本能
言霊庫の奥は、静謐そのものだった。
棚に整然と収められた封印の数々が、長い歴史を物語る。
遥花はそこで、――先代綴る者・遥斗と向き合う。家で抱き合ったあの夜と違い、ここでは彼の眼差しに“務め”の色が濃い。
「……よく来たな、遥花。」
低く落ち着いた声。
家での再会のときとは違い、父・遥斗の瞳には、強い意思と覚悟が宿っていた。
あの時はただ抱きしめるしかなかった。けれど今は、綴る者として娘を見据えている。
「……はい。」
遥花は小さく返事をしたが、その声音は震えていた。
自分が「記憶を失った綴る者」であるという負い目が、胸を締めつけていた。
遥斗はしばし彼女を見つめ、やがて息を吐いた。
「記憶は……まだ戻らないと聞いた。」
「……はい。私には、この場所のことも、皆のことも……何も。」
言葉にすると、胸の奥が痛む。まるで、自分が自分でないと告白しているようで。
遥斗は眉をわずかに寄せたが、責める色はなかった。
むしろ、理解しようとするように深くうなずいた。
「……それでも、おまえの詞脈は息づいている。
失ったものは大きい。だが……おまえは確かに、綴る者だ。」
力強い言葉だった。
遥花は、張りつめていた心が一瞬だけ緩むのを感じた。
だが、次の瞬間にはまた不安がせり上がってくる。
「でも……本当に、務めを果たせるのかわかりません。
私は――ただの少女でした。あちらの世界で、友達と笑って過ごしていて……。」
そこで言葉が途切れた。
胸に押し寄せる現実感と、帰れないかもしれないという恐怖。
父に向かって口にするのはあまりにも情けなく、けれど止められなかった。
遥斗はその言葉を遮らず、じっと聞いていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「遥花。綴る者は、選んでなれるものではない。
おまえが生まれ持った詞脈が、それを選んだのだ。
――たとえ記憶を失っても、それが消えることはない。」
父の声は穏やかで、それでいて揺るぎなかった。
その言葉に、遥花の胸の奥で小さな灯が揺れた。
その瞬間――中霊の間の方から微かなざわめきが走る。
胸の奥で細い糸がきしむような、嫌な震え。遥花が最初に顔を上げる。
「……来る。」
ほとんど本能の声だった。




