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お嬢様は使用人

作者:豊川颯希
 ゆさゆさ、と肩を控えめに揺さぶられた。
「朝よ、起きて」
 目を閉じていても、日光がさんさんと降り注いでいるのが分かる。もう、朝。それは理解しているが、昨晩興が乗り、日が跨ぐのも気にせず論文を読み進めた体はどろりと重く、正直に言ってまだ睡眠を求めていた。
「もう少し……」
「駄目よ。授業に遅れてもいいの?」
「……」
 穏やかな声にたしなめられても、その声自体が子守唄のように心地良い。そのままずぶずぶと夢の世界に沈みこもうとしている自分に、誰かがため息をつく。
「もう……起きてください、カルロ様!」
 聞き慣れた声と聞き慣れない敬称に、カルロはかっと目を見開いた。日の光に透けた金の睫毛と、その下の熟れた苺のような赤い瞳が、“してやったり”と笑っている。思ったより近くにいた声の主に驚き、カルロは仰け反った。その拍子に、辺りにところ狭しと積まれていた本の山がいくつか、どさどさと崩れる。カルロの奇行にも完璧な笑顔を崩さず、彼女ははきはきと挨拶した。
「おはよう、カルロ」
「……おはよう、ございます」
 カルロがぱっちり覚醒したのを確かめると、彼女は眉を潜めた。あ、とカルロの体が強張る。これは、お説教をするときの彼女の癖だ。
「寝るときは、きちんと着替えてベッドに入って、って言っているでしょう。まだ若いからといってこうも毎日床で寝ていると、そのうち後悔するわよ?」
「はい、すみません」
 カルロが素直に謝ると、彼女はにっこり笑った。そして手に持っていた着替えを差し出す。カルロは受け取りかけて、その指が少し冷えていることに気付いた。
「カルロ?」
「少々失礼いたします」
 カルロは、彼女の両手に触れたまま、何事か呟いた。すると、彼の手の甲に紋様が現れ、きらりと光る。紋様が消える頃には、彼女の手はカルロのものと同じくらい温まっていた。
「あ……、ありがとう」
「どういたしまして」
 カルロは返事をしながら、彼女の手をなぞったり、ひっくり返したりした。彼女は慣れた様子で、カルロの好きなようにさせている。
「あの、カルロ。流石にちょっと、くすぐったいのだけど?」
「すみません。……でもちょっと、手が荒れてますね。確か新しく調合した軟膏がありますので、また持ってきます」
「私のことはさておき、ちゃんと魔術の勉強してね?」
 冗談めかして彼女が言えば、カルロは大真面目に答えた。
「お嬢様より大事なことは、ありません」
「……カルロあなた、…………何でも、ないわ」
「何です?」
 言いかけた言葉が気になったが、彼女は微笑むだけだった。こうなった彼女は経験上、絶対に口を割らない。カルロは追及を諦め、話を変えるため咳払いした。
「あの、お嬢様」
「何かしら?」
 首を傾げた彼女に、カルロは何度も言った言葉を繰り返す。
「俺を呼ぶとき、様は付けないで下さいってば」
 カルロの苦言にも、彼女は特に物怖じした風もなく、あっさりと言い返した。
「あなたの寝起きがもう少し良くなるなら、呼ばなくてすむわよ? あなたをすぐに起こすには、あれがいちばんだから」
「う……努力します」
 自分の寝起きの悪さを自覚しているカルロは、首をすくめた。彼女はくすくすと笑ってから、ああそうそう、と付け加える。
「……あなたもそろそろ私を、“お嬢様”ではなく、サラと呼んではどう?」
「無理です」
 反射的に答えたカルロに、彼女――サラは寂しげに微笑んだ。
「そう……」
 朝食の準備ができているので着替えたら食堂に来るようカルロに告げると、サラは部屋を後にした。
 一人残されたカルロは、丁寧に洗われ、新品同然に見える着替えに目を落とし、呟く。
「……サラ」
 その直後、カルロは頭を抱えて這いつくばった。
「俺には、無理です……お嬢様」


 
 カルロがサラをお嬢様と呼ぶのは、訳がある。
 今から10年前――カルロとサラが8つの時、二人は出会った。
 カルロは元々親の顔も分からない捨て子で、日々の飢えをスリでしのいでいた。ある日、カルロがすったのは女物のブローチで――持ち主は当時貴族だったサラ。お忍びで街に下りていたサラは運悪くカルロに遭遇した。幸いサラがブローチを無くしたことにすぐ気付き、供の者が怪しい挙動をしていたカルロを捕まえ、ブローチはサラの手に戻った。サラははじめ、ブローチを盗んだのが自分と同じくらいの子供のカルロであることに、ひどく驚いた様子だった。
「どうして、ブローチを盗んだの?」
「金に換えて、食い物を買うんだよ」
 腕を捻られ、捕らえられたままのカルロがふてぶてしく答えると、サラは大きく目を見開いた。直後、サラは供の者に言ってカルロを解放させる。てっきりしこたま殴られて放置されるだろうと思っていたカルロが目を白黒させていると、サラはその手にブローチを握らせた。
「……は?」
「これを、あなたにあげるわ」
「何で?」
「あなたが食べ物を買うのに、必要でしょう?」
「……すぐに無くなったことに気付くくらい、大事な物じゃねえの?」
 カルロが予想外の事態の連続に呆然と問い掛けると、サラはここではじめてその表情を曇らせた。カルロがまじまじと見ていることに気付くと、ぱっと笑顔に変わる。
「いいの。私は……たくさん持っているし、あなたがご飯を食べられることの方が大事だから」
 後から聞けば、ブローチはサラが幼い時に亡くなった母親の形見だった。その事実を知り、サラに返そうとしたカルロだが、サラは決して受け取ろうとしない。サラ曰く、“確かにそれはお母様を思い出す切っ掛けになるけれど、それが無くても、私はちゃんと思い出せるから”と。
 それはそれとして、とサラはカルロの手を握る。自分の薄汚れた手にサラの傷ひとつない手が重なっているのを、カルロは信じられない思いで見つめていた。貴族の中には身分差を笠に着て、何もしていない平民に、暴力をふるう者だっているのに。カルロと同じく目を疑っている供の者に、サラは毅然として告げた。
「ブローチを渡しても、一時的にお金を手に入れるだけで、それを使いきったら、またスリをはじめなきゃいけないでしょう? この子が孤児院に入れるよう、準備をお願い」
 ちょうど近くにサラの父親であるツィーゲル伯爵が寄附をしている孤児院があり、カルロはそこに入ることになった。カルロはそこで魔術の才を見出だされ、今では魔術学院に通っている。
 こうした経緯を経て、カルロはサラをお嬢様と呼び、恩人としたっている。サラはカルロが孤児院、そして魔術学院に通っている間も、何かと気にかけてくれていた。自分に魔術師の才能があると知ったとき、カルロは決心した。必ず、立派な魔術師になろう。そして、自分を拾ってくれたサラに恥じないよう、きちんと生きていこう、と。カルロは学院で奨学金をもらいながら、がむしゃらに勉強した。その途中、難問にぶちあたり苦しむこともあったが、そんなときはサラにもらったブローチを見て決意を新たにした。その甲斐あって、カルロは国中から魔術師の候補生を集めた魔術学院でも上位の成績を修めている。そうしてついに魔術師最高の位である宮廷魔術師も夢ではなくなった頃、突然知らせは届いた。
 ――それは、ツィーゲル伯爵が事故で亡くなり、それに伴って伯爵の事業も失敗、ツィーゲル伯爵家は多額の負債を抱え込み財産は差し押さえられ、没落する、というものだった。
「お嬢様!」
「カルロ、……来てたの」
 家具がほとんど運び出された屋敷で、それでも凛と立っていたサラは、カルロを見て苦笑を浮かべた。少し、痩せたかもしれない。
「来るに決まってるじゃないですか!」
 反射的に言い返してから、カルロは首を振る。違う、サラに怒鳴ってどうする。カルロは自分を落ち着かせるように、大きく息をついた。ゆっくりと、一言一言を噛み締めながら口にする。
「旦那様は、……本当に?」
「ええ」
 サラは頷いた。がらんとした部屋に、彼女の簡潔な回答はよく響いた。サラの目には、涙ひとつ浮かんでいない。そのままするりと空気中に溶けてしまいそうなほど、サラの姿は儚いものだった。カルロはもっと早く自分が来なかったことを悔いた。
 ぐっとカルロが拳を握ったのを見て、サラは暗い雰囲気を一変させるように微笑む。それはこちらを安心させようとしてくれている彼女の気遣いが痛いほど分かって、余計にカルロは自分を不甲斐なく感じた。
「でも、心配しないで。あなたは、私がたまたま拾って孤児院に預けただけだから、伯爵家の負債とは無関係よ。だから、学院にも今まで通り通えるわ」
「お嬢様」
「屋敷の人たちも、何とか次の奉公先を見つけて、皆暇を出したから大丈夫」
「お嬢様は……これからあなたは、どうするのですか?」
 サラは即答せず、口をつぐんだ。カルロは、じっと待つ。
「……そうね、どこかの使用人になる、かしら。雇ってくれるところがあればだけど」
「じゃあ、俺が雇います」
「…………え?」
 カルロの申し出に、完全に虚をつかれたらしい。サラは、ぱちくりと瞳を瞬かせた。そんなサラに、カルロは畳み掛ける。
「幸い、学院では優秀な成績を修めている者は、専属の使用人をつけても良いことになっています。もちろん俺は、お嬢様を使用人だからと言って酷く扱ったりなんてしませんし、大抵のことは自分でできますから、お嬢様は何もなされなくて大丈夫です」
「申し出はありがたいけれど、……あなたに迷惑はかけられないわ」
「迷惑だなんて、全く思いません」
 それに、とカルロはサラへ一歩ずつ踏み出した。サラの目の前で足を止め、カルロは手を差し伸べる。
「俺は、あなたに返しきれない恩があるんです。これだけでは返しきれない、大きな恩が」
 サラは戸惑った表情で、カルロの顔と手を交互に見る。そこに見えた迷いに、カルロは祈るような気持ちで頭を下げた。
「だから、どうか、お願いします……あてが無いなら、俺に雇われてください」
「カルロ……」
「元孤児である俺に仕えるなんて、お嬢様からしたら嫌でしょうけど」
「そんなこと、断じてないわ!」
「本当ですか!」
 喜色も露にカルロが顔を上げると、サラははっとした後、視線を外す。その白い頬が、僅かに赤く染まっていた。
「お嬢様?」
 カルロが首を捻ったまま問い掛けると、サラはちらりと視線を戻した。それから、そっと白く細い手をカルロの手に重ねる。
「分かったわ、カルロ……あなたの厚意に甘えることにします。もちろん、使用人としての仕事は、きちんとするわ」
 使用人になることを承諾したサラに、カルロは胸を撫で下ろす。そんなカルロに、サラは涼しい顔で告げた。
「これからよろしくお願いします、カルロ様」
「――へっ!?」
 すっかり気を抜いていたカルロは、サラの言葉にかちんと固まった。カルロ“様”!? 何と言うか、いたたまれないような、むず痒いような感覚が、カルロの全身を駆け巡る。
「ま、待ってくださいお嬢様!」
「はい、何でしょう?」
「な、……何でいきなり、様付けとか、敬語とか!」
「私とあなたは主従関係になるのですから、当たり前です」
「そ、そんなの、いらないです。今まで通りで!」
 カルロの提案に、サラは柳眉を曇らせた。
「それでは、使用人の躾すらできていないと、カルロ様が悪く思われてしまいます」
「別に俺は」
「いいえ、駄目です」
 サラはきっぱりと断言した。カルロはサラが何とか思い直してもらえないか、弱りきった頭で考える。
「う、……それなら、せめて二人きりの時は、今までみたいにしてください」
「それは、命令ですか?」
 サラの返答は、にべもない。
「お願いです!」
「……分かったわ」
 カルロの目に見えてほっとした様子に、サラはくすりと笑う。その赤い瞳から、不意にぽろりと涙がこぼれた。
「お嬢様?」
「あれ? ごめんなさい、私……」
 次から次に溢れてくる涙を、サラは止めようと何度も拭う。その腕を、カルロは押さえた。
「カルロ?」
 カルロはサラの腕を放した。はらはらと涙を流しながら見上げるサラに、カルロは言う。
「お嬢様、我慢しないでください」
「でも」
「俺が迷惑だなんて思うと思いますか? むしろ光栄です」
「カルロ」
「それでもあなたの気が咎めるって言うのなら、――命令です。心のままに、泣いてください」
「カルロ、ったら」
 サラは泣き笑いのような表情になった。
「それじゃあ、……ありがとう」
 とん、とカルロの胸に頭を預け、ぼろぼろとサラは泣き続けた。
「……お父様……」
 自分の胸にすがってか細く震える肩を見下ろしながら、カルロは固く誓った。
 これからは、旦那様の代わりに自分がお嬢様を幸せにするのだ、と。

 

 ――こうして、サラはカルロの使用人となった。サラははじめこそ、他の生徒の使用人たちと馴染むのに苦労していたようだが、一年経った今では打ち解けている。仕事内容も、元伯爵令嬢であるサラには慣れないものばかりだったが、周囲の助けもあって、立派に勤めを果たしていた。
 だからこそ、――とある事実を知り、カルロは悩んでいた。
 それは、数日前に遡る。
「――は? あなた今、何ておっしゃったの?」
 カルロの目の前でふんぞり返っている高飛車な少女レイチェル・マルナンは、代々宮廷魔術師を輩出するマルナン公爵家出身の、カルロの同期生である。成績は常に拮抗していて、席も近くなることが多いため、わりと気安い仲だ。授業後、特に約束もしていないが呼び止めてきたカルロに、レイチェルも気軽に応じる。空き教室で机をはさんで向かい合っているが、レイチェルの一見キツいまでに整った美貌は中々に威圧感があるにもかかわらず、カルロはけろりとしていた。
「だから、ドレスを仕立てるのを手伝ってほしい。レイチェルはあのマルナン公爵家の出身なんだから、贔屓の店とかあるだろ?」
 同じ質問を繰り返したカルロを、レイチェルは珍妙な物でも見るような目付きになった。
「あるにはありますが――何でですの?」
「お嬢様の舞踏会用のドレスを準備するためだ」
 カルロの回答に、レイチェルは深く納得する。
「ああ何だ、そういう理由ですの」
「そういうって、それ以外に理由も何もないだろ?」
「あなたはそうでしたわね」
「どういう意味だよ?」
 レイチェルの皮肉を本気で理解していないらしいカルロの追及を流し、レイチェルは腕を組んだ。
「でも予算はありますの? うちは仮にも公爵家ですから、それなりの物を扱っている店としか取引しておりませんが?」
「そこは心配ない。俺が在学中、いくつ魔術関係の特許を取ったか、知ってるだろ?」
「……本当にあなたは、“お嬢様”――サラ嬢に関してすさまじい有能、いえ馬鹿ですわね」
「当然だ」
 きっぱりと言い切ったカルロに呆れながら、レイチェルは頬杖をつく。
「それにしても、ドレスまで特注で用意してあげるなんて、見せつける気満々ですこと」
「当たり前だろう、お嬢様が幸せになるのを見届けて、ようやく俺は恩が返せるんだ」
「――は?」
「ん?」
 レイチェルとカルロの視線が交錯する。
 レイチェルは自分の耳を疑った。この男、今何と言った?
 “お嬢様”の幸せを見届ける?
 レイチェルは額を押さえた。なぜかこれから、ここがひどく痛む予感がする。
「ひとつ聞きますが、あなたがサラ嬢を幸せにするのではなくて?」
「そうだが?」
「……見届けるのとするのとでは、かなり違うと思いますけど」
「そうか?」
 きょとんとしているカルロに、レイチェルは本格的に頭痛の到来を悟った。安易にこの男の呼び掛けに応じた数分前の自分を呪いつつ、レイチェルは口を開く。
「ええとまず、あなたのおっしゃるサラ嬢を幸せにするって何ですの?」
「そりゃあもちろん、お嬢様がいちばん美しい姿で社交界デビューを飾られて、お嬢様がご自身に相応しい伴侶を見つけられるまでお守りすることだ……何だ? どうしたんだお前」
 後半のカルロの言葉は、いきなり机に突っ伏したレイチェルに向けられたものだ。レイチェルは痛む頭を押さえながら、何とか起き上がる。そのただならぬ様子に、さしものカルロも少し引いていた。
「な、何だよ?」
 レイチェルは爪の先まできちんと整えられた指先を、びしりとカルロに突きつけた。
「この愚か者!」
「いや、ほんとに何なんだよ急に」
 レイチェルははあっと大きく息を吐いて、じとりとカルロをねめつけた。その迫力にカルロは意味もなく姿勢を正す。
「率直に言いますわ」
 判決を告げる裁判官のように、レイチェルは重々しく言った。思わず、カルロの喉がごくりと鳴る。
「あなたとサラ嬢、この学院中もとい社交界中で、“できてる”と思われていますわ」
「…………」
 カルロはその言葉を理解するのに、ゆうに数分はかかった。
「………………………………………………………………………………………………何で?」
「何で!? 何でって、言うに事欠いてそれですのあなたは!」
 ばんと机を叩いて荒ぶるレイチェルとは対照的にカルロは呆然としていた。魂が抜けかけていると言い換えてもいい。
「いや、だって、俺とお嬢様、そんな関係じゃないぞ?」
「私も今、その事実をあなたの口から聞いてはじめて知りましてよ」
 レイチェルの言葉に、カルロは目を剥いた。どういうことだ、とその表情が如実に告げている。
「それはあなた、ただの生徒と使用人にしてはやけに距離が近いですし、あなたはサラ嬢を控えめに言ってかなり溺愛していらっしゃるし、貴族の情報収集能力でちょっと調べればわかるあなたとサラ嬢の馴れ初めや使用人にした経緯も恋物語のようで流布しまくってますし、もう完全に“次期宮廷魔術師のお嫁様”ってことで囲ってるんだとばかり」
「かこ……」
 衝撃の言葉の連続に、カルロは気が遠くなってくる。飛びかけた意識を何とか繋ぎ止めて、カルロは聞いた。
「が、学院中どころか社交界中ってのは?」
 レイチェルは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「この学院の生徒は、ほとんどが貴族の子弟だということは、あなた、百も承知でしょう?」
 カルロは両手で顔を覆った。何てことだ、他ならぬ自分の存在が彼女の幸せの障害になっていたなんて。
「というかそもそも、あなたがサラ嬢を――」
 思わぬ誤算に混乱するカルロには、レイチェルの言葉は右から左に流れていった。
 喉の奥から、やっとのことでカルロは言葉を絞り出す。
「ちょっと、聞いてますの?」 
「マルナン公爵令嬢」
「何ですの、あなたがわたくしを爵位敬称付きで呼ぶなんてろくな予感がしませんが、一応聞いて差し上げますわ」
 がん、と強かに机に頭をぶつけるほど、カルロは頭を下げた。
「何でもしますから、どうかご実家の権力でその馬鹿げた噂を消し去ってください!」
「無理」
「そこを何とか! 人の噂も何とやらとか言うだろ!」
「今回の場合、噂じゃなくてずっと前から定着した共通認識ですのよ」
 すぱっとカルロの頼みを切りながら、レイチェルは立ち上がる。おい、と泣きそうな声でカルロが呼び止めると、レイチェルは鬱陶しそうに見やった。
「ドレスの件は考えて差し上げますから、ひとまずあなたはもう少し、サラ嬢と話し合ったらよろしいのではなくて?」
 置いてけぼりを食らった子供のような絶望を浮かべているカルロに、レイチェルは至極めんどくさそうに言い足す。
「あなた、自分が“お嬢様”ってサラ嬢をお呼びになるとき、どれだけ甘い表情をしているか、自覚がありますの?」

 

 あの日、あの噂を知った時から、カルロは悩んでいる。今日も授業後、今までほとんど寄り道せずに帰っていた自分からは信じられないことに、人目につきにくい学院の片隅で、答えの出ない命題に挑んでいた。どうしたら、あの共通認識とやらを払拭できるのだろう。このままでは、サラは自分のせいでどこにも嫁げない。
 レイチェルの助言通り、サラとそのことについて話すなど、土台無理な話だった。
 よく考えてみてほしい。
“俺とお嬢様、何だかできてるっぽく見えるらしいですね”
「聞けるか――――っ!!」
 カルロは、誰も聞いていない大空に向かって絶叫した。この時の彼は、混乱のあまり“婉曲に”だとか“要領よく”聞く、という概念がすっぱ抜けている。
 ひとまず、最後にレイチェルが言っていた、まっっったく自覚はないが甘い表情???で“お嬢様”と呼ぶのが誤解される原因らしいので、呼び方だけでも変えようと思っているのだが。
「さ、サラ…………」
 ばちん、と音が鳴る勢いでカルロは手で顔を覆った。無理である。気恥ずかしい、とかそういう次元を遥かにこえて、カルロにとってお嬢様はお嬢様でお嬢様なのである。ぐるぐると堂々巡りの思考の中で、カルロはぼやいた。
「ああ…………お嬢様、サラ、お嬢様」
「はい」
「ううやばい、考えすぎて幻聴が聞こえる……」
「幻聴? 何を言っているの、カルロ」
「別に何も、強いて言うなら名前を…………………………え?」
 カルロは恐る恐る手を外した。夕焼けに染まり、いつもより鮮やかに見える赤い瞳と、ばっちり目が合う。
「お、お、おおおおお嬢様!?」
 しゃがみこんでいたカルロは、(あくまでカルロにとって)いきなり間近に現れたサラに、動揺のあまり距離を取ろうと立ち上がりかけて――自分のローブを踏み、無様にすっ転んだ。
「あだっ」
「カルロ!」
「……平気です」
 穴があったら入りたい。
「それよりお嬢様、何でここに?」
「最近あなたの帰りが遅いから、気になって探しに来たの」
「……ありがとうございます」
 カルロは強かに打ち付けた背中を庇いながら、起き上がる。すぐ側に腰を下ろしたサラが、心配そうな表情で背中を擦ってくれた。サラの優しさに癒されながら、カルロはどこまで自分の独り言が聞かれていたかに頭を巡らせ、言い訳を必死で準備しようとした。
 その時、ぽろりとカルロの胸元から落ちたものに、サラの目が吸い寄せられる。遅れて、カルロはそれが何かに気付いた。
「これ……」
「あ、それは」
 サラが拾い上げたのは、女物のブローチ。かつてカルロがサラから盗み、また改めて与えられたものだ。
 懐かしさからか、サラの頬が緩む。
「まだ、持っていたのね」
「あ、当たり前ですよ! これは、お嬢様が俺に下さったものですから」
 カルロは、魔術学院の校舎を見上げた。
「魔術の勉強で行き詰った時は、それを見てお嬢様から受けた恩を思い出したんです。絶対立派な魔術師になって、お嬢様に恩返しするんだって」
 カルロの言葉を、サラははにかみながら聞いていた。
「何だか、照れるわ。それに今だって充分、恩返ししてもらっているのに」
「そんな、まだまだですよ!」
 カルロはぶんぶん手を振って、謙遜する。それから、はたと長年の疑問を思い出した。
「そういえば、お嬢様」
「何、カルロ?」
 サラからブローチを受け取ろうと手を出しながら、カルロは何の気なしに聞く。
「あの時、俺が孤児院に入ることを思い付いていたのに、どうしてこのブローチまでくれたんですか?」
 ぴた、とサラの手が止まって、カルロの指は空を掠めた。
「お嬢様?」
 サラは、じっとブローチを見ている。カルロが何度か呼び掛けると、ようやく顔を上げる。その表情は、どこか思い詰めていた。
「お嬢、様?」
「このブローチはお母様の形見だって話、前にしたわよね?」
「はい」
 だからこそカルロはサラにこれを返そうとしたのだが、断られた過去がある。サラの話の筋が読めないながらも、カルロはいつものように従順に、その続きを待った。
「その前は、私のお祖母様のもの、ううん、もっと言えばツィーゲル伯爵家の当主の伴侶に代々受け継がれてきたものだったの」
「そんなに古くて、値打ちのあるものだったんですか!?」
 自分が持っていたものの思わぬ価値に、カルロは驚いた。ほんと、幼い頃の自分が気軽にすっていい代物ではなかったのだ。
「やっぱりそれ、お嬢様が持っていてくださいよ!」
 カルロがそう言って引っ込めようとした手を、サラは掴まえた。
「待って、まだ話は終わってないわ」
 手にブローチを乗せられたカルロは、サラの顔を不安げに見る。今自分の手に乗っている物の価値を考えただけで、寒気が止まらないのをカルロは何とか堪えた。
「このブローチには、もうひとつ言い伝えがあってね。渡された人は、必ず幸せになるの」
「必ず、幸せに?」
 まさに今そうなってほしい人を目の前にして、カルロはおうむ返しに呟く。
「そう願いをこめて、ツィーゲル家の者は、伴侶となる人にこのブローチを渡し、プロポーズするの」
 ――――それって。
 カルロは知らず知らず、息を詰めた。
 緊張した様子のカルロを見て、サラはがらりと雰囲気を変える。悪戯っぽく笑ったサラに、拍子抜けしたカルロは、ぱちぱちと瞬きした。
「まあもちろん、あなたにこれを渡した時、私はそこまで深く考えてなかったけど」
「え?」
 サラは、ブローチを指でなぞる。彼女の目は、ブローチを通してどこか遠くを見ているようだった。
「あなたのように、私と同じくらいの年で日々の食事にも困るような子供が実際いるなんて、知識では知っていても、目にするまで信じられなかったの」
「そ、そりゃそうですよ! お嬢様の立場からしたら、当たり前です」
 サラは、すっと手を放した。カルロの手に、夕日を受けて鈍く輝くブローチが残される。
「だから、ただ単純に、8歳の私はあなたが“幸せになれますように”って願いをこめて、渡したの」
「そ、……そうだったんですか、なるほど!」
 微笑んだサラに、カルロはふっと緊張を解いた。そんな季節でもないのに、背中をどっと汗が伝う。一瞬脳裏に過った余りにも馬鹿な考えを拭い去るために、カルロは何かしゃべらなければと焦った。
「いやあ、ちょっとどきっとしましたよ! その言い伝えのとおりに、お嬢様が俺にブローチを渡したんだったら、お嬢様が俺のこと好きみたいな感じになりますもんねー!」
「好きよ」
「ですよね、あり得ない! ………………………………え?」
 カルロの動きが、かちんと止まる。サラはいつの間にか微笑みを消して、カルロを見ていた。
「……今、何と?」
 自分でも聞いていて苛々するようなとぼけた声が、サラに問い掛ける。
 サラはカルロから視線を外さず、答えた。
「私は、カルロのことが、好き」
 聞き間違える隙は、ない。その真摯な響きを知っていながら、それでもカルロは逃げ道を探した。
「……えっと、その、俺も、お嬢様のことは好きです、もちろん、敬愛っていう意味で」
 カルロの返答に、サラは微笑んだ。
 悲しそうに。
 なぜかその表情は胸に迫って、まるで飲み下しがたいものを飲み込んだときのように、カルロを息苦しくさせる。
「分かってたわ、あなたが恩とか、純粋な敬意から私を慕ってくれていたこと」
 それでも、と吐息を混じらせた声でサラは続ける。
「あなたが私にくれた一言一言に、私の心は浮わついて、跳ねて。あなたが大切に扱ってくれるたびに、嬉しかったし……辛かった。あなたの好意と私のものとは、全くの別物だから」
 まるで金縛りにあったかのように、カルロの体は動かない。サラの手が、カルロの頬にあてられる。今まで何度も目にした赤い瞳が、より近くなっていく。その瞳にカルロの姿がはっきり映った瞬間、閉じられた。
「でも、……それでも、期待してしまったの」
 触れたものは、ひどく柔らかくて、冷たい。それが離れてから、その行為が何だったのか、カルロは遅れて理解した。同時に、錆び付いていた体に、一気に熱が巡る。カルロは衝動のままに、サラの肩を掴んだ。
「お、お嬢様! 俺に今、今……」
「……」
 その行為の名を口に出すと後戻りできないような気がして、カルロは言いあぐねる。サラは黙ったままだった。ただ感情の読めない瞳で、カルロを見ている。その薄紅色の唇が妙に艶めかしく見えて、気付けばカルロは叫んでいた。
「駄目です! こんなこと、俺としては。あなたには、――お嬢様には、もっと相応しい人がいるはずです!」
 カルロの叫びは、思いの外大きく木霊した。サラは全身で、カルロの答えを聞いていたようだった。カルロは固唾を飲んで、彼女の様子を窺う。
 ややあって、サラの唇が開いた。
「カルロ」
「はっはい、何ですかお嬢様?」
「肩、はなして」
「あ……すみません」
 カルロが肩を掴んでいた手を放すと、サラは立ち上がった。振り返らずに、サラは告げる。その声は、掠れていた。
「……ごめんなさい。忘れて」
「お嬢様」
「あなたの……言う通りにするから、今日は」
 くるりとサラが振り向いた。その目から、一滴涙が頬を伝う。カルロは、愕然とそれを見上げた。
「ひとりで、戻らせて」
 泣いているのに、彼女は微笑んだ。泣くのを見るのは、あの時――旦那様が亡くなった時以来だった。あの時の誓いが、カルロの脳裏に甦る。
 カルロはずっと、彼女の幸せを願っていたはずなのに。
「お嬢様……」
 彼女は、――間違っても、幸せそうには見えなかった。
 サラが立ち去った後も、カルロは座り込んでいた。その手からは、いつの間にかブローチが消えていた。

 

 あの日、部屋に戻ったカルロに、サラは何事もなかったかのように接した。
 ただし、確固たる壁を築いて。
「あの、お嬢様」
「何でしょう、カルロ様?」
「そ、その、……これ、この間言っていた軟膏です。手の荒れによく効きますから」
 そのままカルロは渡そうとしたが、サラは受け取ろうとしなかった。
「お嬢様?」
「お気遣いは嬉しいのですが、使用人の私には分不相応なものです。お気持ちだけ、ありがたくいただきます」
 一礼して去っていくサラを見送ったカルロの手から、ぽとりと軟膏の入れ物が落ちる。
「どうして……」
 サラは、あれ以来、厳格に雇い主と使用人という立場を固持し続けた。言葉遣いも振る舞いも、カルロがどんなに懇願しても、一切変えようとしない。そして、カルロがあの時のことについて触れようとしても、さらりと流されてしまう。
 しばらくそんな状態が続き、カルロはすっかりまいっていた。
「カルロカルロカルロ! 前を見なさい!」
「え?」
 レイチェルの悲鳴まじりの指摘にカルロが前を向くと、自分の身長を遥かに越える大きさの火球ができていた。魔術を使うときに手の甲に浮き出る紋様は焦げており、ちりちりと痛む。確か今は魔力制御の授業中で――ああやばい、魔力が暴走してる、とぼうっとした頭でカルロが理解するのと同時に、周りにいたレイチェルを含む数人の生徒が魔術で出した氷を叩き込んだ。火球は、勢いを削がれながらもそれらを全て水蒸気に変え、生徒たちが汗だくで何度か氷魔術を繰り出すことでようやく消失した。
「ああすまない、レイチェ――」
「ちょっとよろしいかしら!」
 よろしいかしらとは聞きつつも問答無用でカルロの襟首を掴んだレイチェルは、教師に「ちょっとこの馬――カルロの手の怪我を診てもらいに保健室に行ってきますわ!」と言い置き、カルロを引っ張っていく。
「おいレイチェル、この程度は別に怪我の内には」
 人気のない廊下に差し掛かった時、唐突にレイチェルはカルロを解放する。カルロが絞められていた首元を押さえていると、レイチェルの眉がつり上がった。
「何ですの最近のあなたは!? さっきみたいな魔力の暴走、調合の失敗による爆発、論文の重要な所の書き間違え! なまじあなたには魔力と今までの実績がある分、その被害範囲が桁違いなのですからこちらは命がいくつあっても足りませんわ!」
「あー……本当に、すまない」
 心当たりのありすぎるカルロは、弱々しく謝罪する。見るからに萎れているカルロに、レイチェルは心底うんざりしつつ聞いた。
「それで? サラ嬢と何かあったのでしょう?」
 ばっと顔を上げたカルロの顔に“何でわかった”とありありと書かれている。レイチェルは冷たく言った。
「あれだけお嬢様お嬢様煩かったあなたが、鬱陶しくため息ばかりついてたら、誰だって分かります」
「俺、そんなにため息ついてたか?」
「魔術で口を凍らせてしまいたい程度には」
 そうか、と項垂れるカルロに、レイチェルははあと息を吐いた。
「で? サラ嬢と何がありましたの? 同期の情けとこれ以上あなたに迷惑をかけられたくないので聞いて差し上げてもよくってよ」
 カルロは少し躊躇ったが、正直に話した。にっちもさっちもいかない状況に、自分ではどうしたらいいか分からなかったからだ。
 聞き終えたレイチェルから、冷気が立ち上る。比喩ではなく、物理的に。
 次の瞬間、無数の氷の槍が、カルロに向かっていった。
「……何だよ、危ないな」
 カルロは瞬時に炎の壁作り、槍を防ぐ。レイチェルは令嬢らしからぬ舌打ちをした。
「レイチェル、いきなり何を」
「見損ないましたわ、カルロ。あなたは、サラ嬢に惨すぎます」
「……え?」
 ああもう、とレイチェルは苛だたしげに髪をかきむしる。人様の事情に口出しするのは無粋もいいとこですけれど、とレイチェルは前置きした。
「カルロ、あなたはあくまで敬愛――自分の恩人、という意味でサラ嬢のことが好き、ですわよね?」
「あ、ああ」
「女性としてではなく?」
 カルロの頭に、印象的な薄紅色が浮かぶ。カルロは、頭をふってその色を追い出した。その一連の動きを、レイチェルの目がつぶさに見ていることに気付かずに。
「……ああ」
 カルロは、何もない手のひらを握る。
「だから、俺は……お嬢様の気持ちには応えられない」
「――そこまではっきり彼女を拒絶する気があるなら、彼女を手放すことですわ」
「手放す?」
 想定外の選択肢に、カルロは愕然とする。そんなカルロを無視して、レイチェルは淡々と続けた。
「彼女はもう、あなたがいなくてもやっていこうとしていますわ。あなたから、……あなたへの想いを諦めて、離れる覚悟をしている。雇い主と使用人という線引きをきっちり引いているのが、良い証拠ですわ」
 がつん、とカルロは頭を殴られたような気がした。お嬢様が、自分から離れようとしている?
 カルロが衝撃に打ちのめされている間も、レイチェルは追撃の手を緩めない。
「それなのにあなたは何ですの? 彼女の気持ちを受け取らないばかりか、中途半端な優しさを与えて、今まで通りの距離感を望んで……はっきり言いますわ、今のあなたの存在は、彼女に“期待”という名の毒を与えて苦しめているだけ」
「俺は」
「あなた前に言ってましたわね、“お嬢様の幸せを見届ける”って。本当にそうしたいのだったら、彼女を今すぐやめさせなさい。何ならわたくし――マルナン公爵家が次期宮廷魔術師のあなたをこちらの陣営に取り込むため、彼女を雇いますわ。あなたのお陰で彼女は、あなたが前言っていた彼女の社交界デビューも伴侶も、マルナン公爵家の名をかけて、最高のものを用意されるでしょう」
「……」
「これで彼女は幸せになる未来が開けました、あなたの恩返しも無事終了、ハッピーエンド間違いなし!」
「……」
 カルロの顔を覗きこんだレイチェルは、眉をしかめた。
「あなた今、自分がどんな顔をしているかご存じ?」
「……どんな顔なんだ?」
「ちっっっともめでたくない顔ですわ」
 そうだろうな、とカルロは一人ごちた。レイチェルは、やや怒気をおさめて肩をすくめる。
「分かったなら、……今のあなたに授業に戻られてもまたこちらが迷惑を被りますし、先生方には言っておきますので、今日は帰りなさいな」

 

「あら、カルロ様」
 カルロが部屋に戻ると、サラは繕い物をしていた。
「どうなされました、どこか具合でも――」
 駆け寄ってきたサラの手を、カルロは優しく握る。少し荒れていて、カルロのものに比べてひどく華奢だった。
「カルロ、様……?」
 一瞬だけ、サラの肩がびくりと震える。その震えも当惑も、自業自得と分かっていても、カルロには辛かった。
 カルロは、口を開いて、――やや躊躇ってから、呼び掛けた。
「――サラ」
 サラの赤い目が、大きく見開かれた。カルロは力なく微笑む。
「俺の言葉を、聞いてもらえますか?」
 サラが反応するまで、しばらく時間があった。こくりと小さく頷いたのを確認して、カルロは話し出す。
「俺は、あなたに拾われてからずっと、あなたに恩返ししようと――そして、あなたに幸せになってほしいと、そう思っていました」
「……」
「あなたにとっての幸せとは何か、俺はあなたに聞きもせず、勝手に考え、勝手に思い込んでいた」
「……」
「その幸せのためなら、あなたの側にいられなくなることも、当然と知った気でいた」
「……」
「俺は笑顔であなたの幸せを祝福できると、馬鹿みたいに思い込んでいたんです」
「……」
「ここ何日かの俺、無様だったでしょう?」
 カルロは繋いでない方の手で、頭をかいた。サラに対する距離感や気遣い。それはカルロにとって、呼吸も同然のことであり、なくてはならないものだった。それが抜け落ちたこの数日、カルロの心身はボロボロだった。仮に彼女がどこかに嫁げば、それは当たり前にしないといけない日々で、そんな――サラのいない場所で、カルロは、生きていけない。
 この執着は、お嬢様離れできない元孤児、という域を越えている。
 サラを手放す、と言われたときの喪失感。
 サラが離れる、と聞いたときの絶望感。
 サラを――この唯一の人を、自分以外の誰かに譲る気は、もう更々ない。
「俺は、いつもあなたをお嬢様と呼んでいたけれど、――とっくの昔に、お嬢様じゃなくなってた。俺の中で、あなたはお嬢様以上の存在だったんです」
 ぽた、と繋いだ手に滴が落ちる。
「サラ、俺は、――あなたを愛しています」
 ぎゅ、と握られたサラの手に、力がこもる。
「カ、ルロ」
「はい」
「こ、今度は、……信じても、良いの?」
「俺こそまだ、間に合いますか?」
「何年、片想いしたと、思ってるの?」
 サラは、カルロの胸にすがり、声を上げて泣いた。カルロは、その細い体を優しく抱きしめる。
「カルロの、ばか!」
「すみません」
「私に、……相応しい人って、誰よ!」
「すみません、あなたご自身が選んだ人が、良いかと思ってて」
「そんなの、あなたしかいないじゃない!」
「そ……そう、ですか?」
「そうよ!」
 サラの言葉に、カルロの頬が熱くなる。カルロは視線を泳がせた。何と言うか、死ぬほど嬉しいのに、駆け出したいほど恥ずかしい。でも、この自分の腕の中で泣いてくれる愛しい人がいなくなることに比べれば、些細な問題だった。
 しばらくしてサラは落ち着いたのか、カルロの胸から顔を上げる。
「カルロ」
「はい、何でしょうおじょ――」
 反射で呼び慣れた呼称を紡いだカルロの唇に、サラのものが重なる。しかも一度ではなく、何度も。カルロの首元の衣服を引いて手繰り寄せながら、サラは口付けた。
「――へぁっ!?」
 一通り終わり、更に一拍遅れて飛び上がったカルロに、サラは涙を拭いながら口を尖らせた。
「もう、お嬢様じゃなくって、サラでしょう?」
「え、あ、は、そ、そうですけどっ、……け、けど急にく、くくく口付けとかはっ」
 カルロの反応に、サラの眉根が下がる。
「……もしかして、嫌だった?」
「え! そ、そんなことは」
 慌てて否定するカルロに、ますますサラは悲しそうな顔をする。
「ひょっとして、私のことを愛してると言ったのも、私に同情してとか――」
「それは違います!ちゃんと好きです!大好きで」
 す、と言い切る前に、またもやカルロの唇は塞がれた。
「じゃあ、問題ないわね?」
 サラはにっこり笑う。たらりと、カルロのこめかみを冷や汗が伝った。嫌ではない、嫌ではないのだけれど、まだ色々自覚したばかりで、諸々が追い付かない。
「ええっと……うっ」
 後ずさったカルロの背中が、勢い良く壁にあたる。赤い顔のまま絶望するカルロの首に、細い腕が絡まった。密着する体の柔らかさに、カルロは悲鳴をあげかける。
「おじょ、じゃないサラ、待っ」
 どうしたことだろう。
 カルロにとっては、いちばん愛しい声のはずなのに。
「もう、充分待ったわ」
 それは、悪魔の囁きに聞こえた。

 

 ――壁伝いにへたりこんだカルロの上から、サラはどく。お嬢様、お嬢様とよく慣れた大型犬のように自分を呼んでいた彼は、ぜえぜえと息をあらげ、頬は見たことないくらい紅潮している。汗で前髪が額に張り付き、切れ長の瞳がとろんととけているのが、どうにも色っぽかった。サラとしてはまだ足りないけれど、これ以上いじめるのは流石に気が咎める。
「さて、そろそろ晩御飯の仕度をするわね」
 そう言って立ち上がろうとしたサラの腕を、カルロが掴んだ。
「……カルロ?」
 カルロはサラの腕をとっているのとは反対の手で、髪をかき上げた。よく見えるようになった群青色の目はとけているというか、――どう見ても据わっている。
「……あっ」
 腕を引かれ、サラはカルロの腕の中に受け止められる。サラが顔を上げる前に、その耳元でカルロが低く呟いた。
「サラが、悪いんですよ?」
 その日、サラははじめてカルロを“ちょっぴり”怖く思った。

 

 
「それでは、試着して来ますね」
「はい」
 あれから数ヵ月経って、カルロはサラを連れマルナン公爵家贔屓の店に来ていた。目的は、宮廷魔術師となるカルロの伴侶として舞踏会に出るサラのドレスを仕立てるためだ。店内には、店の口利きをしてくれたレイチェルの姿もある。
「お前には色々世話になったな」
 着替えるために店の奥へ行ったサラを見送ってから、カルロが呟く。レイチェルはふんと鼻を鳴らした。
「本当、迷惑ばかりで得がひとつもありませんでしたわ」
「あー、悪い。何らかの形で返そうとは思う、たぶん」
「あなた……ほんっっっとうに、サラ嬢とその他では対応が天と地ほども違いますわね」
「そうか?」
「もう指摘するのも馬鹿らしいですわ…………まあ、駄賃程度ならもらう予定ですので、お気になさらず」
「は? 駄賃?」
 何だよそれ、とカルロが聞き返す前に、サラが戻ってくる。
 美しく着飾ったサラの姿に、カルロは目を奪われた。花に誘われる蝶のように、カルロはサラに側に寄る。
「サラ、……綺麗です」
 カルロの賛辞に、サラははにかんだ。
「ありがとう、カルロ」
「でも、本当にこの色で良いのですか? もっと桃色とか、明るい色も似合うのでは?」
 サラが試着しているのは、深い色合いの群青色のドレスだった。サラは選り好みする間もなく、ほぼ即決でこの色を選んだ。カルロの疑問に答える前に、サラはすっとカルロの頬に手をあてる。カルロは大人しくされるがまま、不思議そうに瞳を瞬かせた。サラは、そんなカルロを愛しく思う。
「この色が良いのよ。あなたの目の色と同じだから、安心するの」
「そ、……そう、ですか」
 ぷしゅう、と音がしそうなほど真っ赤になったカルロを見て、サラだけではなく周りの店員もくすくすと笑う。「まあかわいらしい反応」「初心でいらっしゃいますのね」とからかう店員たちの声を他所に、サラは少し遠い目をしていた。
 それらの様子を眺めていたレイチェルの側に、一人の店員が寄ってくる。
「レイチェル様、いつもお引き立ていただき、ありがとうございます」
「いえ、あなたたちの仕事はそれだけの価値がありますから」
 店員は深々と礼をした。そして、失礼とレイチェルに耳打ちする。
「……あのお二人があの“恋物語”の元になったというお二人でしょうか?」
 レイチェルの赤い口元が、にんまりと弧を描く。
「そうですわ」
「やはり!」
 浮き足立つ店員に、レイチェルはやんわりと釘を刺す。
「あくまで、元は元でしてよ?」
「承知しております……ですが、わたくし一読者として、誠に感激です! 元のお二人もあんなに素敵なんて、ますますファンになりそう!」
「あらあら、そう言っていただいて、わたくしも苦労して編纂した甲斐がありますわ」
 レイチェルと店員は密やかに笑い合う。
「ところで、カルロ様がなさっているブローチは、例の?」
 意味ありげな店員の眼差しに、レイチェルも同じものを返す。
「ええ、例の令嬢から魔術師へ渡されたものでしてよ?」
「まあ、それでは最終巻で秘密が明かされるという……女物なのに、よく似合っていらっしゃるから、もしやと思いましたのよ!」
「まあ、続きは最終巻をお待ちになってくださいね」
 レイチェルは、ぱちんと片目を閉じた。
「とびっきりのハッピーエンドなのは、お二人を見れば丸分かりでしょうけど?」

 

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