三つの刃と一つの絶望
「……ならば力ずくで行くしかないな。」
烏丸の足が、砂利をわずかに押し鳴らした。
そのわずかな音だけで、橙子の背筋に鋭い警戒が走る。
距離はわずか数歩。
この近さでは、槍よりも刀の方が圧倒的に有利だ。
だが橙子は一歩も退かず、槍を構え直す。
(下がれば、庫の扉に近づけてしまう。)
橙子は自分の後ろに広がる木造の言霊庫を意識していた。
庫の内部には無数の詞鏡が並び、ひとつでも傷つけば大惨事になる。
この場所では、槍を振り回すことすら制限される。
橙子はその制約を理解し、それでも前へ出た。
烏丸の目が一瞬細まる。
「いい判断をする。」
その声と同時に、烏丸の姿が消えたように見えた。
「――っ!?」
次の瞬間、橙子の槍が鋭く横へ弾かれる。
音より速く、剣が槍柄に触れ、金属音が弾けた。
橙子は即座に踏み込み、衝撃を殺しながら槍を立て直す。
だが烏丸はすでに、橙子の死角へ回り込んでいた。
「姉さんっ!」
叫んだのは蓮だった。
槍を突き出し、烏丸が橙子へ斬りかかる軌道に割って入る。
烏丸は蓮の攻撃を軽く受け流す。
剣の腹で蓮の槍を押し上げ、蓮の体勢を崩していく。
「若いな。」
剣が蓮の肩口へ迫る。
玲奈の小太刀が、その刃を弾いた。
「蓮に触るなっ!!」
玲奈の踏み込みは軽く、影のように速い。
烏丸は玲奈と数合、鋭い打ち合いを演じる。
小太刀は短い分、懐に入りこみやすい。
金属音が続けざまに響いた。
「へぇ……」
烏丸は楽しそうに笑った。
「三人とも、思った以上にやるな。」
橙子は一息つく暇もなく、再び前に出る。
玲奈が押され始めた瞬間に、横から槍の柄で烏丸の腕を叩いた。
烏丸がわずかに距離を取る。
「さすがに三人同時では、突破しにくいな。」
橙子、蓮、玲奈は互いの位置を瞬時に確認する。
三人とも、
相手を扉側へ回り込ませない。
それだけを徹底した隊列だった。
橙子が前衛、玲奈が側面、蓮が後衛から支援する形だ。
「ここは通さない。誰であろうと。」
橙子が宣言すると、烏丸は肩をひとつ揺らすように笑った。
「心意気は買う。……だが、俺の目的も同じくらい切実だ。」
烏丸の気配が再び変わった。
剣先の迷いが完全に消え、動きの無駄がさらに削ぎ落される。
次の瞬間、烏丸が地を蹴った。
直線ではなく、大きな円を描くような軌道で三人を回り込もうとする。
「蓮!右!」
橙子が叫ぶと同時に、蓮は槍を横薙ぎに振った。
烏丸は跳び上がり、蓮の槍を避けながら玲奈の死角へ落ちる。
剣が玲奈の小太刀を押しのける。
「――っ!」
玲奈の手首が悲鳴を上げ、刃が弾かれた。
そのまま烏丸の剣が玲奈の喉元へ迫る。
「玲奈!!」
橙子の槍が風を裂き、烏丸の腕を狙う。
だが――その一瞬が遅かった。
烏丸の剣が玲奈の小太刀を完全に弾き払い、玲奈の体勢が大きく崩れたその隙に。
すっと、まるで包み込むような滑らかさで、烏丸の左腕が玲奈の肩を引き寄せる。
次の瞬間には、鋭い剣先が、玲奈の白い喉元へぴたりと押し当てられていた。
「……っ!」
玲奈は息を呑み、あまりの速さに反応すらできていなかった。
蓮が叫ぶ。
「玲奈から離れろ!!」
だが動いたら、終わる。
橙子は反射で槍を止めた。
刃先が玲奈と烏丸のわずか手前で止まり、乾いた空気の震えだけを残した。
烏丸が息一つ乱さず、静かに言う。
「動くな。この距離だ、少しでも踏み込めば……分かるだろう?」
剣先が玲奈の皮膚をかすめ、細い血の線が浮かぶ。
「……っ!」
蓮はすぐに槍を下げた。
怒りに震える腕を押さえつけながら、奥歯を噛みしめている。
橙子は深く息を吸い、敵の動きを計測するように目を細めた。
(まずい……玲奈が盾にされたら、ここで仕留めることはできない。)
言霊庫の扉がすぐ背後にある。
押し出せば簡単に奥へ追い込まれてしまう位置。
烏丸は、小さく笑った。
「三人とも、悪くなかった。
だが、目的が違うんでな。」
玲奈を抱えたまま、わずかに後退し、
扉の前にぴたりと立つ。
橙子と蓮は同時に一歩踏み出しかけ、そして止まった。
「動くな。この娘に死んでほしいなら別だが。」
烏丸は玲奈の首元に剣を添えたまま、静かに、しかし確実に扉に手を伸ばした。
「ここの鍵を開けろ。」
「開けちゃだめ!!」
玲奈が叫ぶ。
だが、橙子は首を横に振り、鍵を鍵穴に差し込む。
ガチャ、と金属音が響いた。
「お願い……玲奈を傷つけないで……」
橙子の声が震える。
烏丸はその悲痛を楽しむでもなく、淡々とした声で告げる。
「お前らを傷つける気はない。俺の目的は詞鏡だ。」
指先が扉の隙間を押し広げる。
ぎ……ぎぃ……。
古びた蝶番が低く鳴き、
内部の冷気がゆっくりと流れ出してきた。
橙子は必死に声を絞り出す。
「玲奈を離して!詞鏡なら……私が持って出すから!庫の中に入る必要は――」
「何を言ってる。
お前を信じてどうする。」
烏丸の声は冷淡だったが、感情がないわけではない。
ただ、どこか喪失を抱えた人間だけが持つ、
鋭い諦めに似た色が宿っていた。
「俺は自分の目で確かめなければ気が済まない。」
玲奈が苦しげに息を呑む。
橙子は震える指先を握りしめ、蓮は槍の柄を噛むように握った。
烏丸は玲奈を盾にしたまま、
ゆっくりと、しかし迷いなく扉の中へ入っていく。
ひやりとした空気が、三人の肌を撫でた。
庫の内部は薄暗く、
棚にずらりと数百の詞鏡が並んでいる。
「……ここか。」
烏丸の声は、安堵とも焦燥ともつかない揺れを含んでいた。
玲奈を前に押しやりながら、
奥へと進む。
橙子と蓮は、その場から動けなかった。
動けば――玲奈の命が危ない。
だが動かなければ――詞鏡を奪われる。
庫の中で、烏丸が振り返った。
「追ってくるなら構わない。
ただし――」
剣先が玲奈の喉にさらに寄せられる。
「この子の血が詞鏡に飛ぶぞ。」
橙子の喉がひきつったように鳴った。
烏丸は詞鏡を掴み、玲奈を盾にしたまま外へ出た後は、風を切り裂きながら走り去った。
外の入り口には、悔しさでただただ涙が止まらない玲奈がいるだけだった。




