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久しぶりにも思えるまともな訓練を、じっとり汗をかくほど堪能して。シーヴは、汗を流して着替えようと、のんびり居住棟へ向かっていた。
「あの、シーヴ様、ですよね?」
明らかに男性の声に名を呼ばれ、シーヴは緩慢に振り向く。
黒色の上着を着ていることから、彼が騎士の一員であることはわかった。見上げた先にある顔は、何となく見たことがあるような気はするものの。頼りにならない記憶力では、彼の名前が出てくるはずがない。
「……誰だ?」
「あー、本当に噂どおり、全然覚えてないんですね」
彼はひっそりと、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべる。
「僕はイェレミアスといいます」
「それで、何の用だ?」
一応聞いてはみたが、興味がないので覚える気はさらさらない。
「あ、はい。あの、シーヴ様は、ヨハンナと仲がいいですよね?」
明らかに、覚えることを放棄しているシーヴに。イェレミアスはこれっぽっちも気にすることなく、尋ねたかったことを口にした。
「顔を合わせれば話はするし、ヨハンナがよく会いに来るから、親しいと言えば親しいな」
「じゃ、じゃあ、ヨハンナに好きな人がいるとか、そんな話って聞いてませんか!?」
悠然と腕を組んで、いろいろ思い出しながら、シーヴはボソリと呟く。そこに、グッと意気込んだイェレミアスが、声を張り上げる。
これまで散々、ユリアたちに、鈍いとか鈍感だとか言われている。そんなシーヴでも、さすがに察したようだ。
何度か瞬きをして、ジッとイェレミアスを見上げて。それから真剣な顔で、ヨハンナと過去に交わした言葉を、順々に思い出していく。
「そうだな……初めて会った頃は、ヴァルトを追いかけていたようだが、最近は誰の名前も聞かないな」
ヨハンナがヴァルトの名前を出さなくなった時期を、シーヴは把握していない。
ただ、ヨハンナの頑なな態度から、何らかの理由で、すっぱりと諦めようとしているのだろう。そのくらいは、ぼんやり感じ取っていた。
「そっか……よし、頑張ってみます!」
「たまにだったら、愚痴くらいは聞いてやるぞ」
一筋縄ではいなかいヨハンナの性格を、最近少し理解してきたからか。シーヴは笑いながら、イェレミアスにそう告げる。
「それより、それとなく、僕のことをヨハンナに売り込んでもらえませんか?」
「それはお前が努力することであって、僕がそこまで手助けする義理はない」
きっぱり言い切って、ぴしゃりと切り捨てた。
一旦、がっくり肩を落としたが。彼はすぐに、顔をグイッと上げて力強く頷く。そのまま、情報収集のために、ヒリヤのところへ行くと駆け出していった。
その後ろ姿を、しげしげと見送るシーヴには。彼が理解してくれたことが、胸をふわりと、じんわりと温めるほどに嬉しい。
(兄上は、まったく耳を貸さなかったからな)
父の猫かわいがりも。母の締めつけるような、ねっとりした教育も。連日やってくるマルクも。誰も彼も、確かに煩わしくて嫌気が差していた。しかし、国を出ようと決意を固めた決め手は、兄とのいくつもの確執だ。
その日も、マルクをどうにか振り切って、彼が帰宅するのをきちんと確かめてから。街の少女たちと、城の中庭で、のんびりと茶会を楽しんでいた。
「私、結婚するなら、シーヴ様がいいわ」
元は、近いうちに、街で結婚式があるという話題だった。しかし、どういう流れか、誰かがそんなことを言い出して。あっという間に全員が、口々に似たようなことを語り出す。
「わたしも、シーヴ様がいい!」
「私も、シーヴ様以外考えられません。強くてカッコよくて綺麗で優しくて、どこをどう取っても完璧ですもの」
「あたしも! ねえ、シーヴ様。おっきくなったらあたしと結婚して!」
「あ、ずるい! シーヴ様、私と結婚しましょ?」
当時のシーヴにとっては、ごくごくありふれた日常だった。女の子たちの、可愛いやり取りにすぎない。
いずれ、誰もが目を覚まして、現実に帰っていく。
それまでの間、少しでも楽しい夢を見せられるのならば。いくらでも、彼女たちが納得するだけ、男らしく振る舞えた。
その結果として、一人称が「僕」に変わり、母を大いに嘆かせたわけだが。
「君たちの申し出は嬉しいが、僕は一人しかいない。君たちの中から、誰か一人を選ぶことも難しいし、全員と結婚することも、もちろんできない。心が引きちぎられる思いは僕も同じだから、こうして顔を合わせ言葉を交わすことで、どうか満足してくれないか?」
別段、誰に教わったわけではない。しかし、そんな言葉で場をサラリと収めて、また違う話題で楽しく盛り上がる。
それが、いつものことだった。
この日はたまたま、兄が偶然近くを通りかかって、その上、聞き耳を立てていたらしい。理由は、彼が気になっている少女が、茶会に混ざっていたからだ。
シーヴ以外と結婚するなんて、考えられない。シーヴが完璧だから。
その少女が、そう褒め称えたことが、よほど気に障ったのだろう。
「シーヴ、今すぐ勝負しろ!」
少女たちとの、楽しく和やかな茶会に。突然押し入って、無粋なことをわめく。兄にすっかり呆れ、少女たちに害が及ばない位置で、仕方なくひと勝負することになった。
すでに、実力はシーヴが抜きん出ている。体調が悪い上に、あり得ないほど油断していなければ、シーヴが負けることなどとても考えられない。
勝負は一瞬だった。
グイッと一気に踏み込んだシーヴが、ザッと剣を払い上げる。金属がぶつかる独特の甲高い音とともに、ベントの剣はあっさり弾かれてクルクルと宙を舞う。はるか遠くの地面にざっくり突き刺さる。
キャーッと黄色い歓声が、少女たちからいくつもあがる。さっさと剣を収めたシーヴが、かすかに笑んで彼女たちに軽く手を振った。
これまで、兄との勝負は百二戦で、今のところ全勝だ。
見慣れなければ、絶対に笑っているようには見えない。どこまでも爽やかな微笑を浮かべて、少女たちに囲まれるシーヴを。メラメラと憎悪にたぎる瞳で、ベントはジッと見つめていた。
その日の夕食の場で、シーヴはイクセルから、思いがけないことを問われた。
「シーヴ、怒らないから、本当のことを言ってくれるかな? 今日、街の女の子たちの前で、ベントに恥をかかせたのかい?」
「……は?」
問いかけの意味が、さっぱりわからず、怪訝に首を傾げてから。
もしかすると、昼の一件だろうか。そう判断して、静かに首を横に振った。
「僕がイングリッドたちと談笑をしていたところに、くだらない勝負を持ちかけてきたのは兄上です。僕はあくまで、仕方なく受けて立ったまで。その結果を、父上にどうこう言われる筋合いはありません」
ぴしゃりと言い切ると、父は大きなため息をつく。
そもそも、咎められるいわれも、ため息をつかれる理由もない。
「今日のシーヴは、ベントの剣を一撃で飛ばしたって聞いたわ。ふふ、ソーニャお姉様くらい強くなるのも、もう時間の問題ね」
「いや、伯母上は、父上よりずっと強いのでしょう? 僕はまだまだです」
ほぼ同時に、露骨な渋い顔を見せた父と兄が視界に入って。わかるようにため息をつきたいところを、グッと堪える。
彼らに気づかれないよう、そっと細く息を吐き出すにとどめた。
国を出ることを、母に相談したのはその夜だ。次の日には、父にも出て行くことを宣言した。
その足で、髪をばっさり切ってから。ひと晩で適度にまとめておいた荷物を持って、フラリと国を出たのだ。
こっそり父につけられた護衛たちが、少なからず誤算だったが。
もう六年近く前のことを、ぼんやりと思い出して。両親の手紙で話題に出ることのない兄が、いい加減結婚したのか。なぜか、不意に気になった。
(今度、母上に聞いてみよう)
出来事をこと細かに書いて送ってくる母の、手紙にまったく出てこない話題だから。恐らく、まだなのだろう。
そう思いつつも、母がうっかり忘れている可能性が捨てきれない。だから、それを次の手紙に書く、ひとつ目の話題に決めた。




