偽りの宝庫
封じ終えたばかりの広場には、まだ戦いの余韻が色濃く残っていた。
言霊は無事に封じられたものの、石畳には深い傷が刻まれ、周囲には焦げた匂いが漂っている。
「紗月、立てるか?」
篤が支えながら問うと、紗月は弱く笑った。
「歩ける……でも、少し寝かせて……」
「すぐ連れていく。」
奏多と悠理もそれに頷き、紗月を運ぼうとしたその時だった。
広場の奥、言霊庫のある方角から、複数の影が走ってくるのが見えた。
「……橙子?」
篤が目を細めた。
近づいてくる三人の姿は、誰が見ても満身創痍だった。
先頭を走る橙子は肩で息をし、髪は乱れ、衣の端は汚れている。
その後ろでは、玲奈が袖で涙を乱暴に拭いながら、それでも必死に足を動かしていた。
蓮はも全力で走ってきて、肩で大きく息をついている。
「姉さん! 兄さん! 大丈夫!?」
橙子は声を張り上げるが、それだけでどこか痛むのか、顔を歪めた。
篤は紗月を支えたまま、妹たちに駆け寄る。
「おまえら、何が――」
「まず……言霊は!? 広場のはどうなったの!?」
橙子が息を切らしながら問う。
篤は即座に答えた。
「悠理様たちが封じてくださった。もう心配ない。」
その言葉を聞くなり、橙子の肩から力が抜けた。
玲奈はその場にへたり込み、蓮も胸に手を当て、安堵で震えている。
橙子は必死に礼を言おうと、悠理へ向き直る。
「悠理……本当にありがとう。この里を救ってもらって。」
悠理は静かに首を振った。
「当然のことだ。怪我人を先に運ぼう。話はそれからだ。」
橙子は頷き、すぐに紗月の方を見る。
「姉さんを……先に家へ。治療を急がないと……」
篤と奏多が紗月を支え直し、一行は急いで家へ戻った。
家へ到着すると、紗月は別室に運ばれ、治療役の里人が手当てを始めた。
その扉が閉じたのを確認すると、橙子は深く息を吐き、ようやく腰を落ち着ける。
しかし、彼女の顔はどこか張り詰めている。
悠理が静かに口を開く。
「橙子。言霊庫の方はどうなった?」
その質問に、蓮と玲奈の表情が一気に強張った。
玲奈は唇を噛み、目に涙が浮かんでいる。
橙子はしばし黙っていた。
そしてゆっくりと息を吸い、
「……突破されたわ。」
その瞬間、部屋の空気が凍りつく。
蓮が拳を固く握り、玲奈は涙をこらえきれず、ぽろりと一粒流した。
だが橙子はその直後、
ニヤァッ
と、まるで勝ち誇った狐のように笑った。
「……でもね、まんまと罠にかけてやったのよ。」
「……え?」
篤は間抜けな声を漏らした。
奏多も、悠理も、驚きに目を見開く。
玲奈と蓮でさえ、涙を止めて姉を見つめていた。
橙子は腕を組み、堂々と言った。
「どういうことか説明するわ。」
彼女は深く息を吸い、いつもの冷静な語り口に戻る。
「言霊庫にある詞鏡は、手に取りやすい棚の上に“整然と”並んでいたでしょ。それが敵にとっても一番狙いやすい場所だと気づいたの。
だからここ数日、あなたたちが知らないうちに……」
ふふん、と鼻を鳴らす。
「本物の詞鏡の一部を、別の部屋に避難させておいたの。祀る者と祈る者の監視下にね。暴走しないよう注意しながら。」
蓮は目を丸くした。
「え……じゃあ棚に並んでたのって……」
「ただの紙よ。紙に模様を描いただけの“偽物”。ぱっと見じゃ絶対に分からない。
敵はそこから奪ったはず。つまり、あいつが持って逃げたのはニセモノ。」
玲奈の目が潤んだまま、しかし驚きで開いていく。
「お姉ちゃん……なんで……なんで言ってくれなかったの……!」
橙子は肩をすくめた。
「ほら、よく言うじゃない。
“敵を騙すなら、まず味方から”って」
「いやいやいや!!」
篤が立ち上がる。
「お前な! 俺たち家族まで騙してどうする!」
「私の涙を返してよ!」
玲奈が涙目で詰め寄る。
「俺なんて心臓止まるかと思ったぞ!」
蓮も抗議する。
橙子は慌てず、むしろ誇らしげだ。
「だって、敵に察知されたら意味ないでしょ?
あなたたち、顔にすぐ出るし。」
「俺そんなに単純か!?」「いや出る出る」「玲奈だって泣くし」「蓮も声震えるし」
家族同士のワチャワチャした言い合いが始まり、空気が一気に生き返った。
先ほどまでの緊張が嘘のようにほどけていく。
その微笑ましい光景を前に、奏多は呆気に取られたように言った。
「……すごい家族ですね。緊張と安堵の切り替えがえげつない。」
悠理は軽く笑う。
「橙子の判断は正しかった。結果として詞鏡は守られた。」
橙子は胸を張る。
「完璧に騙せたから、敵も疑いなく持っていったんでしょ? なら成功よ。」
奏多は苦笑した。
「……まぁ、確かに。被害は最小限で済んだわけですし。」
悠理は小さく頷く。
「お前の判断力には驚かされる。
これで里の詞鏡は無事というわけだ。」
橙子は「当然でしょ」とばかりに得意げに笑った。
「それに棚を見た限り、本物の方はひとつも盗られていなかったわ。
あの敵、完全に偽物を掴んでいったのよ。」
篤・蓮・玲奈が同時に安堵する。
「よかったぁぁぁ……」
「ほんと心配したんだから……!」
「次は言ってよ……!」
「言わないわよ」橙子は即答する。「敵を騙すなら――」
「はいはいはいはいもう分かったって!!」
篤が額を押さえた。
家族の笑い声が、ようやく家の空気を柔らかく満たしていく。
悠理はその光景を見ながら、静かに奏多へ囁いた。
「……守りきれたのなら、それで十分だな。」
奏多も安心したように微笑んだ。
「ええ。これ以上の結果はなかったでしょう。」
家の奥からは、治療を受ける紗月の落ち着いた呼吸の音が微かに聞こえる。
そして橙子の家族の賑やかな声が、張り詰めていた空気を完全に溶かしていた。
今日の戦いは、ようやく終わったのだった。




