迫る黒き波
小さな宿屋の一室で、茜は身を縮めていた。
茜のそばでは、幽淵の兵士が黙ったまま使い獣が運んできた封書を開いていた。
紙片に記された短い文を読み終えると、兵士は口の端を上げ、茜に向き直った。
「……明日の丑三つ時、出国だ。」
茜の身体がびくりと震えた。
来ると分かっていたはずの言葉なのに、胸の奥で何かが軋んだ。
「みんな無事にここに着いたの?」
「おうよ。お前もようやく姉の呪縛から逃れられるな。」
兵士は鼻で笑う。
「まぁ、せいぜい幽淵でその力を発揮しな。お前の力は、向こうじゃここより重宝される。」
姉の力に囚われた過去も、幽淵に行った未来も、どちらも闇の底のように感じた。
ただ、胸の奥でかすかに、微かな希望のような痛みが灯っていた。
皆は、私を探してくれているだろうか。
でも、私はあの方と…
その想いは声にできぬまま、茜は膝を抱えた。
翌朝。
篝火の里は普段よりもずっと早く、広い範囲で人の動きが始まった。
長老の館での会議で決まった通り、ほぼ全員による総捜索が行われる日だった。
透真、翔綺、悠理、奏多、遥花、陽路…
そして祀る者、祈る者たち、兵士たちが既に散開し、里内の各区画に入っていく。
だが、彼、影風は見つからない。
元宵隠れ――かつて「影に紛れる術」の部隊にいた男の動きは人並みではなかった。
ただの巡回兵士に紛れ、時に荷物を運ぶ者の列に紛れ、気配を限りなく薄めてやりすごす。
「……うまく立ち回るな。」
翔綺は舌打ちした。
「昨日も、今日も、捕まえられない。」
遥花は捜索しながら、兵士の表情をひたすら観察していた。
その目は真剣で、どこか痛みを含んでいる。
(茜を連れていたあの兵……あの目を、私は忘れていない。)
淡々としているのに、こちらを拒絶するような目。
控えめに見えるのに、憎しみ深い闇を宿す目。
影風の姿も探していた。
だが、見つからない。
陽路も、悠理も、透真も同じだった。
昼過ぎになり、全員が一度長老の館前に集まる。
「……里のどこにも、痕跡すらない。」
翔綺が汗をぬぐいながら報告した。
「ならば宿屋も総当たりで見るしかないな。」
悠理が短く言い、皆が頷く。
宿屋の扉が次々と開かれ、客室が一つずつ確認されていった。
だが成果は、皆無だった。
日が暮れ、夕闇が広がり始める。
焦燥が全員の胸に広がり、次の一手が見えなくなるほどだった。
「……夜になる。」
陽路が空を見上げて呟く。
そして、昼の捜索は一旦終了となった。
夜の海側の関所。
久遠の外へ繋がる唯一の「海門」であり、もっとも重要な場所。
昼は煌志が守り、夜は恭弥と結芽が引き継ぐ。
潮の香りと冷たい風が吹き、灯火の明かりが波に揺れていた。
結芽は帳簿を閉じながら、小さく息を吐いた。
「……煌志から引き継いだけど、今日の入国者は少なかったみたい。」
恭弥は隣で海に目を向けている。
「このまま、何も起こらなければいいけど……」
不安をにじませる結芽の声に、恭弥はやわらかく笑った。
「そうだね。
……結芽、疲れてないか?
私に無理に付き合わせる形になって申し訳ない。」
結芽は大きく首を振った。
「何言っているのよ。助け合うものでしょ?
それに恭弥と、一緒にいたかったし。」
言った本人が少し照れている。
その姿に、恭弥の胸が温かくなる。
「……そうか。」
彼は小さくつぶやくと、手にしていた羽織を結芽にそっとかけた。
「夜は海風が冷たい。冷えないように、これを。」
羽織には恭弥の体温が残っており、結芽の頬が少し赤く染まる。
「これじゃあ、恭弥が寒いでしょ?
私は大丈夫だから……」
「いや、大丈夫だよ。
結芽が体調を崩すほうが困る。」
その言い方は優しく、どこか決意めいた強さがあった。
結芽は視線を落とし、受け取った温かい飲み物を口にする。
湯気が頬に触れ、少し緊張が解ける。
「……あったかい……」
「良かった。」
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
潮騒。
波音。
かすかなランプの揺れる音。
やがて――
結芽の瞳が少しずつ、とろんとする。
それを見て、恭弥はそっと肩を差し出した。
「もし眠いなら、少しだけ眠るといい。
朝から動きっぱなしだからな。」
結芽は驚いたように顔を上げたが、恭弥の眼差しを見て安心したのか、そっと寄りかかった。
「……じゃあ、少しだけ……」
細い肩が恭弥の肩口に触れる。
恭弥はその頭が落ちないようさりげなく支えながら、静かな海を見渡す。
まもなく、丑三つ時。
幽淵側が動き出す時間。
結芽を眠らせながら、恭弥は瞳の奥だけを鋭く光らせた。
海の闇が、静かにうねり始めていた。




