揺らぐ影、追う光
日が傾き、森の影がゆっくりと濃くなり始めていた。
湿った土と枯れ葉が混ざり合った匂いの中、ひっそりとした川辺にひとりの男がしゃがみ込んでいた。
幽淵の兵士、いや、今はもはや逃走者と言っていい。彼は周囲を警戒しながら、水筒を川に沈めて水を汲んでいた。
少し離れた場所には、少女、茜が横たわっていた。まだ意識は戻っていない。兵士は水筒の蓋を締め、彼女の方に視線を移す。眉間の皺は深く、焦りを隠しきれていなかった。
「……のんびりもしていられないんだが。」
呟いた瞬間、茜の指がわずかに動いた。
兵士は身構えつつ近寄り、様子を確認する。
「……ん……」
茜のまつげが震え、ゆっくりと瞳が開かれた。
薄暗い木々の天蓋が視界に広がり、次に見えたのは無骨な兵士の顔だった。
「気がついたか。」
低い声に、茜は反射的に身を起こそうとする。
しかし、身体が非常にだるい。詞鏡を持ち出す時に、極度の緊張と慣れない動きで気を失っていたことに気づいた。
「……ここは……どこ……?」
兵士は肩をすくめるように笑った。
「篝火の里への中継地点ってところだ。まだ森の中だがな。安心しな、あと一日もあれば着く。」
茜の表情が一気に強張った。
「あの……天響の里は……どう、なったの?」
声は震え、指先も冷たくなる。
茜は自分が持ち出した詞鏡のこと、封印庫のこと、そして烏丸の姿を脳裏に浮かべながら、おそるおそる問いかけた。
兵士は茜を見下ろし、ゆっくりと口角を歪めた。
その笑みは、勝者のそれだった。
「烏丸様の念願は叶ったよ。天響の長老は、死んだ。」
茜は息を呑んだ。心臓が握り潰されるように痛む。
「お前が詞鏡を持ち出した直後、封言庫から言霊が暴れ出した。あれだけ混乱してりゃ、里は今頃めちゃくちゃだろうさ。」
言葉を聞いた瞬間、茜の顔から血の気が引いた。
視界がぐらりと揺れ、膝に力が入らない。
兵士はそんな茜を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「おい。覚悟の上で協力したんじゃねぇのか? ここにきて裏切るなよ。」
声には露骨な圧がこもっている。
茜は唇を噛み、俯いて震える呼吸を必死に整えた。
(……大丈夫。これでいい……。あの人が、そう望んだから……)
「もちろんよ。」
茜は顔を上げた。
俯いている間に決意を固め、無理に強気な笑みを作った。
「私は……あの方のために動いているだけ。迷ってなんか、ないわ。」
「ならいい。」
兵士はそれ以上追及しなかったが、じろりと監視するような視線は外さなかった。
しかし茜の胸の奥では、波紋のような不安が広がっていた。
(私は……間違ってない……よね?)
彼女は強く自分に言い聞かせるように、目を固く閉じた。
同じころ。
森の反対側では、遥花と陽路が小道を馬で駆けていた。
二人の息遣いは荒く、汗が額を流れる。
森は深く、敵の足跡は風と落ち葉にかき消されてゆく。
「……なかなか追いつけないね。」
遥花は息をつぎつぎに吐いた。
焦燥を隠せず、何度も周囲を見回す。
陽路は淡々としているように見えるが、顎は強張り、目は鋭く前を見据えていた。
「敵は逃げると決めた以上、最短で久遠を出るはずだ。ここで手間取ってる時間はない。伊吹様の指示通り篝火の里へ抜ける道を急ごう。そこが合流の可能性がいちばん高い。」
「……分かった。」
遥花は頷きながらも、胸の奥にざらりとした感触を覚えていた。
敵を追う焦り。
茜を止めたい気持ち。
そして──あの封書。
(……影風から届いたあの手紙……)
彼の筆跡。
彼の言葉。
“私はあなたの味方です。
そしてどうか、それを忘れないでください。”
そう書かれていた。
なのに内容はあまりにぼやけていて、核心はなぜか避けるように曖昧で。
(今回の騒動に彼は一枚噛んでいる、完全には信じられない……)
胸に手を当てると、心臓の震えが伝わる。
不安が、茜を失う恐怖と混ざり合って重くのしかかった。
陽路はそんな遥花の心境を察したのか、短く息をつきながら言った。
「大丈夫。まだ茜には追いつける。必ず助け出す。」
言葉は簡潔だが、強く、優しい響きだった。
遥花は思わず横目で陽路を見た。
その確かな声に、ほんの少し心が軽くなる。
「……うん。行こう。茜を、取り戻すために。」
二人は再び森の奥へと走り出した。
その先に何が待っているかは分からない。
だが、それでも、進むしかなかった。
一方その頃、茜と兵士の周囲の森には、細く冷たい夜風が吹き始めていた。
彼女は遠くの空を見つめ、震える指を強く握る。
(…あなたの言葉を、私は信じていいの……?)
胸に渦巻く迷いは、誰にも言えないままだった。




