港直前、荒ぶる言の波
夜の闇を裂くように、船は港へ向かっていた。
「――見えたぞ!」
甲板の前方で、幽淵の兵士が声を上げた。
その指差す先、夜霧の向こうに、ぼんやりと灯りが浮かび上がる。
港だ。
「ははっ、やったな!」
烏丸が豪快に笑い、隣の兵士の背を叩いた。
「これで一仕事終わりだ。久遠の連中も、さぞ悔しがるだろうよ。」
影風も小さく口角を上げる。
人質の首に小刀を当てたまま、潮風を吸い込んだ。
「幽淵に入れば、追手もそう簡単には手を出せん。上出来だ。」
甲板の端では、恭弥が一人、港の灯りを見つめていた。
(……ここまで来た。)
胸の奥に残るわずかな躊躇を、彼は静かに切り捨てる。 久遠での役目。過去の縁。結芽の顔。
もう、戻らない。
そう決めたはずだった。
その時。
「……おい。」
操舵をしていた船員の声が、わずかに裏返った。
「波が……さっきより、高くなってないか?」
次の瞬間、船体が大きく軋んだ。
ドン、と腹を打つような衝撃。
船が大きく傾き、甲板にいた者たちが思わず踏ん張る。
「何だ!?」 「おい、どうなってる!」
ざわめきが広がる。
影風は舌打ちし、人質を引き連れたまま甲板へ出た。 外の様子を見た瞬間、目を細める。
風が変わっている。
さっきまで一定だった潮の流れが乱れ、波が不規則に船を叩いていた。
空には雲が集まり、星はほとんど見えない。
「……嵐か?」
「違う!」
船員が叫ぶ。
「さっきまで、こんな兆しはなかった!急すぎる!」
また一段、波が高くなる。
甲板を水が走り、船が大きく揺れた。
「くそ……もう少しだってのに!」
影風が叫ぶ。
「港へ船をつけろ!このまま突っ切れ!」
だが、操舵手は青い顔で首を振った。
「旦那、無茶です!この波じゃ、港に寄せるどころか――」
次の波が、船体を叩きつける。
「沈没しないよう舵を取るので、精一杯だ!」
「人手が足りねぇ!そいつも解放して手伝わせてくれ!」
人質に視線が集まる。
影風は一瞬迷い、歯噛みした。
「……チッ」
刃を引き、人質を突き飛ばす。
「死にたくなけりゃ働け!」
混乱する甲板を背に、影風は烏丸と恭弥のもとへ駆け寄った。
「……これは。」
恭弥が、低く呟いた。
烏丸も、荒れる海を見据えたまま頷く。
「ああ。間違いねぇ。」
「言霊だな。」
その断言に、近くにいた幽淵の兵士が苛立ったように声を荒げる。
「こんなタイミングでか!?冗談じゃねぇ!」
烏丸は、ゆっくりと振り返った。
「冗談じゃないさ。だからこそ、だ。」
「久遠のやつらが、仕掛けてきたに違いない。」
恭弥は眉を寄せる。
「……待ってください。」
烏丸の言葉を遮るように言う。
「天響の里で発生した言霊は、すべて封じ、その詞鏡は、全て私の管理下にあったはずだ。」
影風が低く唸る。
「だが、それ以前に封じたものがあった可能性は?」
烏丸も頷いた。
「久遠の連中も、手ぶらってわけじゃねぇだろ。」
恭弥は、言葉を失った。
(……あいつらが)
脳裏に浮かぶのは、悠理の、あの読めない表情。
「狙いは時間稼ぎだ。」
烏丸が断じる。
「港に入らせなきゃ、追いつける。」
「さっさと封じるぞ、恭弥。」
そう言って、烏丸は甲板へ飛び出した。
「……くっ」
恭弥も歯を食いしばり、後を追う。
荒れ狂う海。
不規則に吹き荒れる風。
船は、自然そのものに翻弄されていた。
その背を見送りながら、影風は一瞬、最悪の可能性を思い描く。
――もし、封じれなかったら。 ――もし、追手がもうすぐそこまで来ているとしたら。
影風は、走る恭弥に声をかけた。
「おい、恭弥!」
振り返る。
「念のためだ。」
影風は低く言った。
「詞鏡は、俺が預かる。」
一瞬、恭弥の動きが止まる。
「……それは、できません。」
影風は眉を吊り上げた。
「信用できないってか?」
「違う。」
恭弥は首を振る。
「だがこれは私が幽淵に入るために必要だ。」
影風は舌打ちし、言葉を重ねる。
「なら、茜に渡せ。お前と同じ立場だろ。」
その一言が、恭弥の胸を突いた。
恭弥は、甲板とは反対の、船室の方角を見た。
「……分かりました。」
短く答え、踵を返す。
影風は、その背中を見送りながら、目を細めた。 (さて……)
この嵐が、久遠の切り札か。
それとも、もっと大きな罠の前触れか。
荒れ狂う海の中、船はなおも港を目指して進む。
だが、その行く先に待つのは、
上陸か、衝突か、あるいは、決定的な裏切りの露見か。
嵐は、まだ始まったばかりだった。




