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ハルの仕事と結婚  作者: singlemalt
五 月  ~皐 月~
21/32

第21条 祖父の大往生と母との突然の別れ

 東京での生活は一五年に及んだ。

 京都に戻ってきたとき、母は六三歳、祖父は八八歳で米寿を迎えていた。

 京都に帰ってきた理由について、色々と話は聞いていただろうが、祖父にとって理由はどうでもいいようで、僕のことを知らない人にまで「ハルが帰ってきた」と言いまわり、周囲を困らせていた。

 養子である兄やよくできた兄嫁、かわいい三人の孫(実質的にはひ孫)に囲まれ、九〇歳という長寿を保ち、僕が帰って二年後に身罷った。

 寝付くようになったのは最後の一ヶ月くらいで、それまでは僕を引き連れ祇園町によく出かけた。僕が一緒だと安心するのか、すぐに酔っぱらってうとうとしだすため、祖父のことを若い頃からよく知るお茶屋のおかみや、大昔の訳ありのクラブの大御所ママには、「ハルちゃんも、老人介護が大変やね」と笑われていた。

 入院もせず、家族だけでなく従業員のみなさんにも看取られながらの、まさに畳の上での大往生だった。桜の下で、前年に生まれた真琴を抱いたときの、嬉しそうに微笑む写真が遺影となった。

 医師による死亡確認が終わった後、従業員の皆さんのすすり泣く声の中、僕は、「じいちゃん、長いことお疲れさん、おおきに」と言い、兄は、「おじいさん、おとうさん、ありがとうございました」と頭を下げて、ポロリと涙を流した。

 兄が養子になると告げた時から、二二年の歳月が経っていた。


 母が亡くなったのは、祖父の一周忌が終わり、三週間ほどしか経っていない、春から初夏に向かう日のことだった。

 その日は、何かいつもと違う、ひんやりとした静寂の中で目が覚めた。

 時計の音も聞こえず、部屋の中の時間が止まってしまったような気がした。

 身体を横たえたまま、ふと隣を見ると、母はまだ、眠っていた。

 そして、そのまま目覚めることはなかった。異変気づいて、飛び起きたが、西陣小町と呼ばれたきれいで穏やかな母の顔は、そのまま冷たくなっていた。布団を上げて背中に手を入れると、身体の深部にはまだ微かな温もりが残っていたが、もう戻ってこないことは明らかだった。

 「母さん。やっと父さんのところに、行けたんやな」

 髪の毛をなでて、冷たくなった頬を合わせ、最愛の母の顔をずっと見ていた。

 どれくらいそうしていただろう。いまでも、その時の時間の感覚がない。気が付くと、顔と寝間着の襟が濡れていた。それから「こういう時は一一九番、一一〇番のどちらだろう」と迷ったが、とりあえず一一九番にした。そして一つ深呼吸をして兄に連絡をした。

 救急車が近づいてくる音を、母の髪を指で梳きながら他人事のように聞いていた。


 救急隊員は、丁寧にかつ申し訳なさそうに、「すでにお亡くなりになっているので、病院には搬送できません」と言った。最愛の母とはいえ、すでに蘇生を願うような状態でないことは、素人でもわかる。「警察にも連絡した方が良いのでしょうか」と問うと、その答えを聞く前に警察官が一〇人くらいやってきた。

 このように自宅で突然亡くなった場合は、死亡原因がわかるまで「不審死」として取り扱われるため、救急隊から直接警察に連絡がいくらしい。冷蔵庫の中を調べたり、外部からの侵入がないか、直前に何を食べたか、何時頃に寝たか、いつまで生存を確認していたのか、昨日の夜の様子はどうだったか等について、細かく聞かれた。鑑識の人も入り、テレビドラマの殺人現場のようだと言えば少し大げさだが、それに近いものとなった。

 今の法律では警察病院に運んで検視ということになるという。家族からすれば「なんなんだ…」と思わないでもないけれど、決まりなのであれば現場の警官に文句を言っても仕方ない。


 携帯を鳴らしたとき、兄は神戸にいた。兄嫁である久美ちゃんが、とるものもとりあえず駆けつけたのは、警察の検証が始まったころだった。義姉は、僕より二つ年下の、老舗和菓子屋さんの長女で、形式的にはお見合い結婚だが、祖父と和菓子屋の先代とは仲が良く、お互いに小さい頃から良く知っている許嫁に近い間柄だ。大学でデザインを学んでいたため、色彩感覚が素晴らしく、どちらがボケかツッコミか、本当の母娘のようにコンビネーションもよかった。

 突然、こんなことになって、一番ショックを受けたのは彼女だろう。

 いつもたおやかで、チャーミングで楚々として非の打ちどころのない人が、化粧もせず、スカートの裾も髪の毛の乱れも気にせずに、「お義母さん、お義母さん」と、取りすがって泣いているのを見て、不謹慎にもどこか色っぽいものだなと思った。

 警察の検証作業は、一時間くらいだっただろうか。

 最初は、警察病院に搬送する必要があると言われていたが、三軒隣の我が家の四〇年来のかかりつけ医が顔を出してくれ、母はずっと心臓が悪かったこと、先日も診察したことなどを説明し、死亡届は自分が責任をもって出すと言ってくれたので検視搬送とならずに済んだ。母の身体に触られたくなかったし、本当にありがたかった。

 サイレンの音を聞きつけて近所の人たちも、何事かと集まってくれていたため、僕の方から事情を説明した。警察が帰った後、たくさんの人がお悔みに来てくれた。「久美ちゃん、悲しいのは後にして、こういう時こそ、しっかりやろう」と声をかけ、二人で座布団やお茶を出したり、故人がお世話になったお礼を言って回った。

 兄と子供たちが来たのは、お昼くらいになった。義姉は、鼻をすすりながらも気丈に振る舞っていたが、兄の顔をみて子供のように抱きつき、もう一度泣き崩れた。


 何となく、こうなることはわかっていた。というか、どこかで覚悟していた。

 六〇歳になった時、母は会社の取締役をはじめ、着付け教室の代表など、表立ったことはすべて久美ちゃんに譲っていた。それ以前から、奥向きのことも、少しずつ次の世代に移すための準備をしていたという。

 僕が東京から帰ってきたときも、祖父同様に、退職や破談の事情など聞く気もないようで、四十路を歩きはじめてからも、毎日たいした仕事もせず、ふらふらしている息子を、嬉しそうに踊りや芝居に連れ出した。

 祖父が亡くなった時、周囲は母のことを心配したが、僕の目からみれば、どことなく、ほっとしたような顔をしていたのが印象的だった。

 そう言えば、一〇日ほど前だったか、また「ハル、そっちの布団に入れてもうてエエ?」と添い寝をせがみ、布団に入ってきた。「母さん、二〇年前よりもちょっと痩せたなぁ」と肩を抱き寄せると、「おばあさんでかんにんね」と言って笑った。そうして、僕のものをキュッと握った。

 いつまでも、どこまでも、最後まで可愛い人だった。母はずっと父に会いたかったのだろう。父との人生が母のすべてであり、父がいなくなった以降のことは後日談でしかない。生家や子供のためというのではなく、父にもう一度会った時に褒めてもらえるよう、生きてきたのではないかと思う。


 仏壇の前で眠ってしまったようで、時計を見ると、夜の二時を超えていた。

 写真の中で寄り添う父と母は、優しい顔で僕を見ていた。

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