潜伏と追跡
篝火の里は、夜でも明るい場所だった。
その名の通り、里の周囲を囲むように篝火があり、赤橙の炎が風に揺れながら旅人の影を濃く落としている。
篝火の里は外の国との交易のため、昼夜を問わず人の声が絶えなかった。
その雑踏の少し手前、森の出口に、茜と幽淵の兵士が姿を現した。
「……着いた。あれが篝火の入り口だ。」
兵士は低く囁く。
街道の先に、木製の簡易門と警備兵が二名。
久遠国内からの入口は外の国からの関所に比べれば随分と緩く見えるが、もし身元を疑われれば終わりだ。
茜は喉が渇くのを感じながら、袖の布で顔の下半分を覆った。
農家の娘が着るような地味な旅衣装。髪は布で包み、遠めには素顔がほとんどわからない。
兵士は茜の肩にそっと手を置いた。
「震えてる。しっかりしろ。ここまでは全部順調だっただろう。」
「……大丈夫。分かってる。」
そう返しながらも、茜の指先は冷たかった。
篝火の里には旅人が頻繁に出入りする。だからこそ、潜り込みやすい。
頭では理解している。それでも、心は不安で満たされていた。
二人は若い夫婦という設定だ。
兵士が夫、茜が体調を崩している妻。
茜はほとんど顔を上げないようにし、兵士の影に隠れるように歩いた。
関所の前に差し掛かった瞬間、見張り役が声をかけた。
「そこの二人。旅の者か?」
兵士は落ち着いた声で返す。
「はい、山向こうの村からです。里に泊めてもらおうと思いまして。」
「身分を示すものは?」
ここが最初の山場だ。
しかし兵士は慌てることなく、懐から粗末な木札を取り出した。
「村の印です。長に許可をもらっております。」
見張りの男は木札をちらりと見た。
実際の効力はないが、田舎の旅人が持つ印には確かに見える。
「……奥さん、顔色が悪いな。」
茜は一瞬、息を止めた。
だが兵士はすかさず茜の肩を抱き寄せる。
「ええ、少し熱がありまして。里で休ませたいのです。」
見張りの男はふむ、と顎に手を当てる。
その背後から別の旅人たちが列を作り始めた。
「……まあいい、早く入れ。混む前に通しちまおう。」
その言葉に、茜は心の中で息を吐いた。
兵士は礼を述べ、茜の腕を支えて関所を通り抜けた。
里の灯りが視界に広がった瞬間、茜の足はふらりと揺れた。
「大丈夫か。」
「……うん。ただ……緊張が……ほどけて……」
「もう少しだ。宿に入るまで気を抜くな。」
茜は頷き、道を歩き続けた。
行き交う商人、武具を背負う旅人、香辛料の匂い、天響の里とはまた違う、賑やかで雑多な世界。
本来なら興味を惹かれるはずの光景も、今はただ息苦しい。
二人は通りの奥にある小さな宿屋に足を踏み入れた。
木造りの暖かい内装。
客の姿も少なく、夜を過ごすには十分だった。
部屋に入った瞬間、茜は力が抜けるように床に座り込んだ。
「……やっと……」
兵士は窓を閉め、戸を二度確認して鍵をかけた。
「ここからは外に出るなよ。」
茜は不安を押し隠して頷く。
「烏丸様と影風様は追手から逃げ延びたようだ。残っていた奴らは……ほとんどやられたらしい。」
そう言って兵士は腰を下ろし、剣を外して壁に立て掛けた。
「俺たち二人だけで動くのは危険だ。二人が来るまでは静かにしていろ。誰にも顔を見られるな。」
茜は布越しに小さく息をした。
「……分かった。」
兵士は布団の側に座り、目を閉じた。
緊張と疲れで、すぐに眠りに落ちるようだった。
茜は窓の外、里の灯りを見つめながらそっと布を外し、胸元を押さえた。
あの兵士の言う「めちゃくちゃ」という表現が耳から離れない。
(父様、母様、遥花姉様…)
名前を思い浮かべた瞬間、胸がさらに締め付けられた。
涙が浮かびそうになり、慌てて瞬きを繰り返した。
逃げてきたはずの心が、今にも崩れ落ちそうだった。
その頃。
二人は馬を降りると、篝火の里の入り口へ続く緩やかな坂を駆け上がった。陽が沈みかけた空を、篝火の里特有の赤い灯籠が照らし始めていた。
陽路は軽く周囲を確認する。
「敵の姿はない。だが、あの兵士と茜がすでに里に潜んでいる可能性は高い。気を抜かないように。」
遥花は頷く。
二人は里の中心部へ向かう。馴染みの建物が並ぶ雑踏を抜け、長老の館へ向かう。
扉を叩くと、中から足音が近づき、力強い声が響いた。
「……その声は、遥花か?」
「煌志!」
扉が勢いよく開き、篝火の綴る者・煌志が姿を現した。その後ろからは、従者の朔人が静かに顔を出す。相変わらず無表情だが、その眼差しには安堵が宿っていた。
「無事でよかった。……話を聞いてはいたが、天響が襲われたというのは本当なのか?」
煌志の問いに、遥花はうなずき、唇をかみしめた。
「……はい。大量の詞鏡が盗まれ、封言庫が襲われて……。茜も、連れ去られてしまったの。」
朔人が目を細めた。
「敵の狙いは詞鏡か。」
陽路が一歩前に出て続ける。
「敵は複数の里の方へ散って逃走したようです。天響は言霊の暴走に襲われ、一人と茜が逃走。今頃、篝火の里内に紛れ込んでいる可能性が高い状況です。」
「……なるほど。」
煌志は腕を組み、考え込むように視線を落とした。
「つまり、敵は盗んだ詞鏡を幽淵へ持ち帰る算段だと。そして茜殿は、なぜか幽淵の兵士と共にいる……そういうことだな?」
「はい。」陽路は静かに答えた。
「私たちは、茜を救い出し、詞鏡を取り返す必要があります。」
煌志は深く息を吐き、二人を見据えた。
「分かった。ならば、ここで一度状況を整理し、今後どう動くか決めよう。朔人、会議の準備を。」
「承知しました。」
こうして幽淵との衝突に向けて新たな策を練るのであった。




