同じ波に立つ者たち
船室は、外の混乱が嘘のように静かだった。
壁越しに聞こえるのは、風と波が船体を叩く鈍い音だけ。
茜は、簡素な寝台に腰を下ろし、揺れに身を委ねていた。
その前に、恭弥は立っている。
「……茜。」
呼ばれて、彼女は顔を上げた。
状況を知らないはずがない。甲板の騒ぎも、船の異変も、すべて感じ取っている。
「これを、預かってほしい。」
恭弥は懐から、丁寧に包まれた詞鏡を取り出した。
茜は、しばらく黙ってそれを見つめた。
「……何が起きているの?」
「言霊だ。久遠が仕掛けてきた。」
短く答え、恭弥は視線を逸らした。
その仕草に、茜は小さく息を飲む。
「恭弥様がなぜお持ちにならないのですか?」
「私は言霊と対峙する。万が一を考えれば、私が持ち続けるより……」
「私ならいい?」
「……あぁ。」
茜は、ゆっくりと立ち上がった。
恭弥の手から、詞鏡を受け取る。その指先が、わずかに震えているのを、彼女は見逃さなかった。
「あの、恭弥様。」
彼女は低い声で言った。
「後悔してますか?」
恭弥は答えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
茜は詞鏡を胸元に抱き、静かに言う。
「分かりました。預かります。」
そして、少しだけ心細そうに言う。
「必ず戻ってきてください。」
恭弥は、驚いたように彼女を見た。
茜はただ、まっすぐに見返す。
「……頼む。」
それだけ言い残し、恭弥は船室を出た。
茜は一人、揺れる船内で詞鏡を見下ろしていた。
甲板に出た瞬間、荒れ狂う風が二人を叩いた。
「……派手に来やがったな。」
烏丸が歯を見せて笑う。
だが、その目は冗談を言っているものではなかった。
波は、ただ高いだけではない。
一定の周期を失い、まるで何かを探すように船を打つ。
「“波”に関わる言霊だろう。」
恭弥が叫ぶように言った。
「強さより、乱れが異常だ。」
烏丸は頷き、周囲を見回す。
「おい! 索を張れ! 人は中央に寄せろ!」
「風下に立つな、吹き飛ばされるぞ!」
幽淵の兵士たちが即座に動く。
影風もまた、乗組員に指示を飛ばし、倒れそうな者を支えた。
「舵を固定しろ! 無理に切るな!」
「甲板の水を逃がせ! 溜めるな!」
それは戦いというより、災害への対応だった。
恭弥は、荒れる海を睨みつける。
言霊は意思を持たない。だが、言葉の意味が、現象として現れる。
「あいつら、同じ手段で仕返ししやがって…」
烏丸は腰を落とし、足場を固める。
恭弥は懐から、封印用の詞鏡を取り出す。
風に煽られぬよう、身体で庇いながら、封印の印を結ぼうとする。
だが、暴風で身体が揺れる。
「……くそ。」
波が一段高くなり、甲板に水が叩きつけられた。
「恭弥!」
影風が叫び、盾代わりに身を寄せる。
飛沫が散り、詞鏡が滲みかける。
烏丸が吠えた。
「集中しろ!動揺するな!お前が揺れりゃ、封じれるものも封じれねぇ!」
その通りだった。
恭弥は、深く息を吸う。
結芽の顔が浮かび、振り払う。
(今は、切り離せ。)
波の向こうにあるのは、港か、破滅か。
選択は一つしかない。
彼は、詞脈を手のひらに集め、詞鏡に封印の印を結ぶ。
風が、わずかに変わる。
暴れていた波が、ほんの一瞬、躊躇したように動きを緩めた。
「今だ!」
烏丸が声を張り上げる。
兵士たちが綱を引き、船を立て直す。
完全には収まらない。
だが、致命的な荒れは、確実に抑えられていた。
「――“詞脈よ、鎮まりて形を結べ、封ぜよ!”」
恭弥が息を吐く。
影風が頷く。
「風は弱まった。これなら、沈まずに突っ込める。」
荒れ狂っていた海は、まだ少し唸りを上げている。
だが、船は少しずつ、前へ進み始めた。
同じ頃。
暗い海を切り裂くように、別の船影が迫っていた。
「……見えた。」
遥花が、前方を指差す。
波間に揺れる灯り。
荒天の中でも、はっきりと分かる規模の船だ。
「間違いない。あれだ。」
悠理は、目を細めた。
「港に入る寸前……予定通りだな。」
陽路が、使い獣を肩に乗せたまま唸る。
「はい。言霊がしっかり暴走しているようです。」
遥花は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
嫌な予感ではない。だが、確信がある。
(間に合う。)
根拠はない。
それでも、そう思えた。
「速度を落とさないで。多少無理しても、近づく。」
「了解。」
船は波を越え、揺れながらも距離を詰めていく。
やがて、向こうの甲板が見えた。
人影が走り回り、混乱しているのが分かる。
「……やっぱり、恭弥だ。」
遥花は、息を呑んだ。
遠目でも分かる立ち姿。
風に煽られながら、必死に船を立て直そうとしている。
「追いついたぞ。」
悠理が静かに言った。
「もうすぐ恭弥たちは言霊を封じる。ここからは、正面衝突だ。」
船と船の距離が、急速に縮まる。
荒れる海の上。
言霊の余波が残る港直前。
逃げ場はない。
遥花は、ぎゅっと拳を握る。
(終わらせる。)
切るべきものも、繋ぎ直すべきものも、全てこの海の上にある。
二隻の船は、ついに同じ波に乗った。
嵐の只中で、運命は正面からぶつかろうとしていた。




