静かなる別離
瑞葉のひと言によって、影風は篝火の関所を何とか通過できた。
彼女が倒れた直後の、あの必死な表情。
兵の誰もが反論できず、医療所送りが先決だと判断されたのは、瑞葉の気迫と、影風の腕で支えられた彼女の弱々しい姿ゆえだった。
医療所に案内され、影風は廊下の長椅子に腰を下ろした。
瑞葉が治療室に運ばれてから、すでにしばらく経つ。
外では、篝火の灯が揺れているのが見えた。里は静かだが、どこか緊張が漂っている。
綴る者、祀る者、祈る者そして兵士たちが巡回しているのが見え、影風はこの場所がただの“里”ではないことを改めて悟った。
足音が近づき、医療師が姿を見せた。
「旦那さん、どうぞ。」
影風は一瞬だけ眉をひそめ、短く頷き、彼は治療室の戸を開けた。
瑞葉は薄い布団に身を横たえながらも、先ほどよりずっと落ち着いた表情だった。
顔色も多少戻っている。
「……大丈夫か?」
影風の問いに、瑞葉は弱く微笑んだ。
「ええ。何とか……。この里に入れて、本当に良かったです。」
その声には安心と、かすかな安堵が滲んでいた。
「あなたには……本当にお世話になってばかりですね。」
「気にする必要はない。」
影風がそう返すと、瑞葉は首を横に振った。
「私は……しばらくここでお世話になると思います。あなたは、あなたの目的を果たして下さい。」
「……」
「ここの人には、うまく言っておきます。だから……心配しないで。」
影風は彼女の視線を見据え、静かに息をついた。
「……すまない。」
本来なら余計な情は持つべきではなかった。
だが、彼女の声は真っ直ぐで、嘘はなかった。
影風は一礼して部屋を出た。
医療所を出ると、篝火の里の空気はさらに澄んでいた。
見回りの兵士の足音、祀る者たちが灯火を整える気配がそこかしこにある。
(この里……動きが多すぎる。さすが最前線だけある。)
兵士達も、表向きはただの巡回に見える。
しかし、影風の目には彼らの動作すべてが“緊張”と“警戒”で構成されているように映った。
(仲間に早く連絡しないと。)
彼は視線を周囲に配りながら、人影の少ない路地へと身を滑り込ませる。
小さな使い獣が呼び出され控えめに鳴いた。
「……行けるか?」
使い獣が影風の手に鼻先を寄せ、短く応える。
影風は周囲の気配が途切れる一瞬を待ち、素早く獣を放った。
使い獣は黒い影のように地を蹴り、屋根へ跳び上がると、静かに消えていく。
(篝火の里内に入ったと仲間に伝えろ……。)
影風は静かに息を吐き、すぐに表の通りへ戻った。
表情はごく自然。
ただの旅人を装いながら、彼は情報を集めるため里の中心へと視線を向けた。
一方その頃、外の国へ続く海側の関所。
現在の担当は、遥花と陽路。二人は名簿整理を終え、一息ついていた。
人の行き来は日が沈むにつれ減っている。
「……静かになったね。」
遥花がぼそりと言う。
陽路は欄干に背を預けたまま潮の香りを吸い込んだ。
「まあ、この時間に船が来ることはまずないしな。」
遥花はしばし海を眺めた後、ぽつりとこぼした。
「伊吹は……どうしてるんだろうね。」
その名前に、陽路は視線を向ける。
「確かに綴る者で伊吹様だけ動向が分からないな。どこにいるんだろ?」
「伊吹も瑞穂の里までは結芽と透真と一緒にいたんだよね。その後、悠真に行くらしかったけど悠理達とは会ってないみたいだし。」
「確かに。まぁあの人のことだから、もちろん考えがあってのことだろうけど…。」
陽路は空を仰いだ。
遥花は両手を袖の中で組み、ふっとため息をついた。
「伊吹、何か知ってて動いてるのかな。」
「あり得る。」
陽路は関所の奥、霧の向こうを見やった。
「ということは伊吹様が戻るタイミングってのは、“何かが起こる直前”かもしれない。」
「……じゃあ、なおさら気を引き締めなきゃ。」
遥花は唇を噛む。
すると──
遠くから、見覚えのある風を切るような“微かな動き”があったように感じた。
「…っ!」
そんな一瞬の遥花の動揺に陽路は即座に反応する。
「どうした?」
「ううん、気のせいだったみたい。」
遥花は、もしやと思い返す。
あれは影風の使い魔だったのかもしれない。
とすると、もう里内に…?
陽路は警戒したまま耳を澄ませたが、それ以上の反応はなかった。
空を一瞬駆け抜けていった使い獣は関所の屋根の上を飛び、仲間のもとへと静かに向かっていた。




