表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/17

第十七話

「いろいろ迷惑をかけたな」


 シャープなシルエットのダークスーツとサングラス姿の拳聖さんは、クールに微笑んだ。

 夏休みを目前に控えた七月の半ば、清潔に近代的な富士山静岡空港の景色がそのサングラスに反射する。


「けど、なんだか胸のつかえが取れたような、すごくすっきりとした気分だ」


 あの試合の後、拳聖さんはすべての観衆に向かい、自分自身がボクシングを離れた理由を説明した。

 そして、それがどれ程深刻なものであったのかも。


「さすがにみんなびっくりしてたぜ。左目が見えないこともそうだけどよ、その左目であの半田の野郎をノックアウトしちまったんだからな」


 ハンチング帽を親指で押し上げた石神さんの顔には、陽気な笑顔が浮かんでいた。


「あたしはまだ許してないんだからね」


 すねたようにして、玲於奈はぷいと顔を背けた。

 結局あの対抗戦の後も、玲於奈はあいかわらず僕のマンションに居座り続けている。


「こんな大切なこと……妹のあたしにまで隠してたんだから」


 相変わらず憎まれ口は叩いていたけれど、玲於奈だって知っているんだ。

 拳聖さんが、自分の目の状態を隠していた理由を。


「お前に言ったら、優しいお前は何があっても手術をしろって言うに決まってる」


 そうだね。

 強がりばかり口にするけど、本当はとても優しい玲於奈だから、そんな妹だからこそ、拳聖さんは左目のことを言えなかったんだよ。

 玲於奈が大学まで一貫の私立女子校に通う費用、拳聖さんにとっては、それが自分の左目よりも大切なんだ。


「それに――」


 けど、拳聖さんにとって大切なのは学費だけじゃない。

 拳聖さんは、玲於奈のツインテールにまとめられたつややかな髪に指を絡ませた。


「お前がいつか、大切な人を見つけてお前の一生を預けようと思ったとき、どこに出しても恥ずかしくない結婚式を上げてやりたくてな」


 拳聖さんは、とびきり綺麗な玲於奈のウェディングドレスの姿が見たかったんだ。


「父さんと母さんとの約束だ。二人の残してくれたお金は、そのために使われるべきなんだ」


「バカ……」


 玲於奈は恥ずかしそうに呟いた後、拳聖さんの指に自分の指を絡ませた。


「……あたしの結婚式なんて、そんなのいつあるかもわからないのに……」


「け、けど、結果それがよかったんっすよ!」


「ええ。あの大観衆の前で、しかも高校ボクシングの重鎮、佐山先生のいらっしゃる前で言うことができたんですから」


 あの後、どこからともなく拳聖さんの左目のための募金をしようという声が上がった。

 ううん、会場内だけじゃない。

 佐山先生は、全国のボクシング関係者に話を通してくれた。

 その結果、たくさんの寄付が全国から寄せられた。

 あ、忘れてた。


「そうそう、半田さんが拳聖さんに見せろって」


「半田が?」


 僕は拳聖さんにスマホの画面を差し出した。


「動画送ってきたんですよ」


“へっ、ざまあみやがれ!”


 画面の中では、舌を出して顔をしかめる半田さんの顔があった。


“お前みたいなやつが日本からいなくなるなんて清々するわ! 一生アメリカからかえってくるんじゃねえぞ!? ばァあああああか!”


「はは……だそうです……とにかく見せろって、あの人うるさいものでして……ははは……」


 検査の結果、拳聖さんの左目の状態は芳しくなく、アメリカのスポーツドクターの診察と手術を受けなければならないことがわかった。

 だけど、全国から寄せられた寄付金が、それを可能にしてくれた。


「あいつらしいな」


 拳聖さんはポケットに手を突っ込み、ふっと笑った。


「まあ口ではあんなことを言っているがな、今回のお前の渡米、半田君とそのご家族が、一番骨を折ってくれたんだそうだ」


 そう、石切山先生の言うとおり、拳聖さんのアメリカでの手術費用に一番多くの寄付をしてくれたのは、誰あろう半田さんとそのご家族だった。

 半田さんの家は証券会社の重役であり、多額の出資とアメリカの大学病院での手術の手続きをしてくれた。

 ボクシングのメッカ、ラスベガスのあるネバダ州の大学病院で、多くのボクサーの眼を見た経験豊かなお医者さんが、拳聖さんの目を手術してくれることになった。

 そして以前から拳聖さんのボクシングの才能を知り、そのファンでもあった半田さんのお父さんが、ボクシングによるアメリカ留学への口添えまで行ってくれた。

 拳聖さんは向こうでリハビリを行いながら語学学校へ通い、経過によってはハイスクール、そしてネバダ大学でボクシングを続けられることになった。


「なんだかんだで、半田君も目標がいなくなって寂しいんだ。わかってやれ」


「言われなくてもわかっているさ。それより、また今回も迷惑かけちまったな、イシさん」


 結果的に拳聖さんは定禅寺西を中退して、内定していた大学の推薦を蹴ることになった。

 石切山先生は、そのためにまたいろんなところに頭下げて回ってる。

 けど――


「何を言うんだ」


 石切山先生のこんなに明るい笑顔を見たのは、僕は初めてかもしれない。


「お前は俺の誘いに乗って、この定禅寺西に来てくれたんだ。このおっさののわがままを聞いてくれた、それだけで十分おつりがくる。俺のほうこそ礼を言うほかない」


「……あんたには世話になったな」


 石切山先生は、拳聖さんの右手に力強く応えた。


「待ってるよ、お前がボクサーとして復活して、“シュガー”の名前がこの日本まで伝わってくるのをな」


 そういうと、石切山先生はすっと振り返る。


「おうおっさん、もう行くのかよ。薄情な奴だな」


「お前みたいながさつなバカには、一生わからんだろうよ」


「殺すぞデブ!」


「ア、アニキ落ち着いて……」


 馬呉さんに押さえつけられる石神さんを尻目に


「またな」


 その一言だけを残して姿を消した。


「けっ、あのデブ、格好付けやがって。泣き顔見られるのが恥ずかしいだけのくせしてよ」


「ま、またアニキったらそういうことを……」


「けど、石神さんらしいじゃないっすか」


 美雄は、ポケットに手を突っ込んだまま言った。


「自分だって寂しいくせに、そういう強がりを口にするところとか」


「ほっとけ!」


 けど、それは石神さんだけじゃない。

 僕たちみんなの憧れの的だった拳聖さんがアメリカへ旅立ってしまう、口には出さないけれど、僕たちはみんな胸に寂しさを抱えていた。

 それに拳聖さんの手術は、それなりのリスクが伴う。

 手術の結果と術後の経過によっては完治せず、もう二度とリングに――って、わっ!?


「そんな顔するんじゃねえよ」


「い、石神さん……」


「拳聖さんよ、こんなところでいつまでもうじうじしてたって仕方がねえぜ」


 僕の頭をわしわしとなでたのは、石神さんだった。


「こういうしみったれた空気、やっぱ俺らにゃ似あわねえよ。だろ?」


 石神さんの言葉に、フッ、拳聖さんは穏やかに笑った。


「そうだな」


 そういうと、石神さんは右手を差し出した。


「行けよ、シュガー、“アスカール”。どこにいようが、あんたはずっとあんたのままだって信じてるぜ」


「お前もな、拳次郎、“エストマーゴ・デ・ピエドラ”。“アスタ・ラ・ヴィスタ”」


「へっ……たくよぉ……最後の最後までかっこつけすぎなんだよ……」


 ちょっとずつかすれていくその声をごまかすように、ふたりは男同士の抱擁を交わした。


「ううう……け……拳聖さん……うっ、うっ……」


「泣くな、馬呉」


 涙をぬぐう馬呉さんの右手を無理矢理奪い、そして励ますように左手を添えた。


「拳次郎の暴走を抑えるにはお前の力が必要だ。自信を持て。胸を張れ。まだまだ荒削りだが、だからこそお前はまだまだ強くなれる。“ザ・ブレード”、ミドル級代表、任せたぜ」


「ふぁ、ふぁいっ!」


「この一ヶ月間、俺にとっての宝物です。拳聖さん」


「悠瀬、お前の才能、まだまだ磨きだしたばかりだ。そのままにしてしまうのは心残りだが、空手をベースにボクシングの技術を接木していけば、お前はオンリーワンになれる。お前の成長を、楽しみにしてるよ」


「はい。それと……これ、邪魔にならなければ」


 美雄はポケットから何かを取り出すと、拳聖さんに差し出した。


「うちの姉貴が、拳聖さんの話を聞いたら、紹介しろ紹介しろってうるさくて。スタイリストやっててアメリカにはちょくちょく出張してますんで、もしよかったら連絡とってやってください」


「そうか。そいつは楽しみだ」


「ちょっと美雄! 何勝手なことしてんのよ!」


 あ、玲於奈……。


「お兄ちゃん……アメリカ行っても、金髪女なんかに引っかからないでね?」


 二人の間に割り込んだ玲於奈は、まるで恋人のように拳聖さんの首に腕を絡める。


「アフリカ系もヒスパニックもアジア系も……誰にも引っかかっちゃだめなんだから」


 切なく甘いささやきに、拳聖さんは苦笑する。


「玲於奈……もういい加減、俺から卒業しろよ」


「できるわけないじゃん……お兄ちゃんは……お兄ちゃんは――ボソッ「――お前にはほら……」――ふわっ、あんっ――」


 口づけをするかのように、拳聖さんは玲於奈の耳に何事かをささやく。

 すると玲於奈は、耳と首元を押さえ、顔を真っ赤にして拳聖さんから離れた。


「お兄ちゃんの……いじわるぅ……」


 な、なんだかちょっとドキドキしちゃった……。


「玲――」


 拳聖さんは、すっと僕の前に立った。


「なあ玲、ひとつ頼みがあるんだ」


「え? あ、はい」


「玲、俺の渡したあのメダル、今もまだ持っているか」


 メダル?

 メダルってあの、インターハイの――


「ええ。当然持ってます。ほら」


 どんなときも肌身離さずポケットに入れたメダルを、拳聖さんに見せる。

 すると拳聖さんは髪をかきあげ、一瞬の躊躇ののち口を開く。


「このメダル、俺にもらえないだろうか」


「えっ?」


「自分であげておいてこんなこと言うのは、ルール違反だってことはわかっている。だけどこれがあれば、俺は強くいられるような気がするんだ」


「拳聖さん……」


「正直、手術が上手く行くかいかないか、俺にはわからない。それにリングの上に立てるかどうかなんて……。正直、気持ちが折れてしまいそうだ。だけど――」


 そして、サングラスを下ろして僕を真っ直ぐに見つめた。


「――だけど、お前が大切にしてくれたこのメダル、これがあれば、俺も諦めずにいられるような気がするんだ」


 このメダルは、僕にとっての支えだ。

 このメダルが僕をここまで導いてくれた。


「だめかな」


 何があったって、このメダルは手放さないって決めたんだ。

 だけど――


「聞かないでくださいよ、そんなこと」


 これはもともと拳聖さんのもの、拳聖さんから預かっていただけのものなんだ。


「もともとこのメダルは拳聖さんのものなんですから」


 僕はもう、このメダルに頼ってばかりいちゃだめなんだ。

 だから今度は――


「きっとこのメダルは、拳聖さんの願いをかなえてくれます」


 僕はメダルのリボンを取ると、それを拳聖さんの首にかけた。


「大切にしてください」


「そうか」


 あっ……。


「ありがとうな」


 拳聖さんは、優しく僕を抱きしめ、そのシャープな頬を僕の頬に当てた。


ボソリ「代わりにこれ――」


 ?

 な、なにかを僕の胸ポケットに――

ボソリ「絶対役に立つからさ……玲於奈と仲良くな」


 ……。

 …………。

 ………………はっ?


「いやいやいやいや! え、えええええ?」


「ちょっとなによ。何顔真っ赤にしてそんなに慌ててんのよ」


 れ、玲於奈?


「い、いや……なんでもない……です……」


「おうおう、お熱いこって」

 石神さん……そんなにニヤニヤしないでくださいよ……は、恥ずかしいじゃないですか。


「それじゃあな、俺は行くよ」


 拳聖さんは、サムソナイトのキャリーケースに指を掛けた。


「“アディオス”」「お、お、お、お元気で!」「また」


「気をつけてね、お兄ちゃん」


 玲於奈は再び拳聖さんにハグすると、名残惜しそうに体を離した。


「ああ。お前もな。それと玲――」


 拳聖さんは、あのとびきり甘い笑顔を僕に向けてくれた。


「お前との出会い、神に感謝するよ」


「……僕こそ……僕こそ! あの日、拳聖さんに出会えたこと……本当に感謝しています! 


「お前に会えて、よかった」


「あの日の拳聖さんを……あの日の拳聖さんを、僕はずっと追い続けます! そして――」


 あの日、多くの人の祝福に囲まれながら僕の目の前から去ったあなたに、聞いて欲しい言葉があったんだ。


「僕は、あなたみたいなボクサーになります! そしていつか……僕も“シュガー”って呼ばれるくらいすごいボクサーになります!」


 拳聖さんは、人差し指でサングラスを押し上げた。


「なれるよ、絶対。お前なら」


 やっぱりその表情は確認できなかった。


「それじゃあな」


 春風のような暖かな余韻を残し、拳聖さんの姿はエスカレーターの奥へと消えて言った。


――


「さ、それじゃ、ターミナル展望デッキで、最後の見送りに行くわよっ」

 ぐじぐじと顔をこすった玲於奈は、明るい声で僕たちに命令する。


「そうだね。それじゃあ皆さん、いきま――「あっ、と。ごめん、俺らはパスするわ。ね、石神さん、馬呉さん」」


 ……。

 …………。

 ………………へっ?


「えええ? い、いや、でもみんなで――「――おお、そうだな。俺らはこれで失礼するわ」」


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何であんたたちはそんな薄じょ――「いやー、自分たちはお先にかえらさせてもらうっす」」


 石神さんは、美雄の方を叩いて肩を組んだ。


「なかなか粋じゃねえか? ん?」


「……別に……特に深い意味はないっすよ」


 腕組みをして、何かを探すように視線をそらす美雄。


「わかってるって。お前もなかなかの“マチョ”なんだな。見直したぜ。おっしゃ! せっかくここまで来たんだからよ、ナンパしようぜナンパ!」


「い、いいっすね。アニキとナンパなんて久しぶりっすね」


「いや俺は別に……ていうか、レイコちゃんはいいんすか?」


 余計なこと言わないでーっ!


「俺はラテン男だぜ? 捧げても捧げきれないほどの“アモール”にあふれてんだ。“ミ・ガータ”への愛は、しっかりと取ってあるぜ。それによ、お前がいれば、どんなタイプの女だって、落とせそうな気がするぜ。ぎゃははははは」


「……ったく、しょうがないっすね」


 美雄は苦笑し、髪をかきあげた。


「そんじゃな玲、玲於奈、また学校でな」


「それじゃあっす!」「“アディオス”、またな」


 ……三人とも……行っちゃった……。


「……」「……」


 な、なんか気まずいな……。


「えと……あの、玲於――「行くわよ」」


 あ、ちょ、え?

 明るく微笑んだ玲於奈が、僕の手をやさしくつかんだ。


「行くわよ、玲。ここはリングの上じゃないわ。あたし達が行かなかったら、お兄ちゃんたった一人になっちゃうじゃない。ね? だから見送るの。二人で」


「う、うん……」


「男ならうじうじしないの」


 柔らかく微笑む玲於奈の手は、僕を力強く引っ張った。


――


 夏の湿った風が僕たちに吹き付ける。


――ゴオオォォ――ォン――


 彼方に見える富士山が、突き抜けるような青空に美しい姿を見せる

 そして天に突き刺さるように、真っ直ぐのびた雲。

 その雲の先にわずかに見える飛行機は“シュガー”拳聖さんを乗せて福岡へと飛び立つ。

 拳聖さんは福岡からホノルルにトランジット、そしてネバダ州へ。


「普通に成田空港まで行けばいいのにね。お兄ちゃん」


「ははは、そうだね。けど、なんとなくわかる気がする。だって――」


 子どもの頃から見ていた、太陽の光を受けて輝く太平洋。

 美しい曲線を描き、白雪を頂く富士の峰。

 そして――


「玲於奈のいるこの静岡のすべてを、しっかり目に焼き付けながら飛び立ちたかったんだ」


「そっか」


 木製のベンチに玲於奈は座り、右手で太陽をさえぎりながら空を仰いだ。


「決まってるさ」


 僕もその横に腰を降ろした。

 すると、玲於奈は背中に背負ったリュックサックを下ろし


「はい」


 中からなにやら古びた冊子を取り出して僕に手渡した。


「これは……」


「前に言ってたでしょ? ジョー・フレージャーのこと、教えてあげるって。ボクシングの歴史の本よ。少しは勉強しなさい」


 ぱらぱらと冊子をめくると、玲於奈が付箋を張ったところに一人のアフリカ系ボクサーの姿があった。


「これが……ジョー・フレージャー……」


 がっしりとしたあご、盛り上がった筋肉、そしてその精神力をダイレクトに示す鋭い眼光。

 そっか、この人が“後退のネジをはずした男”か……。


「あのモハメド・アリとも戦ったことがあるような人なんだね」


「“グレイテスト”モハメド・アリに初めて土をつけて、そして最も苦しめた男よ」


 そっか、だから玲於奈は僕に「ジョー・フレージャーになれ!」なんて言ったんだね。

 へえー、それ以前にも、たくさんボクサーが……って――

 !?


「こ、この二人って?」


「ん? 誰か知ってるボクサーいるの?」


「え、ええ? い、いや、その……」


 ヘビー級ボクシングの歴史の最初を飾る、最初の世界チャンピオン、“ビッグ・ジョン”ジョン.L.サリバン――

 そのサリバンを破った、世界初のアウトボクサー、“戦う銀行員”ジェームズ.J.コーベット――

 Lさん……Jさん……。

 ……え?

 い、い、い、今写真の二人が、僕にウィンクを――


「? どうしたのよ、そんな昼間に幽霊に会ったみたいな顔しちゃって」


「ゆ、幽霊!?  い、いや、幽霊なんているわけないでしょっ!?」


 僕は慌てて冊子を閉じる。


「あ、あ、ありがとねっ! し、しっかり勉強するねっ!」


 まさか、ね……。

 けど、もしかして……。


“あなたは、すべてを失います。メダルも、ボクシングも。それはすなわち、あなたの人生の最も輝かしい時代を不本意なまま失うことを意味します”


 Lさん、Jさん。

 僕は、天使の課した“試練”に打ち勝つことができたんでしょうか。

 拳聖さんはもしかしたら二度とリングに上がれないかもしれない。

 僕だってとても“シュガー”なんていえるボクサーになってはいないから、僕はボクサーとして何の芽も出ないまま、不本意な三年間を過ごすことになるのかもしれない。

 何よりも肝心のメダルは、僕の手元から完全に消え去ってしまったんだ。

 けど、少なくともボクシング部は復活した。

 だから、これからも死ぬ気で努力をし続ければ、万が一の確立でも僕は拳聖さんのようなボクサーになれるのかもしれない。

 きっと、まだまだ“試練”は続くんだ。

 答えなんか、まだ出ていないんだ。

 そうですよね、Lさん、Jさん。


「ねえ玲於奈――」


「ん、なに?」


 僕がベンチを立つと、つられたように玲於奈も立った。


「お願いがあるんだ」


 僕たちを導いてくれたメダルは、元の場所に、あるべきところに帰って行った。

 僕の手元から消え去ったメダル、今度は僕が、僕自身の力で――


「僕を、インターハイに連れてってよ」


「……本当にあんたはいつまでたっても女々しいんだから……」


「え? ってあいたっ!」


 な、なんで殴るのさっ!


「あんたバカなの? そういう時は“玲於奈をインターハイに連れて行くよ”って言うもんでしょ!?」


 あ……。


「ご、ごめん……」


「……ったく……そんなんだからあんたはいつまでたってもよわっちいまんまなのよ……」


 ははは……何も言い返せないや。

 けどね――


「けど、今の僕にとっての、まじりっけのない本心なんだ」


 僕は、真っ直ぐに玲於奈の目を見る。

 玲於奈も、僕の視線を正面から受け止める。


「……そういうの、対抗戦勝ったら、って約束じゃなかったっけ」


「あはっ、そうだね。確かにこれはルール違反なのかもしれないね」


 けど――


「けど僕は、まだ完全には負けてない。次は絶対に勝つから。だから……だから今は誰よりもずるい僕になる。だめかな?」


「ずるいけど――」


 玲於奈は、ふるふると首を振る。


「――だめじゃないよ」


「ありがとう」


「……ふ、あっ……」


 僕は、拳聖さんがやったみたいに、玲於奈の髪の毛に指を絡ませた。


「……あたし、すっごいわがままだよ?」


「知ってる」


「たぶん世界で一番かわいい一五歳だから、嫉妬されるよ?」


「覚悟はできてる」


「……胸は……大器晩成型よ?」


 ……たぶん、晩成すらしないと思うけど――


「かまわない」


「……美人だけど意地っ張りで乱暴で、家事とかそういう女の子らしいスキル一切なくて、実は結構嫉妬深いから、すごく苦労するよ?」


「玲於奈の“試練”になら、死ぬ気にだってなれるから」


「……それに……あたしのこころの中にはまだお兄ちゃんがいるよ?」


 玲於奈はうつむき、僕のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。


「それでもいいの? 勝てる自信、ある?」


「大丈夫」


 だって――


「僕だって、拳聖さんが大好きだから。だから、心の中の拳聖さんごと、僕がもらうもん」


「……バカみたいなこといわないの」


 ちょっと、っていうか、たまに手が付けられないくらいに強暴だけど、君はいつも、僕に“試練”を与えて導いてくれる。

 あの日僕のもとに、空から舞い降りた君は――


「――君は僕の“天使”なんだ」


 メダルは消えて、僕の手にはもう二度と戻ってこないのかもしれない。

 拳聖さんも、リングの上から永久に去ってしまうのかもしれない。

 僕は、“シュガー”にはなれないのかもしれない。

 けど、僕には――


「――僕には、君がいる」


 拳聖さんが、君を僕に残してくれたから。

 君が僕のそばにいてくれれば――


「――僕の心の中にいてくれれば、僕は強くなれるんだ」


「……玲……」


 玲於奈は、僕の胸元に顔をうずめた。


「玲於奈……僕は君が――」


 ツン

 ?

 ん?


「? 何か胸ポケットに入ってるよ?」


 胸ポケット?

 あ、そういえばさっき――


「さっきね、メダルの変わりに拳聖さんが何か入れて――」


 ガサゴソ


「お兄ちゃんが?」


「うん。玲於奈と仲良くしろって、絶対役に立つからって……」


「……」


 ……。

 ………なにこれ?

 …………確かこれ、前も拳聖さんが――


「最ッ低!」


 ゴキッ

 あだっ!?


「な、何するんだよ! 何でいきなり――」


「あ、あ、あんたたち何考えてんの? ちょっと格好いいところ見せたからって、何でいきなり、そ、そ、そ、そんなもん取り出して平然としてられるの? い、い、い、いくらなんでも、じゅ、順序ってもんがあるでしょ?」


 “そんなもん”?


「そ、そ、そっちこそいきなりなんだよ!?  なんでいきなり“右ストレート”なのさ!? 」


ゴショゴショ「ま、まあ、あんたが使ってみたいっていうんなら、つ、ツカワセテアゲテモ……」


 何で顔を赤くしてもじもじしてんの?


「な、な だいたいそれ、一体なんなんだよっ!?  何でそれを見せただけで玲於奈は怒り狂うのさっ!?」


「は、はあ? あ、あんたマジの本気でそれ言ってんの? あんただって学校で習ったでしょ?」


「な、ならったって何をさ!?  だったらさっさと教えてよ!」


「そ、それは……コ、コ、コン、コンド……って言わせるんじゃないわよこのバカぁあああああっ! 変態! スケベ! 種馬! あんたのガキさ加減には怒りを通り越して哀れみすら感じるレベルよ!」


「ガ、ガキ!?  へ、部屋に帰ってきてもあんな短いスカートでパンツちらちら見せながら気にしない玲於奈に言われたくな――」


 あ、やば――


「はあああああ!?  あんた、もしかしてあたしのパンツ見て一人でやらしいことしてたんじゃないでしょうね?」


 や、やらしいことって何さ!?


「……ま、まさかあんた、最初からあたしの体目当てで……」


「ふ、不可抗力だよっ! そんなものに興味はないしっ!」


「“そんなもの”!? この世界一の美少女の体を“そんなもの”!? 結局あんたも女を胸でしか判断できないくだらない男だったってわけ!?」


「そ、そういう意味で言ったんじゃないよっ!」


「ああっ! そういえばあんた、初めてあたしにあったときあたしのパンツの中に顔をうずめてたじゃないっ! やっぱりあんたってむっつりスケベの変態よっ!」


「そ、それだって不可抗力じゃないかっ! 勝手に君が空から降ってきたのに、僕が巻き込まれただけなんだよっ!?」


「何いってんの? あんたあたしを“天使”って言ったじゃない! 天使は空から降ってくるものなのよっ!」


 ……ああいえばこういう……ほんとにもうっ!


「ああもうっ! 何で僕は君みたいな子を好きになっちゃったんだよっ!」


「は、はにゃっ? な、何?」


 周りの人たちがいっせいに注目してるけど!


「ああそうだよっ! 悪い!?」


「わ、悪くはないけど! こ、こんな公衆の面前で……」


 みんな笑いながら、なんかほほえましい感じで見てるけどっ!


「君のことが……こころのそこから、いっつもはなれなくなっちゃうくらい、自分でもあきれるくらい大好きだよっ!」


 気持ちはもう止められないんだっ!


「だから玲於奈! どこにも行くなっ! 乱暴でわがままで意地っ張りな君のこと丸ごと受け入れるから! だからいつまでも僕のそばにいろ!」


「あ、あ、あんたって奴は……」


 顔を真っ赤にして、小刻みに体を震わせる玲於奈。


「あんたって奴はぁあああああっ!」


「ぐえっ……」


 玲於奈は僕の胸倉を強引に掴み上げる。

 また殴られる?

 右ストレート!?


「本当にガキなんだからあっ!」


 ほろ“苦い”結果で始まった、僕のボクサー人生だけど――


「目ェつぶりなさいっ!」


 僕の唇に、そして舌に、今まで経験した事のないような、暖かく柔らかい感触――


「――ふわっ……」


 “天使の右ストレート”は、とびきり“甘い”キスに姿をかえました。

 ちょっと不安な僕と玲於奈のこれからを祝福するような、甘い甘いキスでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ