エンジン音
これはT県に住むYさんの体験談だ。
1960年代にYさんは当時婚約していたMさんと海水浴に行った。
2人が泳いでいたのは海水浴場の中心から離れた場所で人気は少ない。
海岸沿いを走る線路脇には数軒の民家があるが、松の防風林で砂浜から隔てられていた。
見れば防風林の脇にある道路付近には海水浴をするでもなく、ただ海を眺めているだけの男達が6人いた。
奇妙なことに彼らは揃って、白い半袖のシャツだった。
近くに泊まっている何らかの団体が夕涼みにきているのかと思い、特に注目はせずに通り過ぎた。
しばらく海で遊んだ午後6時過ぎに、自分の車に近づいたときである。
先程の男の内の1人が話しかけてきた。
「サイフ……オトシた、テつダって」
たどたどしい、日本語だった。
男はそう言って、海岸を指さした。
おそらくは財布を海岸で落としたのであろう。
探すのに力を貸してほしいと思われる。
Yさんは首を振った。
「いや、忙しいので」
そう答えて車の方へ向き直った、その瞬間だった。
男が急に、距離を詰めた。
さらに左右の松林から、別の男たちがゆっくりと姿を現す。
さっき道路脇にいた、残りの半袖シャツの連中だった。
半円を描くように、2人を囲もうとしていた。
Yさんはその時になって、
(まずい)
と感じたという。
YさんはMさんの腕を勢いよく掴み、そのまま車へ押し込んだ。
ドアを閉める音と同時に、林から出てきた男たちが一斉に走り出す。
さっきまでのゆっくりした歩き方が嘘のようだった。
1人は運転席へ。
1人は助手席へ。
残りは車の後ろへ回り込む。
Yさんはキーを回した。
男の1人がドアノブへ手を掛けそうになる。
もう少しで開く。
その時、エンジンが掛かった。
車は発進した。
バックミラーを見ると、男たちの姿はどこにもなかった。
Yさんはその後、警察へ相談した。
「何かのいたずらじゃないのか」
そう言われただけで終わったという。
事件にもならなかった。
それから何年か経った頃。
日本海側で、海岸から人が姿を消す事件が相次ぎ、ニュースでは『北朝鮮による拉致の可能性』という言葉がようやく聞かれるようになった。
その報道を見るたび、Yさんは背筋が寒くなったという。
「今でも車のエンジンを掛けるたびに、あの日のことを思い出す。1秒遅れていたらと思うと……」




