第15話「お母様のことを、よくご存知ですよ」
式典当日の朝は、晴れていた。
王都の空が、久しぶりに青かった。
リシェルは宿の鏡の前に立っていた。
今日のために、マーゴが用意してくれたドレスを着ている。
辺境の城で選んだものだ。
深い緑色の、シンプルなデザイン。
華美ではないが、上質な生地で、きちんとした場に相応しい。
「……似合っているかな」
自分では判断できなかった。
扉がノックされた。
「準備はできたか」
ディルヴァルトの声だった。
「はい、今開けます」
扉を開けると、男が廊下に立っていた。
漆黒の礼装。
銀の刺繍が入った、格式ある装い。
普段とは違う、公式の場のための衣装だ。
リシェルは思わず見惚れた。
普段でも規格外の見た目なのに。
今日は別格だった。
「……何か問題か」
「いいえ。お似合いです」
「お前こそ」
「え?」
「似合っている」
さらりと言った。
リシェルの頬が、熱くなった。
「……ありがとうございます」
「行くぞ」
「はい」
◆
王城の大広間は、すでに人で溢れていた。
王国中の魔術師と、貴族たちが集まっている。
リシェルとディルヴァルトが入場すると、人々の視線が集まった。
辺境公爵が来ることは珍しい。
三年ぶりだという人もいた。
それに加えて。
(隣に、知らない女性がいる)
そういう視線だった。
リシェルは前を向いて歩いた。
見られることには慣れていない。
でも、ここで萎縮してどうする。
「背筋を伸ばせ」
ディルヴァルトが、小声で言った。
「伸ばしてます」
「もっとだ。お前はここにいる誰にも引けを取らない」
「……そんなことは」
「事実だ」
それだけで、少し力が入った。
この人の「事実だ」は、不思議なほど効く。
広間の中央に進むにつれて、グレインが近づいてきた。
「おはようございます。昨夜、アンセル卿が呪術庫に入った報告があります」
「何かされましたか」
「ルーカス師の監視員が同行していましたが、表立った異常は確認できなかったとのことです。ただ……確認員の一人が、途中から記憶が曖昧になっていると」
「術式を使ったんですね」
「おそらく。何かを仕込んだ可能性があります」
リシェルは胸の護符を確かめた。
「呪術庫の強化術式は、昨日わたしが入れた状態のままですか?」
「確認したところ、異常は見当たらないとのことでした」
「なら今のところは大丈夫です。でも式典の儀式が始まれば、別の手を打ってくるはずです」
「ルーカス師が、儀式中の魔力の流れを監視しています」
「それは心強い。ありがとうございます、グレインさん」
グレインが頷いて、人込みに戻っていった。
◆
式典が始まるまでの時間、リシェルとディルヴァルトは広間の端に立っていた。
次々と、貴族や魔術師たちが挨拶に来る。
ディルヴァルトは最低限の言葉で応対する。
リシェルは笑顔で、できる限り丁寧に返した。
「公爵夫人は初めてお会いしますね」
「修復士とお聞きしていましたが、そんな腕前があるとは」
「辺境の結界が復活したと、領主の間で話題ですよ」
色々な言葉が飛んでくる。
辺境の噂が、こんなところまで届いていたとは。
「……思ったより知られていますね」
隣でリシェルが呟くと。
「俺が広めた」
「え?」
「辺境の修復状況を、定期的に王都の伝手に知らせた。お前の仕事の成果を含めて」
「それは……また事前に言ってほしかったですが」
「すまない」
「驚くので」
「今後は言う」
「お願いします」
リシェルが苦笑していると。
「これは、辺境の公爵閣下」
低い、落ち着いた声が聞こえた。
リシェルの体が、反射的に緊張した。
振り返ると、一人の男が立っていた。
五十代くらい。
上質な黒の衣装。
整えられた白髪。
にこやかに笑っているが、その目が笑っていない。
(この人が)
すぐにわかった。
アンセル卿だ。
◆
「久しぶりですな、閣下。式典にいらっしゃるとは思いませんでした」
アンセルが、ディルヴァルトに向かって言った。
ディルヴァルトは無言で、アンセルを見ていた。
「お連れの方は?」
アンセルの視線が、リシェルに向いた。
「ディルヴァルト公爵夫人とは、ご挨拶が遅れましたね」
笑顔のままだ。
でも、その目が、リシェルを品定めするように見ている。
「リシェル・フォーン……いや、今は公爵夫人か。追放された修復士が、まさかこんなところでお目にかかるとは」
「ご挨拶が遅れました。リシェル・ディルヴァルトと申します」
リシェルは落ち着いて、礼をした。
「初めまして、アンセル卿」
「初めまして、とはまたつれないことを。あなたのことは以前から知っていますよ」
「存じています」
「ほう?」
「わたしを追放させた方ですから」
広間の人々が、少しざわめいた。
アンセルの笑顔が、かすかに固まった。
「それは……工房の問題では?」
「工房長に圧力をかけたのは、あなたですよね」
「何のことやら」
「師団の調査で、記録が出ています。工房への資金提供と、追放の指示。証拠は揃っています」
アンセルが、リシェルを見た。
その目から、笑いが消えた。
「……度胸のある奥方ですな」
「事実を言っているだけです」
「事実? それはどちら側の事実か、によりますな」
「そうですね。ですから、師団の調査結果を待ちましょう」
アンセルが、ゆっくりとリシェルを見た。
「ところで、奥方」
「何でしょう」
「あなたのお母様のことを、よくご存知ですよ」
◆
リシェルの体が、一瞬固まった。
でも、表情には出さなかった。
「そうですか」
「ご存知でしたか。二十五年前、王家の修復士として働いていた女性。非常に優秀な方でしたな」
「ありがとうございます」
「惜しいことをしました。早くに亡くなられて」
「……病死ですよね、公式には」
アンセルの目が、細くなった。
「公式には、ね」
「それ以外の何かを、ご存知なんですか」
「さあ。ただ、あの方が呪術庫で発見したものを、ご存知でしたか?」
「知りません」
「本当に?」
「本当に。教えていただけますか」
リシェルは表情を変えずに言った。
アンセルが、少しの間リシェルを見た。
「……なかなか胆力のある」
「お母さんのことを何か知っているなら、教えてほしいです。それだけです」
「式典の後で、お話しする機会があれば」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
アンセルが、ディルヴァルトに視線を移した。
「閣下、今日はお体の具合はよろしいですか。呪いの進行が心配で」
「問題ない」
「そうですか。いやはや、あの呪いはお辛いでしょう。感情が薄れていくとは、なんと残酷な」
「どうでもいい話だ」
「どうでもよくはないでしょう。あ、そうだ」
アンセルが、何かを思い出したように言った。
「今日の儀式では、皆さんに魔力を供給していただきますが……閣下のような強大な魔力をお持ちの方が参加されると、流れが変わることがありますな」
「それが何か」
「いえ、ただの雑談ですよ」
アンセルが笑った。
「では、また後ほど。奥方、今日はごゆっくり」
男が人込みの中に消えていった。
◆
「……やはり、油断できない相手ですね」
リシェルが小声で言った。
「ああ」
「儀式中の魔力の流れ、という話が引っかかります」
「俺もそこが気になった」
「ディルヴァルトの魔力を狙う気ですよね。儀式の場で強制的に引き出して、呪いを暴走させる」
「あるいは、お前を狙う可能性もある」
「わたしを?」
「お前の術式が、封印の強化に使えると知っているなら、逆に利用しようとするかもしれない」
「利用、とは」
「術式を乗っ取る。強化した術式を、解除に転換させる」
リシェルは息を吸った。
「それは……できますか、そんなことが」
「通常はできない。ただ、アンセルが昨夜呪術庫で何かを仕込んだとすれば」
「可能性はある、ということですね」
「ああ」
「対処はできますか」
「一つある」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「儀式中、お前の術式を俺の封印術式で覆う。外からの干渉を防ぐ」
「でも、それはディルヴァルトに負担が」
「問題ない」
「無理をしないと言いましたよね?」
「これは無理ではない。俺の得意分野だ」
「……それを言われると、反論しにくいんですが」
「そうしてくれ」
リシェルは少し考えた。
「わかりました。でも、異常を感じたら、すぐに言ってください」
「ああ」
「本当に?」
「言う」
「信じますよ」
「……俺は嘘をつかないと言った」
「そうでしたね」
その時、広間に声が響いた。
「皆様、式典を始めます。中央へお集まりください」
◆
式典の儀式は、王国の魔術師たちが円形に並び、中央に魔力を注いで国土の守りを更新するものだった。
毎年行われる、重要な儀式だ。
リシェルはディルヴァルトの隣に立ち、広間の様子を観察した。
円形の外側。
貴族たちが見守る中、魔術師たちが内側に並んでいく。
アンセルは円の中に、三人の仲間と共に入っていた。
その配置が、気になった。
(三人が、等間隔に散らばっている)
偶然には見えなかった。
グレインが、リシェルの隣にさりげなく近づいた。
「アンセル卿の仲間の配置、確認しました」
「三人の位置、儀式の魔力の流れに影響する位置ですよね」
「その通りです。ルーカス師も気づいています。ただ、配置自体は禁止できません」
「儀式が始まってから、仕込んだ術式を起動させる気ですね」
「おそらく」
「いつ起動するか、わかりますか」
「儀式の中盤、魔力の流れが最大になったとき、が一番効果的だと思われます」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます」
グレインが頷いて、離れた。
リシェルはディルヴァルトに目を向けた。
男は前を見ていた。
「聞こえましたか?」
「ああ」
「儀式の中盤、ですね」
「準備はいい」
「はい」
儀式が始まった。
◆
王国の首席魔術師が中央に立ち、詠唱を始めた。
魔術師たちが魔力を注いでいく。
空気が変わった。
濃密な魔力が、広間を満たしていく。
リシェルは円の外側に立ちながら、魔力の流れを読んでいた。
どこに異常が起きるか。
どのタイミングで仕込んだ術式が動くか。
五分が経った。
十分が経った。
儀式は順調に進んでいるように見えた。
リシェルは緊張しながら、観察を続けた。
十五分が経ったとき。
ディルヴァルトが、かすかに動いた。
「来る」
低い声が、リシェルの耳に届いた。
次の瞬間。
広間の魔力の流れが、歪んだ。
◆
わずかな変化だった。
一般の人間には気づかないような、細かい歪み。
でも、リシェルには見えた。
アンセルの仲間の三人が、それぞれの位置から、特定の術式を起動させていた。
三点が繋がることで、三角形の術式場が形成される。
その中心に、ディルヴァルトがいる。
(狙いはやっぱりディルヴァルト)
リシェルは即座に動いた。
「ディルヴァルト、今です」
「ああ」
ディルヴァルトが封印術式を展開した。
リシェルを中心に、薄い光の膜が広がった。
同時に、リシェルは呪術庫で強化した封印の術式に意識を向けた。
遠く離れた呪術庫。
でも、術式が繋がっている。
昨日、ディルヴァルトと一緒に強化した封印が、リシェルの術式と共鳴している。
(昨日やっておいてよかった)
リシェルは術式の干渉を察知した。
アンセル側の術式が、ディルヴァルトの魔力を引き出そうとしている。
同時に、リシェルの術式にも干渉しようとしている。
だが。
「させません」
リシェルは術式を広げた。
修復士の技術。
歪みを読んで、構造を整える。
アンセル側の術式が作り出した歪みを、一つずつ読んでいく。
押し返すのではなく、解く。
構造の根本から、崩していく。
三点の術式が三角形を形成しようとしている。
でも、三点を繋ぐ線の一本を、こちら側で断ち切れれば。
「グレインさん!」
リシェルが声を上げた。
グレインが即座に反応した。
「北東の魔術師の足元、術式が仕込まれています。今すぐ遮断してください」
「わかりました!」
グレインが動いた。
同時に、広間の別の場所からもルーカスが動いていた。
ルーカスが南西の魔術師の術式を封じた。
三角形の二点が崩れた。
残り一点。
アンセル卿本人だ。
アンセルが、リシェルを見た。
その目に、初めて焦りが見えた。
リシェルはアンセルを見返した。
「術式の構造、読みました。五年前に使ったものと同じですね」
アンセルの目が、鋭くなった。
「五年前に、タイスを使ってこの封印を一部損壊させた。その術式の続きを、今日やるつもりだった」
「……何を知っている」
「タイスが話してくれました。それと、お母さんが呪術庫に残したものから、あとは繋がりました」
広間がざわめいていた。
儀式の進行が止まっていた。
「アンセル卿」
別の方向から、落ち着いた声が響いた。
第二王子が、貴族たちの輪の外から進み出てきた。
「式典の場で、不正な術式を使用したことは確認しました。師団の記録と照合します」
「殿下、これは誤解で」
「誤解かどうかは、調査が明らかにします」
第二王子が、ルーカスに目配せした。
「ルーカス師、お願いします」
「はい」
ルーカスが、アンセル卿の周囲に封印術式を展開した。
アンセルが動きを封じられた。
広間が静まり返った。
◆
式典は、中断された。
混乱の中、ディルヴァルトがリシェルの隣に立った。
「大丈夫か」
「はい。ディルヴァルトは?」
「問題ない。術式の暴走は起きなかった」
「よかった」
リシェルは深く息を吐いた。
「お前のおかげだ」
「二人でやりました」
「そうだな」
第二王子が近づいてきた。
二十代後半の、知性的な顔をした男性だ。
「リシェル・ディルヴァルト夫人、ご活躍を拝見しました」
「恐縮です、殿下」
「ディルヴァルト公爵、久しぶりだ。元気そうで安心した」
「殿下のおかげで、動きやすかった」
「礼は不要だよ。君には昔、助けてもらったからね」
第二王子が、リシェルを見た。
「あなたのお母様について、話す時間をとりたい。今日はまず、混乱の収束が先だが」
「はい、ありがとうございます」
「彼女は……本当に優秀な修復士だった。あなたも同じだと、今日よくわかった」
リシェルは目を瞬いた。
「殿下は、母をご存知だったんですか?」
「幼いころに、何度か会ったことがある。詳しくは後で」
第二王子が広間に戻っていった。
リシェルは、その背中を見送った。
お母さんを知っている人が、いた。
「リシェル」
ディルヴァルトが呼んだ。
「はい」
「終わった」
「……はい」
リシェルは広間を見た。
アンセルが連行されていく。
師団の人間が、彼の仲間たちを囲んでいる。
六週間前に始まったことが、今日、ここで区切りを迎えた。
追放の濡れ衣。
ディルヴァルトの呪い。
王国を揺るがす陰謀。
全部が、今動いた。
「リシェル」
「何ですか」
「外に出よう」
「え?」
「ここは人が多い。少し、外の空気を吸いたい」
リシェルは少し驚いた。
この人が、自分から「外に出よう」と言うとは。
「……はい」
二人で広間を出た。
王城の庭園に続く扉を抜けると、冷たい外気が体を包んだ。
誰もいない庭園。
青い空。
「……静かだ」
ディルヴァルトが言った。
「はい」
「広間は疲れる」
「そうですね。わたしも、人が多いのは得意じゃないので」
「そうか」
二人並んで、庭園の石畳の上に立った。
風が、木々を揺らしていく。
しばらく、ただそうしていた。
「リシェル」
「はい」
「言っていいか」
リシェルは、ディルヴァルトを見た。
「式典が終わったら、と言っていましたが」
「……終わりましたね、一区切りは」
「ああ」
「言ってください」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
感情が、全部手前に出てきているような目だった。
「俺は、感情を失っていた」
「はい」
「五年間、それが当たり前だった」
「はい」
「お前が来てから、少しずつ戻ってきた」
「施術の効果と、封印の修復が」
「それだけではない」
男が、一歩近づいた。
「お前がいると、感情が戻る。怒りも、喜びも、安堵も。お前に関することは、呪いの中でも感じていた」
「……それは」
「最初に手を繋いだとき、気づいた」
ディルヴァルトが、リシェルの手をそっと取った。
庭園で、二人だけで。
「好きだ」
静かな声だった。
命令でもなく、宣言でもなく。
ただ、事実を言うように。
「この一ヶ月半、ずっとそう思っていた」
リシェルの胸が、ひどくうるさくなった。
「……式典が終わったら言う、と」
「言った。式典は終わった」
「早い」
「早くない。ずっと待っていた」
リシェルは繋がれた手を見た。
大きくて、温かくて、この手がずっとそばにあった。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「わたしも、言っていいですか」
「言え」
「ずっと言いたかったんですが」
「言え」
「……好きです」
声に出したら、思ったより自然に出てきた。
「辺境が好きで、城が好きで、マーゴさんもカルロスさんも好きで。そして、あなたが好きです」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「……いつから」
「いつからかはわかりません。気づいたら、そうなっていました」
「俺と同じだ」
「そうですか」
「ああ」
男の手が、リシェルの手を包んだ。
庭園の風が、二人の間を通り過ぎた。
「リシェル」
「はい」
「辺境に帰ったら、もう一度聞く」
「何を?」
「本当の結婚の話を」
リシェルは息を吸った。
「……契約ではなく?」
「契約ではなく」
ディルヴァルトが、真っ直ぐにリシェルを見た。
「俺は、お前の隣にいたい。これからも、ずっと」
「……わかりました」
「返事は辺境で聞く」
「辺境で、ちゃんと答えます」
「楽しみにしている」
「わたしも」
風が吹いた。
王都の空が、青く広がっていた。
リシェルは繋いだ手を、少しだけ握り返した。
ディルヴァルトの手が、同じだけ、握り返してきた。
第15話 了




