む。
(……久遠の安定よりも、私怨か。)
彼は表情を変えずに頭を下げたが、内心では、この若き長老の資質を冷静に評していた。
この男は、里を治める器なのか。
それとも、復讐に縛られたまま、判断を誤るのか。
答えは、まだ出ない。
屋敷を出た瞬間、遥花は大きく息を吐いた。
「……通ったね。」
「ああ。」
悠理は短く答える。
「だが、条件付きだ。」
「分かってる。」
遥花は、遠くを見る。
(でも……これで)
幽淵に渡れる。
胸の奥で、別の思考が静かに動き出す。
――まずは、影風に連絡を。
彼がまだ幽淵にいるなら、何か掴めるはずだ。
久遠の裏側。
烏丸が「知りすぎた」真実。
そして――
自分が、なぜ異界に飛ばされたのか。
すべては、まだ繋がっていない。
二人は、その足で陽路の家へ向かった。
現在は、奏多もここで世話になっていた。
戸を叩くと、すぐに陽路が顔を出す。
「……遥花様? 悠理様?」
その後ろから、奏多も顔を覗かせた。
「戻ったんですね。どうでした?」
遥花は、二人を見て、はっきりと告げた。
「幽淵に行くことになったよ。」
一瞬の静寂。
「……は?」
奏多が、間の抜けた声を出す。
陽路は目を見開いたまま、言葉を失っている。
遥花は続けた。
「調査と、交渉。
それと……烏丸たちを追うため。」
奏多が、思わず笑うような息を吐いた。
「……また、厄介な道ですね。」
「うん。」
遥花は、小さく笑った。
「でも、行かなきゃ分からないことが多すぎる。」
陽路は、しばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……出発はいつですか?」
遥花は答える。
「うーん。三日後!」
外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。
久遠は、今日も変わらぬ顔をしている。
だが、その裏で何かが蠢いていることを、遥花はもう知ってしまった。
(もう、戻れない。)
それでも。
知らないふりをするよりは、ずっといい。
遥花は、胸の奥で静かに決意を固める。
ここからが、本当の始まりだ。
――久遠の外へ。 ――幽淵の闇へ。




