誘われた混乱
翌日。
朝の光が山の端から差し込み、華灯の里を淡く照らし始める頃。
里は昨日と同じように活気づき、観光客の姿も徐々に増え始めていた。
紗月は、昨日と同じ綴る者らしさを醸し出しながら広場中央の舞台の縁に立っていた。
白と薄紅の衣。
背筋を伸ばし、凛とした立ち姿。
本物の綴る者・橙子の佇まいを忠実に再現しながら、目は決して油断していない。
(昨日の気になった視線。あれが敵だったならば、今日動くかもしれない。)
紗月は胸の奥にこびりつく不穏に、思わず深く息を吸った。
「舞台は午後かしらねぇ?」
観光客たちの賑やかな声が、広場の空気を温めていく。
だが紗月の心は、どこか冷たかった。
張りつめた糸の上に立っているような緊張が、全身を覆っている。
その頃、言霊庫。
橙子、玲奈、蓮の三人は昨日と同じように配置につき、兵たちと共に庫の周囲を固めていた。
蓮は槍を握りながら、姉紗月の方へも意識を怠らない。
橙子は弟の肩に軽く触れ、小さく微笑んだ。
「大丈夫。私たちは私たちの役目を果たすよ。」
玲奈も頷く。
「姉さんが綴る者に見えるように立ち振る舞ってくれてる。あとは……敵が引っかかってくれればいいんだけど。」
橙子は槍の石突を静かに地へつき、目を閉じた。
(来る。今日こそ来る。)
その予感は、皮膚の下で脈打つように確かだった。
昼近くになり、人の出入りがもっとも多くなる時間帯が訪れた。
烏丸は、宿の裏手から目立たないように姿を現し、昨日と同じ位置から広場を見通していた。
目元には疲労を悟らせない鋭さが宿り、獣が隙を探るような静かな気配を放っている。
白と薄紅の衣。
背筋の伸びた立ち姿。
昨日と全く同じ“綴る者”。
その瞬間、烏丸は唇の端をゆっくりと吊り上げた。
(……いたな。やはり今日も広場に出ているか。)
かすかな笑いが喉の奥で転がる。
(綴る者がここにいる限り、言霊庫の守りはどうしても手薄になる。)
袖に仕込んでいた詞鏡を取り出し、二つに破った次の瞬間だった。
空気が震え、足元から低い唸りのような音が広場を包んだ。
気配の揺らぎが、広場全体へと波紋のように広がっていく。
「……っ何?」
「風が急に吹いてきた!?」
破れた詞鏡の破片から、もやのような黒い影が立ち昇り、空中に渦を巻き始める。
それが急速に形を成し、ひとつの“言霊”となって膨れ上がった。
ぎぎぎぎ――――。
悲鳴のような、泣き声のような音を上げ、暴れ狂い、広場の上空で蠢動する。露店の布が裂け、木片が吹き飛び人々が悲鳴をあげ始めた。
「な、なにあれ!?」
「言霊だ!綴る者様、助けてください!!」
観光客たちの混乱が一気に広場に広がった。
紗月は舞台へ上がり、大声で叫んだ。
「皆さん!広場出口からゆっくり離れてください!走らないで!」
叫びながら、紗月の胸の内で焦りが跳ねる。
(やられた……!これを囮にして、言霊庫へ向かうつもりだ!)
刀を取り出し、暴走言霊の動きを阻止しようとするが、数が多い観光客を前に思うように攻撃はできない。
その時、広場の裏手から篤が駆けつけた。
「紗月!避難誘導は俺がやる!お前は言霊の足を止めろ!」
「でも、倉の方が――!」
「わかっている!橙子たちがいる!間に合う!
だから今はここだ、紗月!」
篤の言葉は力強く、迷いがなかった。
紗月は噛みしめるように息を吸い、頷く。
「わかった……!任せた!」
二人は即座に役割を分担し、広場は混乱の中でも整然と避難が始まっていった。
だがその隙に、烏丸はすでに人混みを離れ、軽い足取りで言霊庫へと向かっていた。
(囮は十分だ。
綴る者は広場にいる。
言霊庫は無防備に近い……今しかない。)
烏丸の呼吸は一定で、迷いも焦りもない。
道を曲がり、氏神灯籠の背後へ回り、石段を静かに降りていく。
緊迫した空気が、足元で冷たい風となって吹き抜けた。
言霊庫前に到着した烏丸は、扉の前に立った三人の姿に足を止めた。
橙子。
玲奈。
そして蓮。
三人は烏丸が現れた瞬間、まるで待ち構えていたかのように正面に並んで立った。
橙子が一歩前に進み、静かに槍を構える。
「やぁ、来ると思っていたよ。」
烏丸の目が細められた。
その声は、昨日広場で見た女性とはまるで違う。
落ち着き払っていて、迷いがない。
橙子は続けた。
「悪いけど、詞鏡は渡さないよ。」
玲奈も小太刀を抜き、蓮は槍を握りしめた。
その瞳には、確かな意志が宿っている。
烏丸はゆっくりと歩み出し、地面に落ちる影が三人へ向かって伸びていく。
「お前が綴る者か?広場の女ではなかったか。」
「ええ。綴る者じゃない。」
橙子の声は静かだった。
「本物の綴る者は、ここにいる。
そして――言霊庫は渡さない。」
烏丸は口角を少し上げ、愉しげに笑った。
「面白い。」
空気が、張りつめた刃のように鋭くなる。
橙子の槍先が、烏丸の喉元を狙うようにわずかに揺れた。
玲奈は後ろの蓮をかばうように横へ開き、小太刀を構えている。
蓮は喉を鳴らしながらも、一歩も引かず橙子の背に近い位置を守っていた。
烏丸はふっと息を吐き、低く言い放つ。
「どくんだ。
お前たちを殺すつもりはない。
俺が欲しいのは――詞鏡だけだ。」
橙子は首を振った。
「渡せるわけないでしょ。」
橙子の足が、ひとつ大地を踏み鳴らした。
槍の穂先が、強烈な気迫とともに烏丸へ向かう。
「ここは通さない。」
烏丸の瞳が、静かに光った。
「……ならば力ずくで行くしかないな。」




