残された涙、動き出す追跡
潮の香りがかすかに鼻をくすぐる。
結芽がゆっくりと意識を取り戻したとき、まず目に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。
「……え?」
ガバッと上体を起こす。胸が早鐘のように鼓動する。
最後に覚えているのは――関所の見張り。
恭弥に身体を預け、寄り添っていた記憶。
その次は、何もない。
ここはどこ?
どうして私はここに?
混乱したまま布団を払いのけようとしたとき、襖がスッと開いた。
「結芽、目が覚めたんだね。よかった……!」
入ってきたのは橙子だった。
ほっと息をつきながら、結芽に駆け寄る。
「体調はどう? どこか変な感じはしない?」
「あ、うん……何ともない。頭も痛くないし……。でも……私、どうしてここにいるの?」
橙子は一瞬ためらい、その後ゆっくりと腰を下ろした。
その表情には、苦しいものが滲んでいる。
少しだけ視線を伏せ、言葉を選ぶように唇を引き結んだ。
「……奏多がここまで結芽を運んできたの。その時に受けた報告なんだけど。」
「何かあったの?」
橙子は小さく息を吸い込み、真剣な表情で結芽を見つめた。
「落ち着いて聞いてね。まず……結芽は、何かの薬で眠らされていたみたい。強めの睡眠薬じゃないかって悠理が言ってた。」
結芽の顔色がみるみる青ざめる。
「薬……? じゃあ、私……」
「うん。関所で見張りをしていた結芽は、誰かに眠らされた可能性が高いって。」
橙子は言いづらそうに眉を寄せ、それでも続けた。
「そのあと、海側では戦いが起きたの。敵が船を奪って、逃げようとして……遥花たちが止めに行った。」
「遥花たち……無事?」
「うん。それは平気。でも――」
橙子はほんの数秒、口を閉ざした。
その沈黙が、結芽の胸をざわつかせる。
「橙子……何か、あったの?」
橙子は苦しそうに目を伏せた。
「……恭弥が、裏切った。」
「――え?」
結芽の思考が一瞬止まった。
「戦いの最中、恭弥は遥花たちの邪魔をして……敵が船に乗れるように手助けしたって。最後は『すまない』って言って、動き出した船に飛び乗って、そのまま……行ってしまったんだって。」
「そんな……恭弥が……そんなこと、するはず――」
声が震え、涙が頬を伝った。
「……ごめん、結芽。でも、これは……事実なの。」
橙子も苦しそうだった。
結芽は唇を噛み、震える手で布団を握りしめた。
「どうして……私……寝ていて……何も……気づけなかった……」
「結芽のせいじゃないよ。誰にだって防げなかった。」
声にならない声が漏れ、結芽の肩が震える。
「本当に恭弥が……? だって、そんなこと……」
信じられない。信じたくない。
胸の奥がきゅうっと痛んだ。
恭弥の柔らかい笑顔、穏やかな声、ささやかなやりとりのひとつひとつが脳裏をよぎる。
どうして――。
橙子はそっと結芽の手を握った。
「結芽の気持ちは分かる。でも、今は無理に受け止めなくていい。後でいくらでも話せるから。」
結芽は唇を噛み、ただ首を横に振るしかなかった。
その頃――。
遥花、陽路、悠理、奏多の四人は、船が消えていった方角を呆然と見つめていた。船が闇に消えていった方向で立ち尽くしたまま、誰も動けない。
遥花はただ呆然と立ち尽くしていた。
胸の内側から何かが崩れ落ちたような、冷たい感覚。恭弥の横顔が、脳裏から離れない。
陽路は拳を強く握りしめ、歯を食いしばっていた。
「まだ信じられない……」
奏多は悔しさを隠しきれず、唇を震わせている。
悠理だけが、沈黙を切り裂くように言った。
「……追うぞ。」
その声音には、一切の迷いも揺らぎもなかった。
「え……?」
遥花が顔を上げると、悠理はすでに次の指示を出し始めていた。
「陽路。煌志に知らせろ。使える船と操れる船員をすぐに集めてくれ。」
「…分かりました。」
陽路はすぐに使い獣を呼び、煌志へ走らせる。
悠理は今度は奏多へ向き直った。
「奏多。お前は結芽を宿に戻したら、翔綺を連れてすぐに追いかけろ。」
「はい!」
「俺の使い獣は恭弥の匂いを覚えている。追跡は任せてある。奴らがどこへ向かうかは、すぐに分かるはずだ。」
悠理は夜空を睨みつけるように見上げた。
「あいつらは、まだ海を渡り切っていない。恭弥も……逃がさない。」
遥花はしばらく動けずにいた。
信じたい。
信じたいのに。
でも、恭弥の「すまない」という声が頭から離れない。
遥花の迷いを見透かしたように、悠理が横目で彼女を見た。
「遥花。お前の気持ちも分かる。でもな――」
悠理の声はいつもより優しかった。
「裏切りかどうかは、会って確かめればいい。」
遥花の目が大きく見開かれる。
「……悠理……」
「そのために行くんだ。全部、目で見て確かめるんだよ。」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく灯った。
遥花は拳を握りしめ、強くうなずいた。
「……うん。行く。私も。」
陽路が戻ってくる。
「煌志から返事だ。船はすぐに出せるって。操れる人も集めてくれる。」
悠理は頷き、全員に向けて声を張った。
「よし、行くぞ!」
遥花たちは夜の海風を受けながら、動き出す。
影風たち、そして恭弥の乗る船を追って。
行かせない。
逃さない。
そして、確かめる。
裏切りの理由を。




