言霊庫
さらに数日が過ぎ、遥花はようやく天響の里の空気に慣れ始めていた。
そんなある朝、陽路が声をかける。
「遥花様。今日は“言霊庫”へとご案内いたします。」
「言霊庫……?」
「はい。言霊を封じた詞鏡を保管する場所です。祀る者や祈る者、語る者たちが日々務めを果たしている場所でもあります。――遥花様がかつて歩んでいた役割を、思い出すきっかけになるかもしれません。」
遥花は少しためらいながらも頷いた。
(……私が、歩んでいた役割……)
記憶のない自分にとって、それは重くもあり、知りたいと願う光でもあった。
石畳を抜け、陽路に導かれて辿り着いた建物は、荘厳な佇まいを見せていた。白漆喰の壁に、黒い梁が走り、入り口には古い梵字のような模様が刻まれている。扉の向こうからは、張りつめた静謐な空気が流れ出ていた。
扉がしずかに開くと、冷ややかな空気と、紙と墨の匂いが頬を撫でた。
高い天井、整然と並ぶ棚。黒漆の小箱が数えきれないほど収められ、そのひとつひとつに細い札が結わえられている。札には墨で短い銘が記され、結び目は定められた型で固く結わわれていた。
「ここが“言霊庫”でございます」
陽路が小さく会釈して一歩引く。案内の声音は抑えられているが、その眼差しには誇りがあった。
棚の手前で、薄紫の衣をまとった祀る者たちが無言で手を動かしている。
ひとりは白い浄布を両手に掛け、小箱から取り出した詞鏡をそっと載せ、銘札を確認する。もうひとりは台帳を開き、筆先で静かに記す。
「**朝改**と申します。詞鏡の状態と鎮まりを点検し、記録を改める務めです」
陽路が囁く。
詞鏡は紙だというのに、光を吸うような深さを持っていた。
――これが、私が綴っていたもの。
そのはずなのに、指先が覚えている感触も、言葉の重みも思い出せない。遥花は胸の奥にわずかな寒さを覚え、視線を落とした。
奥の方から、かすかな鈴の音が連なって聞こえてくる。
磨かれた床の向こう、低い壇の上で祈る者たちが膝を揃え、ゆるやかな呼吸で声を重ねていた。水碗の縁が共鳴し、微細な波紋が灯の揺れと重なって広がる。
「祈りは“常息”と呼ばれます。言霊が“忘れられ”に傾かぬよう、里の時刻にあわせて息を合わせ、音を保ち続ける」
陽路の説明に合わせるように、澄んだ声が空気を磨く。
その律動を聞いていると、胸のざわめきが少し整う気がした。
通路の角では、旅装の語る者が数人、巻物と小箱を荷にまとめていた。
ひとりが戻ってきたばかりなのだろう、帳場に銘を報告し、短く物語の要を語る。
「“雨乞いの歌”は、まだ野に残っていました。今は村の子らが覚えています」
帳場の者が頷き、記録の言葉を継ぎ足す。
「語る者は“声の橋”でございます。言葉が絶えないよう、ひと所に留めず、里から里へと渡してゆく。私もたまに語る者として旅をしていました。」
陽路はそう補い、遥花の横顔をうかがった。
(……私のいない間も、世界は続いていた)
置き去りにされたような焦りが、胸の奥でひどく静かに鳴る。
“普通の学生”だった自分は、いったいどこへ帰ればいいのだろう。
学校、友達、放課後の空、電車の揺れ。あの毎日は確かにあったのに、この場所では影のように薄くなる。
――戻れるの? それとも、ここで生き直すの?
「茜様。」
陽路が声をかけると、祀る者の衣の少女――茜がこちらに歩み寄った。
彼女は詞鏡を載せた浄布を、遥花の前でいったん止める。
「……こちらは“羽衣のこと”。風化の気配がありましたが、鎮まりは保てています。本日、祈りを重ねてから、瑞穂の里へ移します。」
淡々とした報告。その所作は、かつての妹を知らない遥花でさえ“積み重ねてきた時間”を感じさせた。
「祀る者は、詞鏡の巡りを司ります」
陽路が静かに続ける。
「庫に留めるだけでは言霊は痩せる。保つべき場所へ、時に外へ。瑞穂では“羽衣”の歌が今も口ずさまれている。だから移すのです。」
茜は軽く会釈し、再び歩み去る。
肩越しにこちらを見た瞳には、誇りと、それから言葉にできない揺らぎが宿っていた。遥花は思わず呼び止めかけ、唇を噛んで手を引っ込める。
庫の中央には、黒い格子で囲われた小さな区画があった。
格子の向こう、さらに深い静けさが立っている。
「**中霊**の間。揺らぎの兆しを見せた詞鏡が一時的に置かれます。緊急でも騒ぎにはしない――常が乱れると、言霊はそれに引かれますから。」
陽路は声量を落とし、軽く息を潜めた。
ちょうど祀る者がひとつの小箱を格子の内へ運び入れ、札の結び目を結び直している。
鈴の音が一つだけ高く、すぐに平らに戻った。
(騒がない――騒げないのね)
ここでは、人の呼吸ひとつも役目の一部なのだと、遥花は遅れて理解する。
自分が覚えていない“礼”が、この場所にはいくつもあるのだ。
庫を一巡すると、陽路は外の光へ視線を誘った。
「……そろそろ参りましょう。お父上――先代綴る者様がお待ちです。」
言いながらも、足取りは急かさない。
遥花にとって、この一歩がどれほど重いかを知っているように。
扉を出ると、風が頬を撫でた。
陽光の下、語る者の一団が出立の支度を終え、子どもたちが名残惜しそうに手を振っている。
「また聞かせてねー!」
「忘れないでね、約束の歌!」
笑い声に混じって、小さな合唱が生まれ、薄く里の空へ溶けた。
(忘れないで――)
その言葉が、やけに胸に刺さる。
忘れているのは、ほかでもない自分ではないか。
“綴る者”としての自分も、“学生”としての自分も。どちらも指の間から零れ落ちていくみたいに、うまく掬えない。
「大丈夫です」
隣で陽路が小さく言う。
「急がなくてよいのです。見て、触れて、聞いて――それで十分です。」
慰めではなく、事実として告げる声音だった。
遥花は小さく頷く。まだ怖い。けれど、歩幅はさっきより半歩分だけ軽い。
言霊庫を背に、二人は長い回廊へ出る。
回廊に吊られた風鈴が、風に鳴った。
ひとつ、ふたつ――規則に添うように澄んだ音が連なり、やがて静まる。
陽路が横目で庫の方角を確かめ、何事もなかったかのように前を向いた。
「長老館を抜け、祀殿の庭を通れば、お父上の御座へ出ます。」
「……はい」
遥花は足もとを見つめる。影が石畳に二つ、寄り添って伸びる。
どちらの影も、まだ輪郭が甘い。
それでも、並んで進んでいる――それだけは確かだった。




