正しい側に立てなくなる夜
重い沈黙が、牢の中に沈殿していた。
「お前たちは、久遠が“正しい側”だと、まだ言えるか?」
恭弥の問いかけに、遥花も悠理も、すぐには言葉を返せなかった。
否定も肯定もできない。
それは、答えが見えないというより、答えてしまえば、何かが壊れると本能的に分かっていたからだ。
雨音だけが、石壁を伝って静かに響いている。
悠理は一度、視線を落とし、深く息を吸った。
そして、ようやく沈黙を破る。
「……もし、それが本当の話だとして。」
低く、慎重な声だった。
「お前の兄は、何を“知ってしまった”んだ?」
恭弥は、ゆっくりと首を振った。
「分からない。」
即答だった。
「何度も聞いた。幽淵で再会してから、何度もだ。でも兄は、そこだけは絶対に口を割らなかった。」
歯を食いしばるように、言葉を継ぐ。
「『お前は知らなくていい』って。
『知れば、もう戻れなくなる』って……それだけだった。」
遥花の胸が、ひりついた。
「……じゃあ、それでも信じたの?」
問いは、責める調子ではなかった。
ただ、知りたかった。
恭弥は、しばらく黙り込んだあと、ぽつりと答える。
「信じた、というより……疑った、が正しいかもしれない。」
視線が、どこか遠くを見る。
「死んだって聞かされてた兄が、生きてた。それだけで、久遠に対する信頼は、もう揺らいでた。」
恭弥の声が、続く。
「俺は……両親の顔を見てた。」
拳が、膝の上で強く握られる。
「兄の訃報を聞いた時の、あの顔を。泣き叫ぶこともできず、ただ……受け入れるしかなかった顔を。」
その声に、微かな震えが混じった。
「その後の俺の努力も。それが、全部“嘘”の上でのことだったかもしれないって思ったら……」
言葉が、そこで途切れる。
「……許せなかった。」
その感情は、怒りというより、深い悲嘆に近かった。
「だから、兄の願いを叶えてやりたいと思った。」
遥花が、静かに問い返す。
「……兄の、願いって?」
恭弥は、一瞬だけ目を閉じた。
「天響の長老を、殺すことだ。」
空気が、凍りついた。
悠理の喉が、小さく鳴る。
「……それが、烏丸の目的だったと?」
「ああ。」
恭弥は、淡々と頷く。
「結果はお前たちの知っての通りだ。」
遥花の指先が、冷たくなる。
正義だ、悪だ、と簡単には言い切れない。
だが…。
復讐。
その言葉は、誰の人生も救わない。
悠理は、話題を変えるように問いを投げた。
「……詞鏡は、どうするつもりだった?」
恭弥は、少しだけ苦く笑う。
「俺と茜が、幽淵で生きていくための交渉材料だ。」
「……献上するつもりだったのか。」
「そうだ。」
視線が、床に落ちる。
「幽淵の権力者に渡して、居場所と安全を得る。綺麗なやり方じゃない。分かってる。」
自嘲気味な声。
「……久遠には、もう戻る場所がないからな。」
遥花の胸に、嫌な感触が広がる。
「……茜のことは?」
声が、かすかに揺れた。
「どうして、巻き込んだの?」
恭弥は、一瞬だけ目を閉じた。
「……協力者が必要だった。」
淡々と、だが逃げない口調で続ける。
「詞鏡を持ち出せる人間。疑われにくく、俺を信じている者。」
ゆっくりと、言葉を絞り出す。
「茜は……俺を、無条件で信用していた。」
短い沈黙。
「だから、利用させてもらった。」
その言葉は、言い訳にも懺悔にもならないほど、残酷だった。
遥花は、何も言えなくなる。
あの時。
血に染まりながらも、恭弥を庇った茜の姿が、脳裏に蘇る。
恭弥は、視線を落としたまま続けた。
「俺は……どの道、ここでは罪人だ。」
肩から力が抜ける。
「一生、この牢の中で生きることになるだろう。」
自嘲気味に笑う。
「だから、もう……お前たちも、俺に構うな。」
その言葉には、突き放すような冷たさと、どこかで“これ以上踏み込まないでくれ”という願いが混じっていた。
遥花は、唇を結び、しばらく恭弥を見つめていた。
責める言葉は、喉まで出かかっている。
だが同時に、彼が抱えてきた時間の重さも、確かに感じてしまった。
「……行こう。」
悠理が、低く言う。
遥花は、静かに頷いた。
二人は、牢を後にする。
重い扉が閉まる音が、背後で鈍く響いた。
牢を出ると、雨はいつの間にか止んでいた。
濡れた石畳が、ぼんやりと灯りを反射している。
二人は、しばらく言葉もなく並んで歩いた。
里へ向かう道は、いつもより長く感じられる。
遥花が、先に口を開いた。
「……悠理は、どう思う?」
声は低く、抑えられていた。
「恭弥の話。」
悠理は、即答しなかった。
しばらく歩いてから、ぽつりと答える。
「……何とも言えないな。」
正直な声音だった。
「まるっきりの嘘だとは思えない。でも、全部を鵜呑みにするには……正直、混乱してる。」
遥花は、頷く。
「私も。」
胸の奥に、重たい違和感が残っている。
「このこと……みんなに、報告する?」
その問いに、悠理の足が一瞬止まった。
「……迷うな。」
その答えに、遥花は覚悟を決めたように言う。
「私……他の長老たちには、こう報告したい。」
声は低く、しかし迷いはない。
「恭弥は、烏丸と接触したことで、催眠、もしくは強い精神干渉を受けていた可能性がある、って。」
悠理が、はっと遥花を見る。
「……本気か?」
「ええ。」
遥花は、前を見据えたまま続ける。
「そう報告すれば、烏丸たちを追う口実ができる。私は……烏丸に会って、直接、真実を聞きたい。」
胸の奥で、静かな炎が灯る。
悠理は、苦い顔で考え込む。
「恭弥の兄が、何を知ってしまったのか。それが、本当に“切り捨てられる理由”だったのか。」
悠理は、しばらく黙り込む。
遥花は、立ち止まり、悠理を見た。
「無理なら、無理って言って。」
でも、視線は逸らさない。
「それでも、私は行く。」
しばらくの沈黙。
やがて、悠理は深く息を吸い、吐いた。
「……分かった。」
その声は、苦い。
「俺も、もう……何も知らずに“正しい側”に立てる気はしない。」
遥花は、小さく目を見開いた。
「でも、戻れなくなるかもしれないぞ。」
「うん。」
「立場も、信用も、失うかもしれない。」
「それでも。」
遥花は、静かに答えた。
「知らないまま、誰かを切り捨てる方が……私は、怖い。」
悠理は、しばらく遥花を見つめてから、苦笑した。
「……厄介な役目を、引き受けたもんだな。」
二人は、並んで歩き出す。
その背中に、里の灯りが近づいていた。




