第32話 懐かしい子芋の煮っころがし
七月のはじめ、山下繊工の人たちと、再会することになった。
あの日以来、二度と来ることはないと思っていた灰色の平屋の工場の中にある、下町に溶け込んだ江戸川沿いに立つ三階建てのレトロなレンガ造りの小さなビル。古色雑然といった懐かしい雰囲気の社長室も、チクチクする茶色のソファも、窓から見える河原の景色も、時がとまったように変わらない。
気ずつない雰囲気は避けたかったが、お互い固くなるのは仕方がない。
山下社長は、髪が薄くなっていたが、思ったよりも元気そうだった。早期発見だったため、左手の握力低下もなく、ほとんど後遺症は残っていないと言う。
洋さんは、少し痩せて、髪の毛もずいぶんと白くなっており苦労の跡が見える。
少し遅れて、お母さんも二人の孫を双子用のベビーカーにのせて姿を見せた。
右の男の子が『仁くん』、左の女の子が『円ちゃん』というらしい。それと、僕が好きだった子芋(里芋)の煮っころがしを作ってきてくれた。
その場で開けて、手でつまんで口に入れる。「お母さん、とっても美味しい、懐かしいです」と言うと、「ハルちゃん、来てくれてありがとう」と抱きついて声をあげて泣かれた。「こちらこそ、ちょっと心配しましたが、お元気そうでなによりです」と、細身の社長とは対象的なぽっちゃりとしてる背中をなでた。社長とタケの鼻がグスリとなった。
現状についての確認は、タケがしてくれた。
現状の厳しさ、対応の難しさについては、十分にわかっている。僕がきたからといってどうにかなるものではなく、楽観的な言葉をかけるつもりもない。年が明ければには必ず何らかの動きを見せてくる。それまでに何らかの手を打たなければならないが、どのような手があるのか、まだその手探りもできていない。
僕がとりあえず提案したのは二つのこと。
ひとつは、研究開発のスピードを上げること。
この会社の強みは、独創的なアイデアと高い技術を基礎とした開発力である。それしかないといっても良い。経営のゴタゴタに足を引っ張られてその力が落ちるようでは、どのみち未来はない。株価の監視やその対策については洋さんとタケに任せて、社長と美穂子と雅弘さん(美穂子の夫)には、研究開発を最優先してほしいと伝えた。さすがに、人妻を呼び捨てにするわけにはいかず、かといって専務と呼ぶのも、新しい苗字で呼ぶのも白々しいので、最初の頃のように「美穂ちゃん」と呼んだ。美穂ちゃんからは、従来の商品のバージョンアップとして、添加する機能剤に、これまでとは違う視点からのアプローチを行っており、それができれば、従来の商品以上の軽量化と更なる耐熱性が図れるという話があった。
大蛇ににらまれたカエルのような状況には変わりはなく、現時点で現状を転換させる戦略があるわけではない。ただ相手が大きく動く前に、新商品が開発できれば何かしらの突破口になる可能性はある。
もう一つは、情報管理の徹底。
相手が一番欲しいのは、現在の経営陣が何を考えているのか、いま何を研究しているのか、その進捗状況はどうかというコアな内部の情報だ。
彼らの情報網、スパイ活動は様々なところに及んでいる。インサイダーや虚偽情報の流布など日常茶飯事であり、証拠に残らなければ何をしても良いという、権謀術策が入り乱れるルール無用の世界。株式を上場するというのはそういうことだ。この中にいるメンバー以外は誰も信用できない。取引先だけでなく、銀行や証券会社などの金融機関と話をするときにも、その内容には十分に留意し、外部への情報発信は、すべて副社長の洋さんを経由させることを確認した。
「厳しい状況ですが、相手がどうこうというよりも、できることをしっかりとやりましょう。そうすればどこかできっとチャンスはあるはずです」
そう言ったところで、緊張した雰囲気を和らげるように、二時間ほどの会議中にスヤスヤと眠っていた二人の赤ん坊が起きて泣きだした。その一人を抱え上げ、あやしながら、「初めまして。まどかちゃんは、ママに似てなかなかべっぴんさんやなぁ」と言うと、驚いたように凝視し、それからまた大きな泣き声を上げた。
ちらりと目を合わせた美穂子は、僕と付き合っていた頃よりも、ずっと大人に、綺麗になっていた。手慣れた様子で赤ん坊を僕から受け取る姿に少し胸が痛んだ。
帰りの新幹線の中で、缶ビールを二本買って土産の子芋を食べた。
京都の薄味ではなく、お砂糖とお醤油と味醂で煮込んだ関東の濃い味が懐かしい。
「子芋の煮っころがし…、面白いネーミングだな」
そうつぶやいて一つ息を吐くと、張っていた気が緩んで窓の外の景色が滲んでぼやけた。




