第二十三話 奇術師はいつだってタネを隠さない④
bar Emrysの空気は、重く沈んでいた。
紅はカウンターに佇み、煙草を吹かす。
先ほどまでの苛立ちは消えていない。
ただ、それを表に出さないように、静かに火を吸い込んでいるようだった。
マスターは何も言わず、一杯目よりも度数の高い酒をグラスへ注いだ。
琥珀色の液体が、店内の薄暗い照明を受けて揺れる。
そのグラスを、マスターは紅の前に静かに置いた。
「マスター」
紅が低く言う。
「紬に教えてやれ」
「ええ、もちろんです」
マスターは紬へ向き直った。
「紬様に分かりやすく申し上げるならば、この事件の世間での名は――」
マスターは一拍置く。
「大規模魔術暴走事件でございます」
その言葉を聞いた瞬間、紬の脳裏に、学校の授業やニュースで見た情報がよぎった。
「あ、知ってる!」
紬は思わず声を上げる。
「昔、この町で、町を覆う結界が暴走して、住民を閉じ込めた事件でしょ?」
そして、少し首を傾げる。
「でも、あれは結界を発生させる機械の故障だって……」
紅は鼻で笑った。
「あれは人為的なものだった」
「え?」
「魔術結社、逢楽廻が起こした」
紅はグラスを手に取り、中の酒を喉へ流し込む。
「逢楽廻は、魔術の頂を目指した組織だ」
「魔術の頂……?」
「それ自体は珍しくもない。魔術師なら誰もが、一度はそこを夢見る」
紅の目が、わずかに細くなる。
「だが、やつらは踏み越えた」
紬は息を呑んだ。
何を、と聞きかけて、言葉を止める。
紅の横顔が、あまりにも冷たかったからだ。
「この町にいた俺が、それを終わらせた」
紅は煙草を灰皿に強く押しつける。
「政府は事件を隠蔽した。世間には、結界設備の暴走事故として処理された」
「そんな……」
「珍しい話ではない。連中は都合の悪いものを隠すのが仕事だ」
紅はつまらなそうに吐き捨てる。
「そして、あの惨事の本当の姿を知る者たちがつけた名が、深紅の日曜日事件だ」
紬は何も言えなかった。
学校で習った事件。
ニュースで見た過去の事故。
それが本当は、誰かによって起こされたものだった。
その事実だけで、胸の奥がざわつく。
「細かい説明はあとでマスターにでも聞いておけ」
紅は帽子を手に取った。
「今は、やつらを探すのが先だ」
「え、うん……分かった」
紬には、まだ聞きたいことがあった。
逢楽廻とは何なのか。
何をしようとしたのか。
紅はその時、何を見たのか。
けれど、問いを口にする前に、紅はbarを出ていった。
マスターは小さく息を漏らす。
「紅様……厄介なことになりましたね」
紅と紬は、情報を求めて町を回った。
まず調べたのは、暴走したロボットや端末の場所だった。
清掃ロボット。
警備ドローン。
認証端末。
工事用ロボット。
異常は、夕烙区のあちこちで小規模に散っていた。
紅は壊れた清掃ロボットの残骸を見下ろし、紬は司から渡された逆探知機を握りしめる。
画面には、異常ログの断片が表示されていた。
「この時間だけ、映像が一瞬飛んでる」
紬が言う。
「でも、その後の記録は妙に綺麗。まるで、最初から異常なんてなかったみたい」
「次だ」
紅は短く言った。
警備ドローンの落下地点。
認証端末の誤作動が起きた駅前。
工事用ロボットが停止した路地。
どこも同じだった。
映像はある。
記録もある。
原因も、それらしく残されている。
だが、肝心な部分だけがない。
まるで、誰かが見せたいものだけを綺麗に並べているようだった。
数時間後。
紅と紬は、bar Emrysへ戻る前に、人気の少ない公園のベンチへ腰を下ろした。
紬は集めた情報を地図に書き込み、紅は隣で煙草を咥えている。
「ねえ、集めたけどどうするの?」
紬が地図を見下ろしながら尋ねた。
地図には、異常が起きた場所がいくつも印で示されている。
「やつらが暴走させた場所はバラバラだ」
「うん。全然まとまってないよね」
「だが、暴走した時間帯は、やつらが動いた時間にもなる」
「え?」
紅は地図の上に指を置いた。
暴走した場所を、発生時刻の順番に並べていく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
点と点が、ゆっくりと線になっていく。
その線は、夕烙区の中を斜めに横切っていた。
紬は目を見開く。
「ほ、ほんとだ……」
時間ごとに場所を並べ替えると、おのずと移動した順番のようなものが現れる。
だが、紅はそこで笑わなかった。
「問題も残る」
「問題?」
「この線が、移動なのか罠なのか分からん」
「罠……」
「マルスを操れるなら、何もその場にいなくても暴走は起こせる」
紅は煙を吐く。
「つまり、この線はやつらの足跡ではなく、俺たちに追わせるための餌かもしれん」
紬は地図を見つめ、眉を寄せた。
「でも、これ以上ヒントはないよね」
少し考えてから、紬は顔を上げる。
「あ、だから逆を見る?」
紅の口元が、わずかに動いた。
「ようやく脳みそが働いたな」
「一言多い!」
紬は頬を膨らませる。
紅は構わず地図に指を走らせた。
「見るべきは、何かが起きた場所ではない」
「何も起こっていない場所」
「そうだ」
紅は地図の一部を指で囲む。
「この多発するエラーの中で、比較しても異常が少ない場所がある」
紬は地図を覗き込む。
「た、確かに……でも、なんで?」
「シンプルな話だ」
紅は煙草の灰を落とす。
「エラーを起こせば、自分にも影響が出る場所だからだ」
「自分にも?」
「通信施設。インフラ設備。中継端末。魔導供給系統。そういう場所で派手に異常を起こせば、街全体に影響が出る」
紅の指が、地図の地下設備表示に触れる。
「そして、やつらがそれを利用しているなら、自分の足場も崩れる」
「だから、そこだけ避けてる?」
「そういうことだ」
紬は地図を見て、嫌そうな顔を浮かべた。
「う、うわぁ……でも、そんな設備って結構あるよ?」
「小娘、勘違いしているぞ」
「え?」
「馬鹿正直に探してどうする?」
紅は紬の持つ逆探知機を指差した。
「これを使う」
「逆探知機?」
「奴らが隠しているなら、見えていない場所に違和感が出る」
紅は指を一本ずつ折っていく。
「映像が途切れた場所。記録が綺麗すぎる場所。異常が少なすぎる場所」
紅は笑った。
「そういう場所を重ねろ」
「重ねる?」
「暴走が起きていない場所。監視映像が綺麗すぎる場所。通信ログが少ない場所」
紅の指が、地図の一点で止まる。
「それらが重なった場所に、タネがある」
紬は息を呑んだ。
そこは、夕烙区の地下にある古い通信施設だった。
「……ここ?」
「古い通信網の跡地だ。今は再開発で封鎖されていることになっている」
「ことになっている?」
「本当に封鎖されているなら、ここだけ監視が薄い理由がない」
紅は煙草を咥え直す。
「行くぞ、小娘」
「ちょ、ちょっと待って。これ絶対罠じゃない?」
「当然だ」
「当然なのに行くの!?」
紅は笑った。
「罠なら踏み潰せばいい」
「いや、そういう問題じゃ……」
「どうせこれ以上探しても見つからん」
紅は立ち上がる。
「なら、こちらから罠にかかってやる」
紬は嫌そうに地図を見た。
「それ、作戦って言うより力技じゃない?」
「勝てば作戦だ」
「ひどい理屈!」
紅の愛車に乗り込み、二人は古い通信施設へ向かった。
夕烙区の外れ。
再開発の波から取り残された一角。
そこに、その施設はあった。
門は閉ざされ、古びたチェーンが巻きついている。
看板には、かすれた文字で立入禁止と書かれていた。
紅は指先に小さな火を灯す。
火がチェーンを舐めるように走った。
次の瞬間、鉄は赤く焼け、音を立てて千切れる。
門が鈍い音を立てて開いた。
「ほんとに入るんだ……」
「ここまで来て帰る馬鹿がいるか」
「罠かもしれないんだよ?」
「だから来た」
「会話になってない……」
二人は施設の中へ足を踏み入れた。
中は、死んだように静かだった。
壁一面には、かつて通信網だったものの残骸が張り巡らされている。
細いケーブルは血管のように絡まり、ところどころで裂けた被膜から銅線がむき出しになっていた。
古びた中継端末は沈黙したまま、黒ずんだランプをこちらへ向けている。
床には埃と鉄粉が積もり、踏みしめるたびに乾いた音が反響した。
天井から垂れた配線が、まるで役目を失った神経のように揺れている。
「ここが、拠点……?」
紬は小さく呟く。
「人影なんてないよ」
その言葉を聞いた瞬間、紅が立ち止まった。
「紅?」
紬が声をかけた直後。
背筋が凍るような圧が、通路の奥から流れ込んできた。
体が勝手に強張る。
息が、浅くなる。
「確かに」
紅は通路の闇を見据えた。
「人影ではないな」
闇の奥から、何かが這い出る。
「貴様、何者だ」
紅が問う。
正面の通路から現れた影は、低く笑った。
「私か」
声は人のものだった。
だが、響きは人のものではなかった。
「私は新人類だ」
影がランプの光に照らされる。
その姿が、ゆっくり浮かび上がった。
「う、うそ……魔人……!」
紬は声を漏らさずにはいられなかった。
皮膚は紫色に変色し、血管は皮膚を突き破りそうなほど浮き上がっていた。
手足には鋭い爪が生え、頭頂からは二本の立派な角が伸びている。
目からは紫の眼光が放たれ、尾てい骨のあたりからは太い尻尾が揺れていた。
それだけなら、紬はまだ理解できた。
魔人化した者は、これまでも見たことがある。
だが、目の前の魔人は違う。
喋っている。
笑っている。
自分の意思で、こちらを見ている。
「魔人?」
魔人は口角を吊り上げた。
「はは、ははははは!」
その笑い声が、古い通信施設に反響する。
「私こそが、完全なる魔人だよ!」
紬の手が、無意識に震えた。
魔人は一歩進む。
その一歩だけで、床に積もった鉄粉が弾ける。
「小娘」
紅が低く言う。
「前に出るなよ。死ぬぞ」
刹那。
魔人の姿が消えた。
紬には、何も見えなかった。
ただ、紅の顔面に魔人の足が迫っていることだけを、遅れて理解した。
強烈な蹴りが、紅を捉える。
だが、そこにいた紅は陽炎のように揺らぎ、消えた。
蹴りは空を裂き、背後の壁に叩き込まれる。
轟音。
壁に走っていた古い配線が千切れ、火花が散った。
「ひっ……!」
紬の髪が、遅れて吹いた風に揺れる。
魔人は魔力の流れを感じ取ったのか、上空を見上げた。
天井付近。
紅が浮かぶように立ち、片手を向けていた。
「死ぬなよ」
上空から、業火が降り注いだ。
魔人を覆い尽くすように、赤い炎が通路を満たす。
熱風が広がり、紬は思わず腕で顔を庇った。
だが、魔人は笑っていた。
業火の中で、両腕を交差させ、顔を守っている。
その皮膚は焼け焦げながらも、なお崩れない。
炎が晴れる。
魔人は不敵に笑った。
魔人の体に、青白い雷が走った。
「雷傲」
紅の目が細くなる。
「なに……魔人が魔術だと」
魔人は雷を纏っていた。
肌のすぐ上で火花が弾け、空気がバチ、バチ、と乾いた音を立てる。
周囲の埃が静電気に引かれるように浮き上がり、闇の中で細い光の筋が何度も瞬いた。
紬のマギマギアが、小さく警告音を鳴らす。
「な、なにこれ……!」
ただ近くにいるだけで、体の芯が痺れる。
魔人は両手の甲を合わせた。
牙を剥く獣のような手を、上空の紅へ向ける。
「雷傲」
両手から放たれた雷は、獣の牙となって紅へ襲いかかった。
紅は避けなかった。
両手に炎のナイフを生み出し、まるで食われに行くように落下する。
雷の牙が紅を呑み込もうとする寸前、紅の体がわずかに捻られる。
炎のナイフが雷を裂き、紅はその隙間を抜ける。
魔人は落下してくる紅を見て、雷のような速度で横へ跳んだ。
紅が地面に着地する。
即座に、炎のナイフを投擲した。
魔人は腕で払おうとする。
だが、ナイフは触れた瞬間に炸裂した。
業火が上がる。
炎が視界を塞ぎ、魔人は一瞬だけ紅の姿を見失った。
次の瞬間。
業火の向こうから、炎の槍を構えた紅が現れる。
槍の穂先が、魔人の腹へ迫った。
だが、貫くよりも早く、魔人の体が回転する。
雷を纏った蹴りが、紅の横腹を打ち抜いた。
鈍い音が響く。
紅の体が横へ吹き飛ぶ。
「紅!」
紬が叫ぶ。
だが紅は空中で身を翻し、衝撃を殺しながら地面へ着地した。
靴底が床を削り、鉄粉が舞う。
紅は、笑っていた。
高笑いを上げる。
そして、笑い終えると突然、魔人へ拍手を送った。
「まさか、ここまでの御馳走をいただけるとはな」
魔人は手を動かし、紅を挑発する。
「紅よ。私が貴様の最後の晩餐だ」
「安心しろ、魔人」
紅は口元を歪めた。
「お前は御馳走だが、所詮は前菜よ」
「メインではない」
魔人の額に血管が浮き上がる。
「舐めるなよ、人間ごときが!」
紅は笑っていた。
だが、その内側で静かに分析を続けていた。
目の前の魔人は、魔術を扱っている。
魔術には、本来、形がある。
火は凝縮され、放たれる。
その言葉は詠唱であり、同時に術式の輪郭でもある。
そして、術式名はその効果を固定するための楔となる。
フレイム・ランチャー。
名を与えることで、魔術は揺らぎを減らす。
詠唱によって意味を整え、名称によって効果を固定する。
それにより、術者は安定性を保ちながら発動速度を上げることができる。
現代の魔術や魔導が、詠唱と術式名を重ねる理由はそこにある。
だが、紅は違う。
紅の火は、名に縛られない。
火をどう解釈するか。
何を燃やすものと定義するか。
そこから、発動する魔術をその都度変える。
そして、この魔人もまた、似たことをしていた。
同じ「雷傲」という名を用いながら、纏う。放つ。加速する。
用途を変えている。
固定された魔導ではない。
だが、紅ほど自由でもない。
詠唱を削り、名だけで形を押し通している。
魔粒子を直接ねじ伏せているだけだ。
だから速い。
だが、粗い。
「実に面白いぞ」
紅は炎を手に宿す。
「だが、魔術の本質を理解できていないようだな」
魔人が雷を纏った拳で迫る。
紅は片手をかざした。
その瞬間、魔人の纏う雷の輝きが歪む。
青白い光は芯を失い、細い枝のように裂けていった。
壁の配線へ。
床の鉄板へ。
天井の端末へ。
行き場を失った電流が、地下のあちこちへ散っていく。
「なっ……!」
魔人は目を見開いた。
「何をした!」
雷を失った拳は、紅の鼻先で止まっていた。
紅は深紅のコートをなびかせる。
「火は熱を奪えば、形を保てん」
紅の指先に、小さな火が灯る。
その火が、静かに揺れた。
「雷も同じだ。熱と流れを失えば、ただ周囲に散る」
「ふざけるな……!」
「ふざけてなどいない」
紅は魔人を見下ろす。
「貴様は雷を出しているだけだ。雷が何によって形を保ち、何を失えば崩れるのかを理解していない」
紅の手に宿る火が、色を変えていく。
赤から、青へ。
青から、黒へ。
「燃えるとは、何かを燃やすということだ」
紅の声は静かだった。
「酸素か。木か。それとも魔力か」
魔人が一歩下がる。
紬もまた、息を呑んだ。
いつもの紅ではない。
火を扱う男。
口が悪くて、面倒くさがりで、でも何だかんだ人を助ける男。
そんな紅が、遠くへ行ってしまうような気がした。
火の色が、さらに変わる。
白く、淡く、静かに。
「いや」
紅は呟く。
「もっと解釈は広げられる」
魔人の喉が鳴った。
紬は、無意識に紅の名を呼びそうになった。
その瞬間。
乾いた音が鳴る。
紅は自分の手を握り、火を消した。
「案ずるな」
紅は魔人を見る。
「お前ごときに使う必要はない」
いつもの皮肉げな笑みが、少しだけ戻った。
「弱い者いじめは、俺の趣味じゃない」
「く、紅……!」
魔人が再び雷を纏おうとする。
だが、遅い。
すでに魔人の両腕と両足には、炎の縄が巻きついていた。
「い、いつの間に!」
「貴様が俺の話をのんびり聞いていたおかげでな」
紅は魔人へ近づく。
「良いことを教えてやる」
炎の縄が締まる。
魔人の体が軋む音を立てた。
「敵の言葉を受け取った時点で、負けなのだよ」
紅は魔人の前で立ち止まる。
「さて」
その赤い目が、闇の中で光った。
「話してもらうぞ」
ぽたり。
魔人の額から汗が零れ落ちた。
それは床に溜まった水たまりへ落ち、小さな波紋を広げた。




