5(海と山と空の色)
*
彼女は、泥にまみれた自分を不快に思っている。口には出さず、進めるだけ進む。川のせせらぎを聞き、やっと止まる。
──あれは何?
わたしはそっと訊ねる。
「蛮人。群体を望まなかったモノの成れの果て」ぶるっと身体を震わせる。「何世代も前に群体なんて選ばなかったら、それこそ本なんて見向きもされなかったんじゃないかな」ため息。「ちょっとした違いがこんなになるなんて、誰も思わなかったんだろうな」
彼女は火を熾し、剥がすように服を脱いで川に入る。「覗くなよ」
それが冗談だと理解したのは、彼女が川から上がって、ジェルを塗る手のひらで。終えると、服を洗い、絞って干し、ああ、とため息を吐く。安堵でなく、感嘆のため息を吐く。
「あんたたち、光は分からないんだよね」
彼女がわたしに触れる。
「あたしの目を通してずっとよく良く分かるでしょ?」
彼女がじんわりとわたしの中へ染み入り──ふわっと鮮やかに世界が開く。
「夕日。夕焼け。一日の終り」
それは眩しくて、輝いて。星々の瞬きでも、銀河のうねりでも、恒星の放つ熱量でもない美しい光景で──、
──きれい。
わたしは彼女を通して光を見た。
恒星が、見えなくなるまでそうしていた。
*
彼女はしゃがんで、火に当たる。「なんでそんな変な色覚進化をしたの?」
くすり、と笑う。マゼンタとイエロー、少しのシアン。楽しげに混じった色が流れている。わたしはそれを心地よいと感じる。
「この旅って、歴史をなぞるって側面もあるんじゃないかな。進化しようが発展しようが、あたしたちがこの大きさである以上、道具は便利であることよりも、質素であることのほうが良いこともある。でも本は違った。本は生まれてからずっと変化して、姿を変え、役目を終えて、どんどん減って。あたしたちも変って、伝達の手段も変った。あたしね、本が死んだら自由になれると思ってた。でも自由って何? 分からなかった」
──そう。
「あんたも、分かっているつもりで、ちっとも分かってなかったね」
その通り。
「たぶん、それで良いんだよ。でも人間だとか、人間じゃないとか、面倒はなくなったかも」
──わたしたちは……邪魔だった?
「そんな立派なものじゃない。自惚れないで」
ならば、わたしは何だったのだろう?
「お星さまでいいんじゃないの?」
果たして、そうだろうか。
彼女は口をつぐむ。熾した火が揺れている。
「あたしね」云いかけて、彼女は口をつぐむ。火の中で、ぱちりと何かが爆ぜる。「感度が悪いんだ。補助端末を使ってる。両耳の後ろに引っ付いてる。一目で分かるのに、分け隔てされない。違うのに、違わない。文字も習った。憶えた。読めるし、書ける」
だんだん彼女が小さくなる。「わたしは皆と違うんだ。落ちこぼれなんだ」
彼女が泣いている。涙を流している。
ナナミは外れ者で、見えない未来に不安を抱いて。
だからわたしは理解する。
わたしたちは、たぶん、似ている。
*
陽が昇る。ナナミはわたしにジェルを塗り、出発の支度をする。
「ずいぶん小さくなったね。これなら両手で抱えられる」
自分のことなのに、分からない。
「無理させちゃったかな」
ナナミはいつもと違う混色の、不思議な色を伝えてきた。「昨日はありがとう」
上手く応えられないわたしに、「さ、行くよ」それは変らぬ声だった。「今日中に送り届けるから」
*
そして今、ナナミは穴を掘り、粘土板を用意する。「名前、訊いてなかった」
教えて、ナナミは云う。思念を送るが、「変なの」
どうやら地上にないものらしい。
ちょっと待って、とナナミは迷い、唸り、はっと口を開く。「それに近い言葉は、アオイ、かな」
どんな意味?
「海と山と空の色」
本当に?
「気に入らない?」
ううん。
「気に入った?」
とっても。
わたしは、たった今、教えられた言葉を殻の中で転がした。
アオイ。わたしの名前。
アオイ。海と山と空の色。
アオイ。なんて素敵な言葉だろう。
*
ねぇ、ナナミ。いつかわたしに訊いたでしょう?
どうしてこんな色覚を持つようになったのか。
今なら分かる。
光があまりにも眩しすぎたから。
わたしたちには眩しすぎたんだよ。
*
ナナミが粘土板に名前を刻む。
「漂っているのは、あんただけだった。だからこれが最後の文字になる」ふう、と息を吐く。「もう、文字は生まれない」
──大丈夫?
「帰り? 迎えが来るよ」
──そうじゃなくて。
「送り届けるまでがあたしの役目で、帰りは含まれないんだ」
違う。違うんだよ、ナナミ。そうじゃない。
「ああ」とナナミ。「だいじょうぶ」
それはイエローの、からりとした印象で。
「たぶん」
わたしたちは笑った。
一緒になって笑ったのだ。
そしてナナミは、手ずから掘ってくれた穴の中にわたしを横たえ、上からそっと土を被せた。
「おやすみ、アオイ」
それが最後の言葉になる。
わたしは柔らかな地中にあって、わたしを表わす文字の下で、わたしの全ては大地に還る。
遠い未来、刻んだ文字は、雨と風で消えるかも知れない。
それでもわたしは信じたい。文字が、本が、再び世界に、人に必要とされることを。
そして彼らはわたしを見つけるだろう。その時、わたしは「おはよう」を云う。
おはようの、言葉を伝える。
─了─




