徳川家康が嫌われるわけは自分には忠義をもとめたのに自分は裏切ってばかりだったからか?
さて、徳川家康は江戸幕府を開き結果的にその後長い間日本の平和と安定をもたらしました。
無論西洋との技術格差が大きく開く原因にもなったわけですがオスマン・トルコですらそうなのですからある程度は仕方ないとも言えるでしょう。
しかしながら徳川家康が大好きという人はあんまりいない気がしますし、むしろ嫌われてる方が多い気がします。
最大の理由は”織田がつき・羽柴がこねし天下餅・座りしままに食らうは徳川”と言われるように苦労せずに天下人になったように思われるからでしょうか?
しかし徳川家康がその人生を苦労をしていないとは言えないでしょう。
少なくとも幼少の頃・織田との同盟者の間はけっこう大変だったと思います。
嫌われる理由は今川義持・織田信長・豊臣秀吉が死んですぐにそれらの勢力に見切りをつけて独立を図ったり、勢力を伸ばしたりしたからでしょうか。
今川義元に従属していたにもかかわらず桶狭間の戦いで義元が死ぬと、さっさと岡崎城に戻ってすぐさま軍事活動を開始し、三河の勢力を支配下に入れて、織田と同盟を結びつつ義元から偏奇された”元を”をすてて”家康”とさっさと名乗り、直後に徳川家康と名を改め従五位・三河守も叙任することで、対等な同盟者の立場を手に入れたのは確かですし、三河の国主であることを正式に認めさせることで信長に従属しないでもすむようにしたわけでもあります。
最も家康には信長のような幕府への献身はなかったのは主にそういったことと縁が薄い今川の影響だろうとおもいますが。
この頃の信長は足利幕府復興や朝廷の復興に多大な力を注ぎこんでいたけど家康にはそういった傾向はないですしね。
そしてのちに武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると、家康は武田氏と同盟を結んで遠江を奪っって、その後武田と喧嘩別れし、三方原で大敗するが運良く武田信玄が病死し、その後長篠の戦いを経て家康は駿河を確保。
そしてその後信長が本能寺の変で死ぬと、まずは京都に向かうと嘘を付きつつ追跡者を巻いて、伊賀を越えて本拠地三河に戻り、天正壬午乱と呼ばれる争いを起こした。
具体的にはこれ幸いと森長可・毛利長秀・河尻秀隆・滝川一益らの支配していた信濃や甲斐に侵攻してそれらを奪って信長の配下の軍団長が没落する中で甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がったわけですね。
最も彼等は逃げ出したり討ち取られたりしていたわけですので動くのは当然とも言えますが。
その後、明智光秀に続いて柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いを行うが痛み分けに終わりますが徳川家康と共に闘った紀伊国の雑賀衆・根来衆は秀吉によって根切りにされ、土佐国の長宗我部元親は豊臣秀吉に服属した後に秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し信親を失い、越中国の佐々成政は降伏して越中を取り上げられたが、徳川家康は北条氏降伏後、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を取り上げられたが、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部を得て150万石から250万石と大規模な加増をうけたのです。
さらに豊臣政権で実質的No.2を担った後、秀吉が病で死去するや関ヶ原の戦いをおこしました。
当初の家康は東国は徳川と畿内は豊臣、西国は毛利などで分割統治を図って諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた形跡もあったのですが最終的には大坂の陣で豊臣家を滅亡させましたね。
ふむ、こうしてみると確かに徳川家康がやってることはエグいが、毛利元就がやってることはもっとエグい、薩摩藩のやっていることもエグい、結局のところ明治政府が徳川幕府を否定するために徳川家康を悪人と印象づけたがってるだけのような気もしないでもないです。
が、今川義元や織田信長の死んだ直後の行動が褒められたものではないのは事実ではあると思うし結局の所美味しいとこを全部持っていったのも事実だとは思う。
嫌われる最大の理由は他の大名だ好きな人達にとってなんでこんなやつが天下を取ったんだよという思いがあるのでしょう
徳川家康が上手に生き残れたのは三河という守護も守護代もおらず祖父である松平清康が西三河統一を行ったことでそれなりに地盤があったこと。
今川の影響でおそらく室町幕府の権威を信じてなかったため上京と将軍崇拝思考がなかったこともあると思います。
信長や秀吉は朝廷のためにかなりの金額の金を使ったはずだけど家康はあまり使ってないはずですし。
仮に徳川家康が足利義昭のことを織田信長より優先して信長包囲網に加わっていたら歴史はかわっていたかもしれないがおそらく戦乱はもっと長引いていたでしょうね。
そして織田という勢力が潰されていたら徳川の天下もきっとなかったのでしょう。