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春風  作者: たむえもん
8/8

春風の記憶

「ハル!お前またこんなところにたらいおきっぱなしにして!!蹴って水浸しになったらどうするんだい!!」



屋敷中に、中年女の怒鳴り声が響いた。

呼ばれた若い女は、たたたと小走りで中年女の元へ行き、うつむきながらつぶやくようにこう言った。





「申し訳ありません…今、片付けますので…」





それ以降、女は一言も発することなく、ただ黙々と雑巾をしぼりたらいの水を庭にぶちまけて、何事もなかったかのようにどこかへ去って行った。

中年女はそんな彼女の後ろ姿を苦々しい目で見やり、ため息をついた。


「まったく…顔色一つ変えないで…あの子は一体何を考えているのやら」

「マツ、あまりハルを叱らないでやってちょうだいな」



後ろから声がして中年女がはっとして振り返ると、季節の花模様がちりばめられた美しい着物をまとう、清楚で上品な乙女が微笑んでいた。



「佳澄お嬢様…」



マツは会釈をしながら、令嬢のために道をあけた。


「ハルは少し抜けているところがあるけれど…朝から晩まで愚痴一つこぼさず働いているじゃない」

「愚痴どころか、まともに話すことすらありませんけれどね」


マツがため息交じりにそう言うと、佳澄はおかしそうに笑った。


「ハルはね、あの子がしゃべらない代わりに、私の他愛もない話を日が暮れるまで聞いてくれることもあるの。だから私はハルが好きよ」

「お嬢様のお気に入りなら、私はこれ以上文句は言いませんよ」


マツが苦笑しながらそう言うのを聞いて、佳澄は満足そうにその場を離れた。



(まあ決して悪い子じゃないんだけどね…あそこまで無愛想だとだれもお嫁にもらっちゃくれないよ、全く)



マツはなんだかんだと言いながら、出来の悪い年頃の下女の将来を案じつつ、自分も仕事に戻った。













ある日、屋敷内はいつになく騒々しかった。

女中たちがせわしなく行き来し、めかしこんだ家の主とその妻もそわそわしている様子である。

一方、マツと数人の下女は、佳澄の着付けのために部屋にこもりっきりであった。




「ねえハル、今日はね、私の旦那様になるかもしれない方がいらっしゃるのよ!」

「…はい…」

「まあ、今日はお父様同士の用事に、付き添いでいらっしゃるだけだけれど」

「…」

「どんな方かしらねえ?素敵な方だといいけれど」

「…はい…」



佳澄の帯をぎゅっぎゅっと締めつけているマツのとなりで、ハルは髪飾りを手に持ちながら、相変わらずの調子で佳澄の話に相槌を打っている。

マツはそんなハルの様子を横目で見るが、あきれ顔をしつつもすぐに佳澄の着付けに集中した。

佳澄は浮かれた様子で、なおも話し続ける。



「相手の方はね、私と同い年なんですって。ということは、ハルとも同じね」

「そうでございますね…」

「だんだん緊張してきたわ。だって私、もう18になるのにあまり男性とお話ししたことがないんですもの…」


佳澄は急にしおらしくなって、顔を赤らめた。

マツはそんな令嬢をほほえましく思ったが、無表情のままのハルが目に入ると、すぐにげんなりした顔になった。


「いらっしゃいました!」


廊下から少し焦るような女中の声がして、部屋にいた者はみな急に慌てだした。

マツはハルが持っていた髪飾りを奪い取るようにし、大人っぽく結いあげた佳澄のつやつやの黒髪を彩った。


「では行きましょうね」

「ねえ、ハルも一緒に来て、ね?」

「はあ…」



マツは緊張した面持ちの佳澄の肩にそっと手を添え、後ろからついてくるハルが粗相をしないか気にしながら、来客がある方の部屋へ向かった。












佳澄ら一行が客室の扉近くまでたどり着くと、部屋の中から少し大きな声が聞こえた。



「おおい、佳澄はどうした?」



主人の声に、マツは焦って「ただ今、いらっしゃいました」と返事をした。

続けて「入りなさい」と声が聞こえたので、マツは「さあ」と言いながら佳澄の背中を押した。

すると、怖気づいた佳澄は泣きそうな声でこう言いだした。


「む、無理よ…!緊張して死にそうだわ…!」

「お嬢様!今日はお顔をお見せするだけの日でございますから!にこにこ微笑んでいればいいのですよ」

「でも…」



扉の前で小声でやりとりするだけでなかなか入ってこない娘にしびれをきらしたのか、急に扉が開いて主人が呆れた顔でこちらを見ていた。


「まったく、お客様をいつまでお待たせするつもりだ」

「だ、だって…」

「だってじゃないよ、子供じゃあるまいし。さあ、入りなさい佳澄」

「…」


佳澄は助けを乞うような目で、マツとハルの方を見た。

そんな娘を見て情けなく思ったのか、父親はがっかりした様子でため息をつき、仕方なくこう言った。


「仕方ない、マツとハルと一緒に入りなさい。ごあいさつしたら、部屋を出ていいから」



ようやく佳澄は納得し、父親の影に隠れながら女中たちと一緒に部屋に入った。



「すみません、普段は活発な子なんですが、今日は少々緊張しておりまして…ははは」

「かわいらしい娘さんじゃありませんか」



客人の男性はあごに手を当ててにこにこと微笑んだ。


「娘の佳澄でございます、ほら」


父親に促されて、佳澄は顔を真っ赤に染めながらうつむき加減でこう言った。


「か、佳澄と申します、よろしくお願いいたします!」


そしてがばっと頭を膝くらいまで垂れてお辞儀をした。

父親はまたしてもあきれ顔になったが、客人は愉快そうに笑っていた。


そのあとすぐに客人の男性が隣に座っている青年に「さあ、お前も」と小声で言うと、終始黙っていたその青年はおもむろに立ち上がり、こうあいさつした。






「隅田恭一と申します。よろしくお願い致します」





その瞬間、主人らのやりとりを聞いているのかいないのかずっと下を向いていたハルが、目を見開いて顔をあげたのをマツは見逃さなかった。

そして主人と令嬢の後ろから、じっとその青年のこと瞬きもせず見つめていた。



(ハル…?)




何事にも無関心のように見えたハルが、見たこともないほど強い反応を示すその青年を、マツはもう一度ちらりと見た。

父親と同じ三つ揃えのハイカラなスーツを身にまとい、まだ少しだけあどけなさの残る好青年である。

育ちの良さがにじみ出ているせいか少々頼りなげにも見えるが、一本芯の通った聡明さが我々を見つめるまなざしから見て取れた。


確かに、若い女性が寄り付きそうな雰囲気の青年ではあるが、だからといってハルのような者が彼に興味を持つとは到底思えない。


「佳澄さん、よろしければ我々と少しだけお話願えませんか?」


青年の父親がそう言うと、佳澄は「えっ…」と戸惑ったが、まんざらでもない様子で父親と共に高級なカウチに向かった。

二人が自分たちから離れると同時に、ハルは身を隠すようにマツの後ろへと下がった。

マツはもう一度青年の方を見ると、佳澄に対し優しい笑顔を向けていた。

一方、自分の後ろでじっとしているハルは、今ではいつも通り下を向いて微動だにしていなかった。



「お前たちは外に出ておいで」



主人がそう言ったので、マツが「では」と答えて二人は部屋から出て行った。

ぱたんと扉を閉め、二人は台所へと歩きだすが、マツは先ほどのハルの様子が気になって仕方がなかった。



「ハル、お前、さっき様子が変だったよ」

「え…?」

「お前、あのご子息のこと、知ってるのかい?」

「…」



ハルは、イエスかノーで答えられることは一応返事をするが、今回ばかりは黙りこくっている。

マツは「まあいつものことだ」と思い、もう何も聞かなかった。





「子供のころの…奉公先の旦那様と…お坊ちゃんです…」





思いがけずハルが質問にはっきりと答えたので、マツは驚いてハルの方を見た。


「そうだったのかい…びっくりしただろう」

「…」

「まあ、あの場で女中がでしゃばるのはよくはないけれど、挨拶くらいすればよかったのに」

「…いえ、それはいけません…」

「どうして?」



まともにハルと会話できていることに少々興奮を覚えながら、マツは聞き返した。

ハルは間を置いて、相変わらずの無表情でこう言った。



「わたくしは…嫌われて追い出されてしまいましたので…」

「えっ?どうしてだい?!」

「わたくしが粗相を…そのせいで母に迷惑をかけて、お暇を頂いてしまいました…」

「粗相って、どんなことだい?追い出されるほどのことってお前…」

「…」



それ以上、ハルは答えようとはしなかった。

マツは少しだけでもハルのことが聞けたことに満足していたので、無理やり聞き出すのは控えた。


しかし、それにしても子供がやった「粗相」とやらで、母親共々追い出されるってどういうことだろう…?

あの隅田という男は、子供のいたずらが許せないほどの気難しい人間には見えなかったが…


気になる疑問は残るが、マツは自ら話を終わらせようとした。



「まあ昔のことだ、きっともう何とも思ってらっしゃらないよ」

「…」

「機会があれば、あいさつくらいさせて頂きなさい」


マツはそう言って、台所に着くやいなやさっそく下女たちにあれこれ指図した。

ハルもほかの下女と同じように宴の準備を手伝うが、その動作はいつも以上に緩慢で、危うかった。











その後、夜の宴に備えて着物からドレスに着替えるため、佳澄と女中たちはまた彼女の部屋へと入って行った。

佳澄は興奮気味に、ハルに向かって語りだした。



「ねえ、恭一さま、とても素敵だったと思わない?!」

「…」

「私たちと同い年なのに、しっかりとしていらして…それにお顔もとてもおきれいだったわ、うふふ」

「…」

「話し方もとてもお優しくて穏やかで、本当に素敵なの!学校ではいつも首席でいらっしゃるんですって!」

「…」

「もうハルったら、聞いてるの?!」

「えっ…あ、はい、申し訳ありません…」



ハルがいつも以上に無反応だったので、佳澄はふくれっつらになるが、あまり気にしていないようで続けて話し出した。


「宴が終わったあとだと遅すぎるから、今日は泊っていかれるそうよ!」

「えっ…」

「さっきはあまりお話できなかったけれど、今夜はもっとお話できるかしら?!ねえハル!」

「え、ええ…きっと…」



先ほど怒られたせいか、ハルはしっかりと返事をしているように見え、佳澄は満足そうに鏡に向かって身だしなみを整えた。

しかし、マツにはハルの様子がやはりいつもと違うようにしか見えなかった。


あの親子…いや、青年を見てからなのは確かだが、そこまで意識するほどのことだろうか。

確かに、子供のころの他愛ないいたずら――なのかはわからないが――で、追い出されるような経験をすれば、きっと心に傷が残るだろう。

しかし、追い出したのは主人の方で、坊ちゃんは関係ないのでは…



坊ちゃんと、なにかあった…?



ふと、マツの脳裏にぴんとくるものがよぎる。

坊ちゃんに対して、親を激怒させるほど、何か悪いことでもしたのだろうか。

いやしかし、こんな何にも無関心でぼんやりした子が、他人に悪いいたずらをするとはとうてい思えないが…



とにもかくにも、今は佳澄お嬢様の身支度をしっかりとして差し上げなければ…



「ハル、お嬢様の御髪をきれいにとかして差し上げるんだよ」

「はい」



ハルはマツの心配をよそに、はっきりとした声で返事をし、膝立ちになって佳澄の髪をとかし始めた。

あれだけ考えを巡らせていたマツだが、忙しさもあってか、今のハルの返事ですべて杞憂だったかと思い、あまり気にとめなくなった。













日もいよいよ落ち始める頃、屋敷では小規模ながら贅を尽くした宴が催されていた。

真っ白なクロスが掛けられた大きなテーブルに盛りつけられた食べきれないほどの豪勢な料理を、両家の5人が囲んでいる。



「いやはや、このように盛大におもてなしして頂くことになるとは…かえって申し訳ありませんでしたな」

「いえいえ、こうして遠路はるばる来ていただいたのです、このくらいは。なあお前」

「ええ、もちろんですわ。お口に合うかわかりませんけれど」


上品な笑い声が高らかに聞こえる一方、互いの子供たちは黙ってそれぞれの親を見つめている。


「いやあ、しかし佳澄さんは本当にお美しい娘さんですな。西洋風のお召し物がよくお似合いでいらっしゃる」


隅田がそう誉めると、佳澄は顔を赤らめて恥ずかしそうに下を向いた。

佳澄の両親は娘が誉められてたいそううれしそうにしている。




「…ドレスより着物の方がよかったと思わない?」



扉の前で待機している女中の一人が、終始下を向いているハルに小声で話しかけた。



「いえ…どちらもよくお似合いかと…」

「そうかしら」

「これ、静かになさい」


巻き添えを食らったハルが可哀そうだと思いつつも、マツは厳しい口調で二人をいさめた。





「こんなきれいで奥ゆかしい女性をお嫁に頂けたら、こんないいことはないな、恭一」




恭一、という言葉に操られるかの如く、ハルは突然顔をぴくりと動かしゆっくりと顔をあげた。



「え?ええ、僕には本当にもったいないです」

「全く、せがれときたら、勉学に励むのはいいがこの年にもなって、一度も女性の話題が出てこなかったのですよ」

「お父さん…」

「いやいや、そういうことにだらしのない輩と違って、しっかりしてらっしゃるということですよ」



皆はほほえましそうに笑うが、恭一はばつの悪そうな顔で、うつむいてしまった。


「まあ、確かにどこの馬の骨ともわからない者と妙な関わりを持つよりはましですかな。ああ、そういえば昔…」


隅田が少し眉をひそめながら昔話をし始めた。


「奉公人に娘がいましてな。年が恭一と同じだったものですから、一緒に遊んでやれと言ったんですけれど…」

「お父さん」

「全く、その娘とやらが子供のくせにとんでもない淫乱女でしてな…ええと名前は確か…」

「お父さん!!」



突然怒鳴るように恭一が叫んだ。

両家が驚いて静まり返ったのはもちろん、控えていた女中たちも同様だった。



「す…すみません…でも、今この席で話すようなことではありませんので」

「ああ、まあ確かにそうだな。失敬」


酒が入っていたせいか、気が緩んでいた隅田はふと我に返って謝罪した。


「どんなお話だったのか気になりますが、それはまたあとでお聞かせ願うことにしましょう。さあ、どんどん召し上がってください」


隅田の親子に気を遣うように、主人はにこやかに仕切り直した。

隅田はあまり気にも留めていない様子で再び酒を飲み始めたが、恭一は不機嫌そうにそっぽを向いていた。


マツは驚きのあまりしばらく両家の宴をぼんやりと眺めていたが、ふとしたときにハルの方をちらりと見た。

すると、ハルは髪の毛で顔を隠すように真下を向いて、小刻みに震えていた。


(ハル?!)


マツは一瞬声を出してハルに駆け寄ろうとしたが、ことを大きくしてはいけない何かを感じ、思いとどまった。




(まさか、さっきの話の娘って…)




マツはにわかには信じられず、ハルの方を心配そうに見つめた。

ハルは、髪で顔が隠れて表情こそ見えなかったが、こぶしを握り締め、ひどくつらそうにしているように思えた。












日もとっぷりと暮れ、宴の席は両家の親だけで盛り上がっていた。

一方、若い二人といえば、互いの両親に席を外すように言われ、その場にはいなかった。

二人きりで話ができるよう、計らったようである。


台所では、女中たちが皿洗い、追加の酒の準備、珍しいフルーツを切るなどしていた。

マツは皿洗いをしているハルのほうをちらりと見やると、いつもどおり黙々と作業をしているだけだったのですこしほっとした顔をして、その場を離れた。



(さて、あたしは…)



佳澄の散らかりっぱなしの部屋を整理しようと台所を出て廊下を歩いていると、庭の方で何やら話声が聞こえた。


(きっと、お嬢様と若旦那様だね)


影からそうっと覗いてみると、案の定、若い二人が庭先のまだ花も付けていない植え込みを眺めて立っていた。

覗き見など野暮なことはしたくなかったので、マツはその場をそうっと通り過ぎようとしたが、佳澄の一言で思わず足をとめた。



「あの…先ほどのお話…続きが気になりますわ…」

「え…」


恭一は振り向き、困ったような顔をした。

マツは悪いことだと思いつつも、どうしてもその場から離れられなかった。


「いえ…本当に、お話しするようなことじゃないんです。父は酔っぱらっていただけで、本当なら話したくもなかったはず…」

「でも…恭一さまがあんなに怒るようなほどのことがあったんなんて…わたくし…」


そこまで言って、佳澄は頬を赤らめながら黙ったが、顔をあげて続けた。



「わたくし、恭一さまのこと…全部知りたいのです…どんなことでも…」

「佳澄さん…」



恭一はしばらく佳澄を見つめながら黙りこんでいたが、意を決したように語りだした。



「…子供の頃、奉公人の娘と仲良くなったんですよ、年も同じでしたし」

「はい…」

「それで…二人でいたずらをするのが楽しくて、調子に乗ってしまったんですね。若い女中を泣かせるほど悪いことをしてしまいました」

「まあ、そうだったんですの」

「ええ、まあいたずらの内容はちょっと…若い女性が聞いたら軽蔑されてしまいますので…」

「いえ、そんなことは…小さな子供だったんですもの、きっと悪意のないことだったんですわ」

「まあそうなんですけれど、父はその女中をかわいがっていましたからたいそう怒ってしまいましてね、罪を全部その娘に押しつけて、母親と一緒に追い出してしまったんです」




佳澄はふんふんと真面目な顔つきで相槌を打ちながら恭一を見ていたが、話が終わると納得した様子でふっと笑みをこぼした。


「そうだったんですか。お父様はそれほどそのお女中を大切にされていたのですね、その娘さんは可哀そうですけれど、仕方のないことですわ」

「え、ええ…僕も悪かったのに、本当にかわいそうなことをしました」



恭一は宴の席で怒鳴るほど、そのことに触れたがらなかったのがうそのように、はははと軽く苦笑いをし、こう続けた。



「僕がこのことをお話したことは、誰にも内緒ですよ、佳澄さん」

「は、はい…二人だけの…」



微笑む恭一に、佳澄は釘づけになり、両手で頬を覆いながら一歩歩み寄った。






「恭一さま…」





そして、彼の名を呼び、そっと胸に寄り添った。



一部始終を見ていたマツは、恭一が佳澄に語った内容がどうしても納得いかなかった。

そんな他愛ない話のはずがない…ハルの様子を見ていればわかることであった。



だって、ハルが恭一を見つめる目は…





「さあ、冷えますからご両親のところへ戻りましょうか」




恭一が佳澄にそう言うのが聞こえ、マツははっとしてさらに柱の陰に身を隠した。



(ハル…お前…)



マツは、ハルのことを思いやりながら、佳澄を優しくエスコートする青年を見た。

恭一の表情からは、穏やかな微笑みのなかにやり場のない悲しみがにじみ出ているような気がした。















もうとうの昔に皆寝静まり、西洋風の屋敷はまるで廃墟のように静寂に包まれていた。



まだつぼみもつけていない、たくさんのバラが敷き詰めるように植わっている中庭に、ゆらゆらと亡霊のように立ちすくむ女の姿があった。

明かりもない暗闇に浮かびあがるような真っ白な肌に、信じられないほど真っ赤な唇の女は、昼間女中として動き回っているとは思えないほど、浮世離れしていた。



ハルは、しばらく何もないバラの植え込みを見つめていたが、ふっとため息をついて振り返り、屋敷に戻ろうとしたその時だった。






「すみません、お女中…」







屋敷内へと続く扉の前にいつの間にか立っていた男性が、こちらに向かって呼びかけた。

暗くてほとんど姿は見えなかったが、ハルは、この懐かしい声が恭一のものであると確信した。



「…」



ハルは呼ばれても顔を伏せるだけで、何も答えなかった。



「あの、お女中…厠はどこにあるのでしょう。広いお屋敷で、迷ってしまいました」



何も答えない女中の態度に少し困った様子で、恭一は愛想良く笑いながらもう一度話しかけた。

ハルはそれでも黙りこくっていたが、おもむろに口を開いた。





「扉を入ったら左にまっすぐ進んで…突き当りをまた左でございます」





ハルがそう言った次の瞬間、恭一はざっと音を立てながら足を一歩前に出し、顔を伏せているハルをじっと見つめてこう言った。



「お女中…名は何と…?」




震えるような声で小さく問いかけながら、一歩一歩、ハルに歩み寄った。

ハルはますます身体を縮こまらせながら、顔を横にそむけた。


「旦那様のような方に…名乗るようなほどのものはございません」

「聞きたいのは僕だ!さあ、何という」



蚊の鳴くような声でハルは拒否したが、恭一はなおも問い詰める。

恭一は、もうすぐ目の前まで迫っていた。




「ナツと…申します」

「え…」





ハルの答えに恭一は落胆したような声を出し、掴みかかろうとでもしていたのだろうか、肩の辺りまで上げていた両腕をすっと下ろした。

ハルは微動だにせず、顔をそむけたままであった。



「すみません…知り合いに、とてもよく似ていたものですから…」

「…」



恭一は苦笑しながら謝るが、それでもまだ立ち去ろうとせず、こちらを見ようとしないハルのことを見つめ続けている。


「なぜ…目をそむけるのです?」

「…いえ…」

「あの…もっとよく顔を見せていただけませんか?」

「え…?」


どうしてか、思わずハルは顔を上げてしまった。

恭一は暗くてよく見えないはずなのに、しっかりとハルと目線を合わせて、つぶやいた。




「立ち姿も…声も…本当に何もかも、よく似ている…」





そして、もっと他に何か言いたげな顔をしながら、そっとハルの頬に手の甲で触れようとした。

しかし、もう少しのところでふいっとよけられ、また下を向いたハルの顔は、すべて髪で覆われてしまった。



「す、すみません…」

「…」



恭一は慌てて手をひっこめ気まずそうにしているが、どうしてもハルの元から離れることができない。



「あの…佳澄さんの専属のお女中さんなのですか?」

「い、いえ…専属というわけでは…ただ、大変かわいがって下さいます」

「そうですか…」


恭一は返事をし、しばらく黙っていたが、急に明るい声で話し始めた。



「ちょっと、佳澄さんについて聞かせてくれるかい?」

「え…」



ハルはふと顔を上げ、少し驚くような顔をしたが「はい」と返事をした。



「佳澄さんは、女学校では成績優秀で、洋裁の腕もいいそうだね」

「はい、わたくしも一度お洋服をこしらえて頂きました。あまり似合っていませんでしたが…」

「あははは」



恭一はとてもおかしそうに笑った。

まるで「そりゃあ、そうだろうね」とでも言いたげな…ハルはそんな恭一をちらりと見上げた。



「音楽はピアノをたしなむとか…何でもできる方なんですね」

「はい、お暇があればいつでも…本当にお上手で、お客様がいらっしゃるときは必ずお弾きになっておいでです」


ハルは心なしか、いつもより口数が多くなっていた。


「そうか…じゃあ、今日聴かせてもらえばよかったな」

「明日お時間があれば…」

「そうだね」



そう言って、恭一は優しく微笑んだが、ふと顔を伏せながらこう言った。



「でも、僕は完ぺきな人より…あまり出来の良くない子の方が好きなんだ」

「え…」



ハルが思わずはっと恭一の方に振り向くと、彼はゆっくりと顔を上げ、ハルをじっと見つめた。

その頃には暗闇に慣れ、互いの顔がはっきりとわかるようになっていた。




「子供のとき…年が同じだった奉公人の娘がいてね。よくその子と一緒に遊んでたんだ」




恭一が突然自分との昔話を語り始めたので、ハルはびくりと小さく身体を震わせた。

しかし何か言うことができるはずもなく、ただ黙って彼の話を聞くほかなかった。



「その子は…何を考えてるのかよくわからない子でね…笑わないし、口数も少ないし、本当に無愛想なやつだったよ」

「…」


恭一はふと懐かしむような顔をして笑うが、再び真顔になって話を続けた。


「いつの頃からだったか、僕らは変な遊びを覚えてしまって…それの虜になってしまった。どんなことかわかるかい?」

「…いえ…」

「ふふ…そりゃそうだよね…」



恭一はハルの顔を覗き込むようにして問うたが、ハルがそっぽを向いてぶっきらぼうに答えたので、肩をすくめため息をつき、こう続けた。




「それは…まだ子供の僕らが知っちゃいけない感覚を全身で受けるような…すごく熱くて…甘美で…」

「…」



ぼんやりと惚けるように話す恭一の隣で、ハルは自分のこぶしに力が入っているのがわかった。

恭一の話を聞いて、あの不思議な感覚を思い出しそうな気がしていた。

恭一と別れてから、一度も取り戻すことができなかったのに…




「でも、僕はその子がどこかに行ってしまってから、一度もその感覚を思い出すことができなかった」




恭一の言葉に、ハルははっとして顔を上げた。


私と同じ…


ハルは恭一が自分と同じように、その後一度もあの甘く狂おしい感覚になれなかったことに驚いていた。




「簡単さ、普通のことだよ。子供だったからよくわからなかったけど、僕は欲情してたんだ。性的に興奮していて…だから…」

「…」


恭一の手にも力が入っているように見えた。

ハルは着物を太ももの辺りで握りしめながら、恭一のこぶしを見つめていた。



「だから、もう一度思い出したくて、年頃になってからいろんな女と寝たよ。父には黙っていたけれど、暇さえあればそんなことばかりしてた」

「え…」


恭一から思いがけないことを知らされ、ハルのこぶしは力が緩みはらりとほどけた。



「だけど」



突然、恭一の穏やかだった口調は、叫ぶように強くなった。




「だめだったんだ!結局…あのときみたいな…苦しいくらいの心地よさは…なんでかわかる?!」

「え…」




ハルに考える時間を与えることなく、恭一は叫び続けた。




「好きだったんだよ!その子のことが!その子じゃないと…その子とじゃないと…」




恭一の悲痛なまなざしは、ハルから視線を外させてくれなかった。

ハルは、一言も声を発することができなかった。



「その子が出て行ったときには何もかも手遅れで…本当はもう、性欲なんてどうでもよかった。女とたくさん寝たのも…本当は別にあの感覚を思い出さなくたってよかったんだ」

「…」

「ただ、もうどうにもならないことを早く忘れたくて…子供のときの記憶に縛られたくなくて…」



大きくなっていた声は、震えながら小さくなっていき、大きなひとみはうるんでいるように見えた。



「その子は…多分そのときの快楽を楽しんでいただけだと思う…ただ気まぐれに…」

「…」

「だから、もし僕が今その子と出会っても…今さら何をどうこうしたいと思ってるわけじゃない、ただ…」

「え…」



恭一はゆらゆらと揺れるひとみをハルに向けながら、力なくつぶやいた。







「ただ…あの日…最後にその子と会ったときみたいに…俺の名を呼んでくれたらって…」







ハルの態度は、今にも泣いてしまいそうな恭一を、ただ単に見つめているだけのように見えた。

ぼんやりと、無表情で…いつも通りに。


恭一は、何も言わないハルからようやく視線をそらし、自嘲的に微笑んだ。



「すみません、突然わけのわからない身の上話を…こんなに夜も更けているのに」

「あ…」



ハルはようやく声を発したが、恭一はそれを遮るように話す。




「そうだった、僕は厠に行こうと思っていたんだっけ」

「あの…」



ハルの小さな声が聞こえなかったのか、恭一は悲しそうに微笑んで、こう言った。








「おやすみなさい…ナツさん」







そして、くるりと羽織の裾をひるがえし、恭一は足早にその場を離れ、ぱたんと扉を閉めた。






一人残されたハルは、目を見開いて恭一の後ろ姿を追っていたが、見えなくなると視線を地面に落した。

そして、静かに膝を折り小さくうずくまった。





―――ハル!





幼いころの、やんちゃな若旦那が元気よく自分の名を呼ぶ声が脳裏をめぐる。





「わたくしの名は…ナツではありません…」





か細い声で、ハルは独り言ちた。





「わたくしも…ハルもでございます…ハルも…」




小さな声は震えて、うまくしゃべることができないのに、ハルの独り言は止まらなかった。




「ハルも…お慕いしておりました…ずっと…ずっとです…」




そして、ゆっくりと顔を上げ、扉の方へ向ってぽつりとつぶやいた。









「恭一さま…」








真っ白な頬に、透明で温かい雫が一筋、流れ落ちた。















「いや、たくさんのおもてなしの数々、痛み入ります」

「こちらこそ、足を運んでいただき恐縮でございました」

「佳澄さんのピアノが聴けなくて残念でした」

「それならば、いつでもお聞かせしますよ。実は暖かくなったら、自宅で演奏会でもと思っておりましたね」

「ほうほう」



次の日、主は隅田親子を送り出すため玄関先まで出たが、両家の親の間でいつまでもくだらない世間話が終わらなかった。

佳澄は両親とともにいたが、マツを始めとする女中たちはそばに控えず、奥でそれぞれの仕事にいそしんでいた。


客人からあまり目立たないところで窓ふきをしていたマツは、ふと玄関先の恭一に目をやった。

恭一は親同士の会話を聞いているふうでもなく、また佳澄と話をするでもなく、ただぼんやりと屋敷の方へ目を向けているだけのように見えた。


(目の前に佳澄お嬢様がいらっしゃるのに…)


マツは不思議に思ったが、また拭き掃除に戻った。



「すみません…ちょっと忘れ物をしてしまったようです」

「おや、何ですか?」

「心当たりがありますので、戻ってもよろしいでしょうか」

「ええ、女中にでも聞いてください」



恭一は急に親の話を遮って、足早に邸宅に戻った。

そして、玄関口を通り抜け、通路を曲がり窓ふきをしている中年の女中に切羽詰まった様子で話しかけた。



「ちょっとすみません」

「ええっ?」



突然のことに油断していたマツは、驚いてまぬけな声を出してしまった。



「あ、失礼いたしました…」

「いや…」



自分の様子に恭一がくすっと笑ったので、マツは恥ずかしくなって下を向いた。



「あの、ちょっとお尋ねしたいことが…」

「何でございましょう?」

「あの…」


マツは気を取り直して聞き返しても、恭一はなかなか話さずにいたが、ふと離れた庭先ではき掃除をしている女中をぼんやりと眺めながらこう言った。




「あのお女中の名は…何と言うのですか」




庭先に立っているのはハルしかいなかったので、マツは心臓がどきりとした。


ついに恭一はハルのことに気づいてしまったのか。

しかし、確かハルは、恭一に自分のことを知られたくなかったはず…


ハルのことを思うと、ハルの名をしゃべってはいけない気がしたのでマツは戸惑った。

そうやってマツが口ごもっていると、突然恭一は思いがけないことを聞いてきた。





「ナツというのではないですか」

「え?ナツ?」





それを聞いて、マツは思わず怪訝そうな顔で聞き返してしまった。

ナツなんて女中はいないし、だいたいなぜハルに関してそんな聞き方をするのだろう。

しかし、マツの少々不審そうな態度をよそに、あまり元気がなさそうに見えた恭一は、ふっと笑みをこぼした。




「いえ、いいんです…ありがとうございました」




マツは「あの…」と呼びとめたが、恭一は微笑むだけでそのまま玄関の方へと戻ってしまった。

一人残されたマツは何が何だかわからず、ただぽかんと立ち尽くすのみであった。


彼はハルだと思って尋ねたはずなのに、ナツなどという名を持ち出したと思ったら…

何も答える間もなく、なんだか妙に納得したような顔をして…?



マツがそっと玄関の方を見やると、恭一は晴れやかな笑顔で佳澄と談笑し、そのまま馬車に乗り込んで行った。













一通り窓ふきを終えたマツは、さりげなく庭先へ出ると、いまだにはき掃除をしているハルの肩をたたいた。

ハルはくるりと振り向くと、相変わらずの無表情で「なんでしょう?」と小さな声で答えた。




「お前…恭一さま、行ってしまわれたよ」

「はい…」

「よかったのかい…?」




マツは、少し遠慮がちにハルに尋ねた。

ハルはしばらく黙って地面を見つめている。


こんなことを尋ねるのは酷だったか…


マツはハルの様子を見て後悔したが、ハルは顔を伏せたままの状態で、ぽつりぽつりと語り始めた。



「わたくしは…前の奉公先で母を亡くしてないがしろにされていたときに…お客人だった旦那さまに拾っていただき…」

「知ってるよ…」

「それで…旦那さまだけでなく…佳澄お嬢様にもとても…かわいがっていただいて…」



普段ほとんどしゃべることのないハルは、言葉一つ一つを絞り出すように、精一杯声を出しているように見えた。

マツはそんなハルの小さな声に一生懸命耳を傾けた。



「ですから、わたくしは…佳澄お嬢様には幸せに…なって頂きたくて…」

「…」






本当は、お前だって…





力の限り、自分の言葉で話すハルを見て、マツは思わず涙ぐみそうになった。

心優しい佳澄には悪いと思ったが、けなげなハルが可哀そうでならなかった。



「それに…」



しかし、思いがけず少しだけ大きくなったハルの声に、マツははっとした。





「わたくしは…隅田の家を出てからも今までずっと…ずっと幸せ者だったのです…気づかなかったけれど…ずっと幸せ者でした…」





そして、見たこともないような微笑みを浮かべ、マツを見た。

今までのハルからは信じられないようなことに、マツは一瞬声が出なかった。

しかし、ハルがもう一度地面に視線を落とすと、マツは我に返り思わずこう言った。





「お前にも、必ずいいことがあるよ、ハル…」





マツは自分でも何を言っているのかわからなかった。

しかし、ハルはもう一度マツの顔を見て、うれしそうに微笑んでくれた。

そして、もう見えなくなった恭一が乗っている馬車の影を、二人していつまでも目で追っていた。

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