第二話 大人だって迷子になる
「なんで私だけがこんな目に……」
シルヴィアを振り切り、回廊を走り抜け、夢の畔と名付けられた泉まで来ると足を止めたユフィンがため息交じりに呟く。
煌々と輝く星々の海を反射して輝く水面に映る自身の顔を見て、ユフィンは自嘲気味に嗤った。
歳相応の無邪気さを期待出来る立場では無いが、13歳の少女らしからぬ、困憊に満ち満ちていた。
「ハァ……シルヴィアも笑えと言うはずだな」
ドレスが汚れるのもお構いなしに、腰を下ろして二度目の溜息を吐く。
「テンベルクサンドリアが滅べば良いなんて……本気で思ってたりなんかしないさ」
誰も聞いていないのに、ユフィンは弁解するかのように呟いた。
幼少期から王妃に叱責を受けた時等の逃げ場所が此処だったからかも知れない。
「成人したら、私がこの国の女王になれば、建て直せる筈なんだ。絶対に……そうだ。絶対に大丈夫の筈だ」
ついつい自分に言い聞かせてしまうのは、自信が無いからか、それとも場所が場所だからか。
先程から何に対する言い訳なのだと自問して苦笑する。
「我ながら意気地の無いことだ。私にはテンベルクサンドリアを立て直す以外に道は無いと言うのに……さて、戻って壁の華でもやるか」
またすぐに嫌になってしまうかも知れないが、今できることは精々貴族共に媚びを売って金を落とさせることくらいのものだ。
シルヴィアもユフィンがそれを理解していることを承知しているから、追いかける素振りを見せなかったのだ。
恐らく、頭を冷やす邪魔をしないようにと少し離れたところで様子を伺っているだろう。
立ち上がろうとすると、水面が音を立てて激しく揺らめいた。
魚でも跳ねたのだろうかと、何の気なしに視線を向けて、ユフィンは絶句する。
泉の真ん中に人が佇んでいた。二十歳を少し過ぎたくらいの若い男だ。
黒い髪に黒い眼をしていて、背丈はかなり高く、一見すると線が細そうに見えるが、かつてのテンベルクサンドリア騎士団に勝るとも劣らない覇気と生気に満ち溢れ、腰に差した長物からは魔力とも妖気とも知れぬ力が渦巻いていた。
『ギルテリッジかプロヴィル辺りの暗殺者か?』
ギルテリッジはテンベルクサンドリアの同盟国だ。
高い軍事力を持つが、領土拡張に野心的で、いつ寝首を掻かれても不思議では無い。油断ならぬ隣人だ。
プロヴィルはテンベルクサンドリアに敵対的で一触即発の状態が数年続いているが、ギルテリッジの牽制により、仮初めの平和が続いている。
離脱した貴族の殆どがギルテリッジに吸収されているという事もあり、あの狡猾な同盟国がいつ行動を起こしたとしても不思議では無い。
だが、ユフィンは自ら口にした暗殺者の可能性を否定した。
何故なら――
「此処は……何処だ?」
泉の中心で佇む男にあったのは全身から溢れ出る生気や覇気にそぐわないものだった。
しかも、戸惑う彼の口から出た言葉は問いかけでは無く、独り言で、突如として夜の闇に放り込まれたような有様で、すぐ側にいるユフィンに気付いた様子も無い。
『これで暗殺者と言うには間抜けが過ぎる』
放つ気は強大だが、どうにも人間味に溢れすぎていた。
「其処の者、何者だ?」
好奇心に負けて、声をかけて『いや、迂闊だったか?』と一瞬ばかり後悔するが、それも杞憂に終わった。
男はざばざばと音を立てながら水面をかき分け、ユフィンの方へと近付き、不審げに顔をしかめた。
「子供・・…? 子供が暗い所に一人で居るのは危ないぞ。親はどうした? 一緒じゃないのか?」
ユフィンに対し、真っ向から子供扱い出来る人間は、この国には王妃しかいない。
庶民の中には彼女の顔を知らぬ者もいるかも知れないが、これ程の気を持つ者が一般庶民の筈が無い。
外国の、それもテンベルクサンドリアとプロヴィルの対立に関わりの無い小国の将が、旅行の最中に道に迷ったのだろうと考えるのが妥当だとユフィンは思った。
「そういう其方は大人の癖に迷子か?」
「う、む……遺憾ながら、そのようだ」
ユフィンがからかい混じりに言うと、男は酷くばつが悪そうに肯定する。
子どもの扱いに慣れているという感じはしなかったが、小生意気な子供にからかわれたくらいで激怒する手合いでもないらしい。
「やれやれ、何とも頼りない男だな」
「むぅ……面目次第も無い」
生意気な子どもと、うだつが上がらない大人がするような、普通のやり取りがユフィンには、どうにも愉快だった。
彼女にとって大人とは強欲が人の形を成したような存在だ。
子供の頃からそういった手合いばかりを目の当たりにしてきたせいか、例え本心をひた隠しにしていようとも、その中でも特に悪意のある欲望には酷く敏感に出来ている。
目の前の男は本当にただの迷子で、大人にしては珍しく裏表がない。
無いわけでは無いが、目の前の子供にどう取り繕うか、そもそも子供相手に取り繕っても仕方が無いのではと悩む程度の、実に容易い大人だった。
それに何よりも、ユフィンをただの子供だと断定し切っている有様が、物珍しさを加速させた。
「妾……いや、私はユフィン・ヨハナ・テンベルクサンドリア。この家の主の娘だ」
「ああ、すまん。申し遅れた。俺は石動嵐雪。姓は石動、名が嵐雪だ。よろしくな、ユフィン」
ここにきてユフィンは目の前の男に不信感を抱いた。
テンベルクサンドリアの名を聞いても嵐雪が感情を動かすことは無かった。
ユフィンがテンベルクサンドリアの姫である事以前に、テンベルクサンドリアという国自体を知らない。
そんな反応だった。
「イスルギ・ランセツ。ふむ、ではランセツと呼ぶが」
「応」
「ランセツよ、暫く話に付き合ってはもらえないだろうか」
ユフィンから疑惑を持たれているとは露とも知らず、嵐雪は快諾した。