偽りに縋る者
潮騒が船体を打ち、夜の海を切り裂くように船は進んでいた。
船内では、すでに緊張というものは消え失せていた。
烏丸は甲板の中央に腰を下ろし、高らかに笑っている。
「いやぁ、上出来だな。まさか封言庫から、あれほどの数の詞鏡を持ち出せるとは思わなかったぜ。
それに、あのじじいを殺れて俺は心底すっきりした。」
その隣では影風が、震える人質の首筋に小刀を軽く当てたまま、愉快そうに口角を吊り上げていた。
「久遠の連中も、ずいぶん甘くなったものだ。守りが固いのは見せかけだけ。中身は脆い。」
幽淵の兵士たちもそれに同調するように、低い笑い声を漏らす。
「これで、向こうの計画も一気に進むな。」
「詞鏡が揃えば、次は――」
言葉の続きを誰も口にしなくても、全員が理解していた。
この船が無事に幽淵へ辿り着けば、久遠は確実に不利な立場へ追い込まれる。
その喧騒から少し離れた甲板の端で、恭弥は一人、夜空を仰いでいた。
星は淡く、雲に隠れがちで、どこか頼りない光を放っている。
潮風が髪を揺らし、外套の裾を鳴らす。
――これで、後戻りはできない。
そう分かっていながら、胸の奥に残る重さは消えなかった。
そこへ、控えめな足音が近づく。
「恭弥様。ご無事で何よりです」
声をかけてきたのは茜だった。
夜の闇の中でも、彼女の表情ははっきりと分かる。
どこか緊張しながらも、嬉しさを抑えきれないような眼差し。
恭弥はゆっくりと振り返り、柔らかく微笑んだ。
――否、それは計算された笑顔だった。
「茜。よくやりましたね。」
その声は穏やかで、労わりに満ちているように聞こえる。
「あなたのおかげで、封言庫から貴重な詞鏡をいくつも持ち出すことができましたよ。」
その一言で、茜の頬がぱっと赤く染まった。
「そ、そんな……! 恭弥様の綿密な計画と、ご指示があったからです。私は……」
言葉を探すように一瞬詰まり、それから勢いよく続けた。
「私は、恭弥様の力になりたいだけなんです。だから……何でも言ってください。」
恭弥は一瞬、彼女をじっと見つめた。
その視線の奥に、何を思っているのかは読み取れない。
やがて、彼は小さく頷いた。
「では、今夜はゆっくり休んでください。旅の疲れもあるでしょう。幽淵に入国したら、またしばらく忙しくなりますから。」
「……はい。分かりました」
茜は深く頭を下げ、あてがわれた船室へと戻っていく。
扉が閉まったあと、恭弥は再び夜空を仰いだ。
その表情から、先ほどの笑みはすっかり消えている。
――今後、久遠はどうなるか。
そんな疑問が一瞬よぎり、彼はそれを振り払うように目を閉じた。
船室に戻った茜は、背中を扉に預けるようにして、深く息を吐いた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
先ほどの会話が、何度も頭の中で繰り返される。
恭弥様に、必要とされている。
そう思うだけで、不安も罪悪感も、波にさらわれていくようだった。
――久遠を裏切った。
その事実が消えることはない。
それでも、恭弥と話すと、すべてが正しい選択だったように思えてしまう。
茜は幼い頃の記憶を、自然と辿っていた。
恭弥のことは、小さな頃から知っている。
彼が外の国へ言霊を集めに行き始めた頃。
帰還するたびに、報告のため天響の里を訪れ、長老の館に足を運んでいた。
その頃、父・遥斗と姉・遥花は、綴る者と次期綴る者として、館で忙しくしていた。
だから恭弥と遥花は、自然と顔見知りになっていた。
ある日、祀る者の見習いだった茜が、たまたま三人が話しているところに出くわした。
「こちらは娘の茜。祀る者の見習いだ。」
父にそう紹介され、恭弥は穏やかに微笑んだ。
「よろしく。茜。」
それが、最初の出会いだった。
それから、たまに顔を合わせるたび、短い会話を交わすようになった。
それだけの関係だったはずなのに、茜の中で、恭弥の存在は次第に大きくなっていった。
決定的だったのは、遥花が正式に綴る者となった日の夜。
祝賀の喧騒が終わり、皆が眠りについたあと。
茜は一人、声を殺して泣いていた。
「……どうしたの?」
驚いたような声に顔を上げると、そこに恭弥が立っていた。
優しく、心配そうな眼差し。
茜は、今まで胸に押し込めていたものを、堰を切ったように吐き出した。
どうして自分には、綴る者の力がないのか。
だから名前に、父の「遥」の字ももらえなかったこと。
姉も父も優しい、その優しさが、かえって自分の醜さを突きつけてくること。
恭弥は、黙ってその話を聞いてくれた。
そして、静かに言った。
「……分かるよ。」
自分にも兄がいたこと。
兄のほうが、綴る者として才覚に恵まれていたこと。
兄を亡くし、突然重責が回ってきたこと。
それまで自分を軽んじていた人々が、手のひらを返したように媚びてきたこと。
「人って、勝手なものだよ。」
そう言って、恭弥は少しだけ寂しそうに笑った。
「だからね。茜は、綴る者になれない、って自分を否定しなくていい。」
「茜には、茜の良さがある。それを、もっと自分でも認めてあげてほしい。」
その言葉は、茜の心の奥深くに、まっすぐ届いた。
欲しかった言葉。
誰にも言ってもらえなかった言葉。
その日から、茜は恭弥に強く惹かれていった。
そして――久遠を裏切る話を打ち明けられたとき。
先に自分に秘密を明かしてくれた、その事実が、何より嬉しかった。
許嫁の結芽様も知らない。
恭弥の“本当の気持ち”を知っているのは、自分だけ。
そう思った瞬間、迷いは消えた。
「はい。」
返事は、自然と口から出ていた。
恭弥のためなら、何でもできる。
あの時、救ってもらったように――今度は、自分が恭弥を救う。
茜は胸に手を当て、静かに目を閉じた。
船は、闇の海を進み続ける。
その先に待つものが、破滅であろうと。
彼女はまだ、それを疑っていなかった。




