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第28回 日本の格式、だそうです(後半)

結婚式場の控え室で、紅葉は帯の位置を何度も直していた。

紫の着物は思ったより重く、歩くたびに裾が静かに揺れる。髪飾りもつけられ、鏡に映った自分は、完全に参列者でもスタッフでもない、中途半端な和装姿だった。隣では詩音が、淡い紫の着物を過不足なく着こなし、静かに佇んでいる。帯の結び目も、崩れていない。

『……動きにくいです』

『格式が出ています』

『格式より、転びそうです』

式場内は、すでに披露宴の準備が進んでいた。和装の新郎新婦がいるだけあって、会場の一部は畳敷きで、生け花が丁寧に飾られている。問題の参列者は、すぐにわかった。酒の匂いを漂わせ、他の客のテーブルに何度も近づいている男だった。笑顔は作っているが、声が大きい。周囲が少しずつ迷惑そうな顔をしている。

詩音が近づくと、男は着物姿の二人を見て、軽く息を吐いた。

「なんだよ、本物の親族か?」

『場の空気を、乱さないでいただきたい』

詩音の声は低かった。威圧ではない。ただ、着物の格式を纏ったまま、静かに言っただけだ。男は笑おうとしたが、詩音の目を見て、笑みが少し止まった。紅葉がその横に立つ。二人揃った和装の雰囲気が、予想以上に場に沈んだ。

男はしばらく何か言いたそうにしていたが、結局、グラスを置いて席に戻った。それ以上の騒ぎにはならなかった。

新郎新婦側の関係者が、後で小さく頭を下げてきた。

「助かりました。あの格好、意外と効果的でしたね」

詩音は真顔で頷いた。

『日本の格式が、伝わったかと』

紅葉は袖の中で拳を握ったまま、何も言わなかった。


翌朝。

紅葉が席に着いた瞬間、空気が変わった。

七瀬が立っていた。手には、分厚い封筒と、一枚の書類。顔は、これまでのどの請求書のときより、静かで、冷たかった。

「紅葉」

『……はい』

七瀬は封筒を机に叩きつけた。中から、領収書が滑り出る。数字の桁を見た瞬間、紅葉の呼吸が止まった。アオザイを超えていた。着物二着分の特注費、帯、髪飾り、小物。合計が、目に痛かった。

そして七瀬は、もう一枚の書類を、その上に重ねた。

退職願だった。

「もう、限界だ。お前らについていけない」

紅葉は思わず席を立ち、七瀬の前に回り込んだ。

『待ってください! 七瀬さん、これは……私の管理不足です。詩音先輩にちゃんと話します。次は絶対に、こんな高額なものは……!』

「次はない。もう、申請書を見るのも嫌だ」

『お願いです、考え直してください! 経理が七瀬さんじゃなくなったら、本当に回りません!』

紅葉は頭を下げた。何度も下げた。七瀬はしばらく紅葉の頭を見下ろしていたが、やがて短く息を吐き、退職願を机から取り上げた。

「……一回だけだ。次があったら、本当に出す」

そう言い残し、七瀬は経理室へ戻っていった。紅葉はその場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと顔を上げた。

机の上には、まだ領収書が残っている。

隣の席では、詩音が朝のコーヒーを飲みながら、普通に資料を開いていた。

紅葉は椅子に力なく座り、天井を見た。

『なんで、私が……』

誰にも届かない声だった。

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