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表向きは、ひどく平穏な日が半月ほど続いていた。そろそろ、セーデルランド軍が押し寄せてくる頃合いだ。
その異変を真っ先に知ったのは、ソーニャだった。
すぐに下の階へ走る。階段にもっとも近く、早朝という時間をかんがみて。万一起こしても、それほど差し障りのなさそうな。シーヴの部屋のドアを、壊さない程度に力いっぱい叩いた。
「伯母上? どうかしたのですか?」
案の定、すでに着替えまで済ませていたシーヴは、驚きを隠せない様子で軽く首を傾げる。
スッと差し出された鍵束を、思わず受け取ってしまう。
「すぐにユハナを起こし、無駄だと思うがユリアを確かめてもらってくれ。それから、リクを叩き起こせ!」
あまりの剣幕に、シーヴは何度もコクコク頷く。パッと部屋を飛び出して、急いで言われたとおりの行動に移る。
それを視界の端にとらえつつ。ソーニャは再び上の階へ戻って、今度はエリサの私室へと駆け込んだ。
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「ユハナ、起きているか?」
ほとんど待つことなく、そっと開けられたドアの向こうに。やはり着替え終えているユハナが、グッと眉を寄せ、腕を組んでいた。
「母さんが暴れていたけど、何があったんだ?」
「僕にはわからないが、ユリアを確かめてくれと言われた。それから、リクを叩き起こせと」
「……まさか」
それだけで察したのか。ユハナは廊下側のドアを開けたまま、室内のドアからユリアの部屋に飛び込む。
「ユリア、ユリア! ……ダメか」
「いったい、どうしたんだ?」
後をついてきたシーヴは、内装が苦手ゆえ、ユリアの部屋に入ることができない。ギリギリの境界に立って、何があったのかを尋ねる。
「……とりあえずリクを起こす。その後で、ダメだと思うけど、一応ヴァルトを確かめないといけないな」
「だから、何が起きたのかと聞いている!」
苛立ったシーヴの、きつい声音の問い。ユハナは理解できないと、あからさまに表情に出す。
シーヴはしっかり腕を組み、憤りを全身で表現している。
「……ああ、そういえば、シーヴは知らないのか」
ようやくユハナは、シーヴがセーデルランドの生まれ育ちだと思い出したようだ。
すっかりアウリンクッカになじんでいたから。シーヴは、元からこの国に暮らしていたように、錯覚していたのだろう。
「多分、魔術師風邪だ」
「……それは何だ?」
「名前のとおり、アウリンクッカでは、二十年に一度程度の間隔で流行る、魔術師だけがかかる風邪だ。だからユリアを確かめた」
言いながら、ユハナはシーヴの手から、鍵束を奪い取った。
知らないことを教えるのは当然とばかりに。リクの部屋へ向かいながら、シーヴに軽く説明をする。
「ユリアがかかったということは、父さんもダメだ。というか、母さんが来たのは、多分父さんがかかってたからだ。だけど、リクは絶対にかかっていない」
「なぜ言い切れる?」
魔術師がかかる風邪。たった今、そう教わったばかりなのに。
不満をあらわにするシーヴに対し、ユハナはふうっと息を吐く。
「魔術師風邪は、三つに分類される。治癒が得意なものがかかる治癒風邪。防御が得意なものがかかる防御風邪。攻撃が得意なものがかかる攻撃風邪。一定の素質がなければ、必ず免れる。だから、魔術の使えない僕やシーヴ、母さんは何ともない。父さんやユリアが寝込んだということは、治癒か防御だ。攻撃しかできないリクは、無事に決まっている」
「……なるほど。だから伯母上は、リクを叩き起こせと言ったのか」
感心したシーヴは、ため息混じりに小さく呟く。すぐ後ろで、ユハナがリクの部屋を開けるのをジッと待つ。
「リク、起きろ! ユリアの一大事だ!」
ユハナの起こし方に、シーヴは思い切り噴き出した。
そして、普段よりずっと早い時間だというのに。聞いたとたんに、バッと飛び起きるリクに、くつくつと低く笑う。
「……二人そろって、どういうこと?」
「魔術師風邪」
それを聞いて、無事な自分自身に、リクはがっくりと肩を落とす。
「じゃあ、すぐに着替えて、セナリマ様を確かめてくるよ」
「ああ、頼む」
着替えるからと、リクはシーヴたちを部屋から追い出した。
「なぜセナリマ様を? ……ああ、治癒型だからか」
「正確には、治癒風邪にかかり、防御風邪はかろうじて免れるからだ。わかったら知らせてくれるから、とりあえずヴァルトも確かめておこう。……ヴァルトの場合、どれでもかかるだろうけど」
「バランス型の不便なところか」
ユハナが鍵を開け、シーヴと二人、ヴァルトの部屋へ足を踏み入れる。
乱雑に、紙が部屋中に散らかって。本はあちこちで、バラバラに高く積まれていた。
ヴァルト自身が通路と決めているのか。獣道の様相だが、足の踏み場はかろうじて存在している。
「……父さんの部屋みたいだ」
「アハトはこれほど散らかすのか……」
近寄りがたい部屋だ、と独りごちて。シーヴは物珍しそうに、室内をグルリと見回す。
本ばかりが、びっしり並ぶ棚が三つ。普段の着替えをしまっているだろう、焦げ茶色のチェスト。その近くの壁にかけられた、今日着る予定らしい魔術師の服。よく見れば、机の上まで、本と紙が占拠している。
三年ほど前。ユハナの部屋に入ったのを最後に、異性の部屋を訪れたことはない。
ユリアはともかく、自分の部屋と比べても。
(ここまで、違いが出るものなのか?)
散らかすことより、片づけないことより。普段のヴァルトからは想像もできない、意外な一面に。
ほんの少し、ささやかな興味が湧く。
「やっぱりダメだな」
ユリアは、どうしても部屋に入れず、確かめられなかった。だが、それなりに近いところで見れば。ヴァルトが呼びかけに答えられないほど、ただ深く眠っているだけのように映る。
「そうか。ところで、これを治す方法はあるのか?」
「治癒魔術で治るんだが、これが防御風邪だった場合は、少し厄介だな」
「なぜだ?」
防御が得意な者が、罹患している。それなら、セナリマは無事だ。かなり簡単に、あっさりと、全員の治療が終わりそうな気がするのに。
「罹患者の力量以上に、治癒する側の力が必要なんだ。正直、数頼みだと思う。父さんが防御風邪にかかったら、もう悪夢としか思えない」
シーヴには、アハトの防御魔術がどれほどの威力を誇るか。さっぱりわからないし、当たりをつけることもできない。
それでも、ユハナが悪夢と言い切る状況になることだけは。恐らく、治癒の得意な者を始め、ユリアたち全員が無事でなければ。治癒できる見込みがないことは、どうにか理解できた。
ヴァルトの部屋を出たところで、リクが戻ってきたらしく鉢合わせた。
「今回は治癒風邪。ついでに父さんとユッカ様にも伝えておいたから、そのうち来るんじゃないかな?」
「……では、城の魔術師で無事な者を集めて、地道に一人ずつ治癒していくしかないか」
いつの間にか、ソーニャがすぐそばに立っていた。リク以外は、ことさら驚いた様子もない。
「ユハナは私と来い。リクはリュイスと手分けをして、国内の状況を調べて把握してきてくれ。シーヴは念のためにここへ残り、ヘンリク様以外の様子を、時々でいいから見て欲しい」
「わかりました」
ソーニャについていったところで、何ができるわけではない。それがわかっているから、シーヴは素直に頷く。
その場で、ユハナから鍵束を、ソーニャからアハトの部屋の鍵を預かった。
「ああ、そうだ」
宿舎へ向かいかけていたソーニャが、ふと振り向く。
「自分の身が可愛かったら、ヴァルトの様子を見る時は、絶対に、ヴァルトの手が届く範囲に近寄るな。アハトは多分大丈夫だとは思うが……いや、シーヴは念のため、近づかない方が無難だな」
言われた意味がわからず、こてんと首を傾げるシーヴに。理由を一切説明することなく、ソーニャはパッと駆け出してしまう。
(まあ、様子を見るだけならば、別段近づかなくともできるだろう)
そう安易に考え、シーヴはまず、アハトの様子を見てくることにした。




