暴走の選択
夜の海を切り裂くように、船は静かに、しかし確実に進んでいた。
甲板に立つ遥花は、冷たい潮風を受けながら、闇の向こうを見つめていた。
視線の先には、すでに見えなくなった敵船。
そして、恭弥。
(……本当に、裏切ったの?)
問いは何度も胸に浮かぶが、答えはどこにもない。
「冷えるぞ。」
背後から声をかけたのは悠理だった。
羽織っていた外套を遥花に掛けながら、隣に並んだ。
「……ありがとう。」
短く答えた遥花は、視線を逸らさなかった。
少し離れた場所では、陽路が船縁に寄りかかり、使い獣の気配を確認している。
闇の中を飛ぶ小さな影が、時折波間に溶けるように見えた。
「使い獣はまもなく戻ります。頼んでいた幽淵入国用の手形も、追ってくるはずです。」
その言葉に、悠理が頷く。
「よし。では、船内で話そう。」
三人は甲板を離れ、簡素な船室へと移動した。
船室には、最低限の灯りだけが灯されている。
揺れる明かりの中で、三人は粗末な卓を囲んだ。
「状況を整理しよう。」
悠理が口火を切る。
「恭弥たちの船が、先に幽淵へ着くのは確定だ。」
遥花は黙って頷いた。
それは分かりきっている事実だった。
「問題は、その“先”ですね。」
陽路が腕を組み、眉を寄せる。
「港に着いて、入国を許可された瞬間に散られたら……もう追えない。詞鏡も、茜も。」
その言葉に、遥花の胸がきゅっと締め付けられる。
久遠の封言庫から奪われた詞鏡は、一枚一枚が国の根幹に関わるほどの力を秘めている。
「第一目標は、詞鏡と茜の奪還。」
悠理は淡々と言い切った。
「恭弥たち全員を捕らえるのは……正直、現実的じゃない。」
「……だよね。」
陽路が小さく息を吐く。
「正直、あの中の一人だけでも厄介です。そこに恭弥がいるとなると…。戦力差は明らかですね。」
遥花は膝の上で拳を握りしめた。
捕まえたい。
問いただしたい。
どうして裏切ったのか。
本当は何を考えているのか。
――でも。
「……追いつけても、正面からぶつかるのは無謀。」
その言葉を口にした瞬間、遥花は自分の心に刃を突き立てるような痛みを覚えた。
しばらく、三人の間に沈黙が落ちる。
誰もが、同じ疑問を抱えていた。
――どうして、恭弥が。
けれど、誰もそれを口にしなかった。
やがて、悠理が静かに視線を上げた。
「……使い獣を使う。」
「え?」
遥花が顔を上げる。
「追跡は、すでに俺の使い獣に任せてる。」
「でも、それは向こうも警戒してるはずだよね?」
陽路がすぐに言った。
「恭弥様だ。使い獣の存在を想定してないわけがない。」
「当然だ。」
悠理は即答した。
「だから、ただ追わせるだけじゃ意味がない。」
遥花は、悠理の目を見た。
その奥に、いつもの冷静さとは違う、鋭い光が宿っている。
「悠理……?」
「港だ。」
短く、断定的な一言。
「幽淵に着く“直前”を狙う。」
陽路が目を細める。
「……何をするつもりですか?」
悠理は一度、深く息を吸った。
「詞鏡を破らせる。」
一瞬、風の音だけが強く響いた。
「……へ?」
遥花の声が、かすれた。
「破るって……詞鏡を? 正気?」
悠理は遮るように言った。
「だからこそ、まさかこちらもするとは思わないだろう。」
遥花の背筋を、冷たいものが走る。
言霊の暴走。
制御を失った言霊は、敵も、周囲すらも区別しない。
「使い獣に詞鏡を持たせて、港の直前で破らせる。」
悠理の声は、驚くほど冷静だった。
「暴走した言霊に、恭弥たちの船を直撃させる。」
「……それで、入国を阻止するわけか!」
陽路が呟く。
悠理は頷いた。
「ああ。結果、恭弥たちは入国できない。港にも寄れない。海上で足止めされる。」
遥花の喉が、ひくりと鳴った。
「……でも、それって。」
「危険だ。」
悠理ははっきりと言った。
「向こうが死ぬ可能性もある。港の人間が巻き込まれる可能性もゼロじゃない。」
陽路は歯を食いしばる。
「それを……やるのか?」
「他に手はあるか?」
静かな問いだった。
誰も、答えられない。
正攻法では間に合わない。
隠密も、追跡も、恭弥相手では読まれている。
「……」
遥花は俯き、震える指先を見つめた。
恭弥が、そこにいる。
暴走の中心に。
――傷つけたくない。
――でも、逃がしたくない。
相反する感情が、胸の中でぶつかり合う。
「遥花。」
悠理の声が、少しだけ柔らいだ。
「これは、俺の案だ。お前に強制するつもりはない。」
顔を上げると、悠理はまっすぐこちらを見ていた。
「だが……詞鏡を取り戻せなければ、久遠は終わる。」
陽路が静かに言葉を継ぐ。
「茜も、戻ってこない。」
遥花は、目を閉じた。
波の音。
風の音。
恭弥の「すまない」という声。
そして――
綴る者としての責務。
「……やる。」
ゆっくりと、はっきり言った。
「やろう。悠理の案で。」
陽路が一瞬目を見開き、それから深く息を吐いた。
「……分かった。俺も、腹はくくる。」
悠理は短く頷いた。
「決まりだ。」
三人の間に、重い覚悟が落ちる。
誰も、それが正しいかどうか分からない。
ただ、選ばなければならなかった。
船は、なおも闇の海を進む。
幽淵の港へ向かって。
そして、避けられぬ衝突へ向かって。




