メイドさんに心をえぐられたって、嬉しくなんかないんだからねっ
朝の気配を感じて、自然と目が覚める。
寝ぼけまなこを軽くこすって、部屋を見回して…
「ああ、そういえば引っ越したんだったなぁ…」
あまりにも実家の自室とは違う、洋風全開の室内にため息が漏れる。和室に変えてくれないか、交渉してみようか…と思ったけど、このお屋敷にそんなものがあるのかも疑わしい。
昨夜は夕飯をいただいたあと、仙石さんに案内されて風呂に入ったんだけど。
これがまた、思い出しただけでも途方に暮れたくなるような、もの凄まじく広い風呂なのだ。俺がいまいるこの部屋も十二畳くらいあるんだけど、それよりさらに広くて、風呂というよりは、大浴場という名称のほうがふさわしいようなところだ。
などと思い出しつつ、自室・風呂・トイレ・外の四ケ所は出入り口がわかるのを幸いと、俺は廊下に出る。
廊下は無駄なまでに広く、真紅の絨毯が敷かれ、等間隔にある窓にかかるカーテンは淡いクリーム色、さらに窓の間にはアンティークなランプ。天井にランプがないあたりは、何かしらのこだわりなんだろうか。
このお屋敷は外装だけでなく、内装も「豪邸」とか「お城」とかいう語句から想像される雰囲気を一ミリも逸脱していない。そんなお屋敷を、俺は寝間着兼部屋着の作務衣姿で歩いているんだけど。
今日はすばらしいまでの晴天で、四月にしては少しばかり暖かい。そういえば東京は、ヒートアイランド現象っていうのがあるんだっけ。ということは、夏場は寝苦しかったりするんだろうか?いやでも、やたら広大な庭に草木が繁茂するこのお屋敷なら、そうでもないのかな?
などと数カ月先の心配をしつつ、手にしていた木刀を地面に置いて、筋を伸ばしたりの軽い準備運動。
これから何をするのかというと、日課の素振りだ。悲しきかな、小さい頃は嫌だった覚えがあるんだけど、雨の日も雪の日も台風の日も、一家揃って毎日やっていたため、いまでは朝に身体を動かさないと調子が悪くなるくらいの、立派な日課になっているのだ。
まさかその日課を、気を抜いた瞬間、途方に暮れたまま一日を過ごしてしまいそうになる、広大な庭をもつお屋敷の中庭でやるとは思いもしなかったが。
「さーて、今日も一丁やるかー」
懐からバンダナを取り出して、気合を入れるために頭に巻きつけて。木刀を手にして呼吸をひとつ置く。
「―――――っ」
いままさに木刀を振り上げ、というところで。
「やあ、爽やかな朝だね!一緒にひとっ走りどうだい?」
気味が悪いくらい爽やかな挨拶を受けて振り向くと、背は俺より若干高いジャージ姿のマッチョマンがそこにいた。ナチュラルにウェーブした髪は後ろで乱雑に結わえているが、むしろそれが似合う精悍な顔立ちの男。言うなれば古代ギリシア彫刻のような、そんな雰囲気だ。年は俺より少し上だろう。
「あ、どうもお早うございます。ここの住人の方ですか?」
ひとまず挨拶はしておかないとな、という意味から、きっちりと頭を下げた。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は富永陽一郎、お察しのとおり千石荘の住人さ!」
キラリーン!と白い歯が朝日を受けて輝く。ああ、なんかこの人苦手だ。俺も体育会系だけど、何か根本の部分が違う。
「自分は池田亘と言います。昨日越して来たばかりで何もわか「あっはっはっ!そんな堅苦しくしないで大丈夫だよ、ここの人はみんな気さくだからね!」
最後まで言わせろよ。
「じゃあ失礼して、普段のノリでいかせてもらいます。お誘いは嬉しいんだけど、日課の素振りがあるんで」
そう言って俺が手にした木刀を振ってみせると、富永さんはくっきり二重の目を瞬かせ、
「なるほど、日課は大事だからね!じゃあ僕も日課のジョギングに出るとしよう。また朝食の時に!」
しゅたっ!と手をあげ、富永さんは爽やかな笑顔を残し、マッチョなわりには軽快な足取りで走り去っていった。なんというか、マイペースな人だなぁ。
その後姿が門扉へと溶け込むくらいまで見送ってから、フウと一息ついて、今度こそと木刀を――――
「おー、もう復活したのか?普通のやつなら病院直行なんだけどなぁ」
またしても後ろからお声がかかった。
声音と調子と内容から、昨日の金髪の子…たしか仙石さんは美羽と言っていたな。
ガックリと姿勢を崩しながらも、後ろを振り返れば、予想はどんぴしゃり。ちっちゃいけどやたらと存在感のある美羽がそこにいた。
「昨日は悪かったなあ、てっきり不審者だと思っちゃってさ。まあ、過去は水に流して、同じアパートに住む人同士ってことで、よろしくな!」
そう言って、美羽がにかっと爽やかに手を差し出してくる。直情直行なだけで、案外いい子なのかもなぁ。
「いやいや、リアルに死ぬかと思ったよ。まさか女の子にあんな一撃をもらうとは思わなかった」
俺がそう言って、差し出された手を握り返したら、美羽の顔が見る間に熟れたトマトのように真っ赤になり、ただでさえつり上がり気味の目がギリギリと持ち上がる。しまった、逆鱗にでも触れたか?俺、また死ぬような一撃をもらうんだろうか。というか、今度こそ死にそうな気がする。
「あ、知ってるのかも知れないけど、俺、池田亘ね」
美羽が俺の後方百メートルほどを見ているので、ふりふりと握った手を振って、何気なく手を離して一気に離だ「だだだだ黙れこの変態ーーーーーッ!」さよならこの世。
腰の入ったアッパーストレートが俺の顎を捉え、俺が横方向に回転しつつ空を舞う。ああ、世界がスローモーション。
俺がキリモミしながら、頭から地面と感動の再会を果たすのを見届けることもなく、美羽は踵を返し、肩をいからせながら屋敷へと戻っていった。
しかし、何故に変態?いや、ひょっとしたら変体と言っていたのかも知れない。実に奥深き日本語。
ガクブル震える身体に鞭打って、俺はなんとか起き上がった。意外とダメージが少なかったのか、それとも一夜にして超レベルアップして、戦車砲弾にも耐えられる身体になってしまったのだろうか。
などと、何処ぞのいつも美味しいところだけを持っていく尻尾の生えた宇宙人になったつもりでいると、またしても人の気配。
「あ、あのあの、あの…だ、大丈夫ですか?いま美羽ちゃんに…打たれてましたけど…」
おずおずレベル五くらいで声をかけてきたのは、白いブラウスに黒いロングスカート姿の、艶やかな黒髪が印象的なメガネっ子。手足がすらりとしていて、背丈は美羽よりは高そうだ。メガネ補正を抜きにしても、涼やかで知的な顔立ちで、年は同じか少し下か…いやいや、ここの人は管理人の千石さんからして童顔だし、ひょっとしたら年上…?もうわからん。
などと目の前に現れた少女について考察していると、ひんやりとした手が、俺の額にあてられる。
殴られたのは顎なんだけどね。まあ、触れられると痛いからいいけど。
「まあなんとか大「ご、ごごごめんなさい…わたしなんかが手当てしたら、治るものも治らないですよね…?あ、あのあのあの、ししし失礼しました…」
ここの住人はこんなんばっかりかい。
メガネっ子は早口にまくしたて、顔を真っ赤にしてそそくさと逃げていく。俺はその姿を呆然と見送るしかない。正直、緩急自在すぎて変化について行けません。
さて。メガネっ子も去ったし、これでようやく日課がこなせる。
さて問題です。食事を取る部屋は何処でしょう。
答え。分かりません。
まあ、建物の雰囲気からして、おそらく食堂があるんだろうけど、まずはそれが何処なのかを探すところから、今日という日の朝食は始まるらしい。
玄関をくぐると、何処のホテルかと途方に暮れたくなる、だだっ広い吹き抜けのエントランスになっている。お約束のように真紅の絨毯が敷かれ、正面にある二階へとあがる階段の両脇には、古代ギリシャっぽい彫像まである。二階があるということは、下手すると住人はダース単位なのかと不安になったのは、新たに出会ったここの住人らしき二人のせいかと訝しんでみる。それはさておき、きっと食堂があるならエントランスからほど近いはずだ。なんとなく。真ん中っぽいし。
では右か左か、左手の法則とかゲームのときに使ってたなあ、と顎に手をあてつつ思い出して、右側へと足を向けた。
右へと一歩進んだところで、視界に物凄い物体を発見し、思わず足が止まった。
それはこちらに気づいて一礼、背筋をぴしっと伸ばした綺麗な姿勢で、遅すぎず速すぎず、優雅な歩調でこちらに向かってくる。
歩くたびにスカートとエプロン?の裾にあるフリルが、これでもかと揺れる。
濃紺を基調として、エプロンやブラウスは白、胸元のリボンが目の覚めるような真紅で。ええい、もうこれ以上描写するのも嫌になる。
メイドだ。メイドさん。
高校のとき、学園祭でメイド喫茶が乱立していたけど、そんなものとは雰囲気からして明らかに違う。正真正銘のメイドさんだ。そうに違いない。
そのメイドさんが間近までやってくる。赤みがかった茶色の髪は両サイドで結わえられ、目つきは少しばかり悪く、じっとりと見つめるようで、桜色の唇はキュッと引き結ばれている。冷たそうでもあり、とっつき難そうなな印象だ。しかし美醜で言えば確実に美の方に分類されるだろう。背は他のちびっ子に比べると少しばかり高く、百六十センチ台だろうか。年は普通に見れば、俺よりもいくらか年上に見える。
中身はともかく、美人揃いのお屋敷だなぁ。いや、さっきのやたらと勢いのいい富永って人も男前だったし、ここは顔審査でもあるんだろうか。そんなのされた覚えはないけど。
メイドさんが真顔でぺこり、と一礼する。
「おはようございます。朝食の時間になりますので、食堂までご案内いたしますこの豚野郎」
…………………………あれ?何か幻聴が?
「どうかなさりやがりましたか?」
顔は真顔のまま、メイドさんはともすれば俺の方向数メートルを見るかのような目つきで、抑揚のない言葉を継いだ。耳、耳にゴミがつまっているに違いない。
「それとも、まだ中身の入ってない頭が起きてないのでしょうか?ご所望であれば、直接的な打撃で、そのうすらボケた頭を起こして差し上げますが?」
そう言ってメイドさんは仕草だけは可愛らしく、じっとりと俺を見つめたまま首を傾げる。俺も一緒に首を傾げる。何だろう、何か心が破壊されていく気がするんだ、俺。
「あ、えーと…案内して…ください?」
「かしこまりました。はやくそう言ってくださいこのゴミクズ」
父さん、母さん、貴方たちの息子が、メイドさんにゴミクズ呼ばわりされてます。
目つきの悪さだけを除けば、とても可愛らしいメイドさんの案内を受けつつ、その口から発せられる、著しく強烈な成分が含まれる言語に心をゴリゴリと削られながらも、ようやく食堂へとたどりつく。といっても百メートルも歩いていないけど。きっとこのお屋敷では、こういう表現でいいはずだ。
意匠に凝りすぎて肩が凝りそうな扉を開け放つと、中はどこのホールかと突っ込みたくなる広さ――を想像していたけど、意外にもこじんまりと、せいぜい二十畳くらいの広さだった。十分すぎるくらいの広さなんだけども。
横長の部屋に平行するようにして、長方形のテーブルが二脚、椅子の数は一脚のテーブルにつき五脚×二辺で十脚、それが二つで二十脚。そう数えると、改めて部屋の広さが伺える。食堂の装飾は控えめで、壁に絵画がかかっているでもなく、鹿の剥製が壁にすえつけられているようなこともない。
食堂にはすでに美羽、富永さん、メガネっ子の三人がいて、三人の視線がこちらへと注がれる。
「あ、どーも」
などと言って、三人に対して会釈をしていると、入り口の右手が厨房につながっているようで、開け放たれた扉から小さい子がパタパタと出てきた。
「あ、おはようございますっ!お部屋に行ったらいなかったので、心配してたんですよっ!?」
管理人こと千石さんが、トレイに湯飲みと急須を乗せたまま、ぴこーん!とでも擬音をつけたくなるような勢いで振り返り、出迎えてくれた。
「おはようございます。ちょっと日課の運動をやってて、部屋を空けてましたっていうか勝手に入ったのかい!」
これ重要。とても重要ですよ管理人さん。
「うよ?朝ごはんの時間、教え忘れてたからですよっ」
「なるほど、確かに何も聞かされていなかったけど…あれ、ここって朝食出るの?今さらだけど」
「三食ご用意しますよっ!」
にぱっ!と改心の笑顔で、千石さんが答える。三食付き…風呂が共同ってのくらいしか叔父さん言ってなかったよ……それであの家賃とは、儲ける気とかないんだろうなあ、何せ千石さんだし。
「ささ、とにかくっ!池田さん、お席にどうぞ!」
千石さんが空いている席を指し示し、配膳の続きに入るので、俺は言われるままに席につく。正面にメガネっ子、左側に富永さん、左の斜向かいに美羽という並びで、俺の右側、両辺もうひとつずつ配膳されているところを見ると、千石さんとメイドさんの席はここだろう。
…メイドさんだけど、一緒に食事するのか?何かイメージとは少し違う気がするけど、それはそれで、千石さんらしいといえばそうなるのか。
「さー、今日もモリモリ食べて、元気に行きましょー!」
わーいと形容するのがぴったりな動作で両手をあげつつ、配膳を終えた千石さんが俺の横に、千石さんの正面にメイドさんが座って、これで全員揃ったようだ。並んだ料理はご飯に鯵のひらき、ヒジキの煮物、味噌汁に漬物、佃煮…これでもかと和風だ。ひょっとして、昨夜の俺の言ったことを受けての献立なのかな?なんて俺の疑問は他所に、千石さんが人差し指をたてて一呼吸、大きな瞳をキラキラさせて間を置く。
「と、その前に、皆さんにご紹介しますねっ!」千石さんはそこで両手をぱっと俺に向けて開いて、「うちの新しい住人さんの、池田亘さんですっ!なんと作家さんなんですよー!凄いですよねっ!」
ぱちぱちと拍手が起こる。千石さん、富永さんは盛大に、メイドさんとメガネっ子は控え目、美羽は全力でスルーといった具合に。
拍手をしながら、千石さんが物凄く期待に満ち満ちて、キラキラしすぎて何かがあふれ出そうな目で俺を見る。そんな目をされたら、逆に困ります。
「ご紹介に預かりました、池田です。えー…色々と面食らってまして、慣れるまではご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」って学生のときのバイト初日の挨拶かよ。などと思いつつ、立ち上がっての挨拶を済ませると、バチーンと乾いた音を立てて、横から凄まじいビンタが肩めがけて飛んできた。
「あっはっはっ!言ったじゃないか、そんな堅苦しくしなくていいんだよ!改めて、僕はは富永陽一郎、駅前のジムでインストラクターをやってるんだ!」
富永さんが白すぎる歯をギラギラと光らせながら、ビシバシと肩を叩きまくり、もう一方の手で俺の手を無理矢理とって、ぶんぶんと振り回す。本気で痛くて涙が出てきそうなんですが、誰か止めてくれやしませんか。
「ほら、美羽さん、次どうぞっ」
「アァン?オレもすんのか?かっかりぃなぁ…」
にこやかに勧める千石さんに、美羽はぼりぼりと腹をかいて、さも面倒くさそうに嫌そうな顔をする。お前はどこぞのオッサンか。
「自己紹介、してくれないんですか…?みんな仲良くして欲しいな……」
そんな美羽の態度に、千石さんははやくも半泣き。横からつついたら、いまにも決壊そうだ。
「あーっ!わかったから泣くな!」と美羽は慌てて席を立ち、ズビシと俺を指差す。「おい、オレは真田クロスハート美羽だ!クロスハートってのは親父の方の家族名で、こっちじゃだいたい真田美羽で通してる。よく覚えとけ!」
クロスハートて。めっちゃ強そうなんですけど。あいや、実際に人体の限界を凌駕するような強さか。
美羽がどっかと椅子に座りなおすと、その隣、俺の正面のメガネっ子が、他の面々の顔をキョロキョロと伺いながら、おずおずと立ち上がる。
「あ、ああああのあの、その、えっと…」
どもり、口ごもり、メガネっ子がもじもじ。
「魔魅ちゃんファイトっ!」
「黒田魔魅ですっ!ここここっこ、高校生です!」
千石さんの声援に弾かれるように、黒田さんは猛スピードでお辞儀をして、光の速さで座り顔を真っ赤にして俯きモジモジとコンボを炸裂させる。華麗なその流れに、思わず頭をぽりりとひとつ掻いてみたり。
「ナイスファイトっ!」
千石さんがぐっとサムズアップ。なんだこの妙に構築された流れは。
引きつる頬にじーっと見つめる気配を感じて、そちらに視線を向けると、メイドさんがじっとりっと見つめていた。そして、視線が合ったのを合図に口を開く。
「次は私ですか。私は東雲真希と申します。この千石荘のメイド長をさせていただいておりますので、お困りの際には、少しは気を遣って熟慮したうえ、必要であれば仰ればよろしいんじゃないでしょうかこの薄らハゲ」
「ひどっ!ていうかハゲてないし!」
東雲さんの貫くような視線と相まって、思わず目から汗と思しき汁が出てきそうになる。
「うよ?真希さんの毒舌が出るなんて、珍しいですねっ」
俺が目を瞬かせて汁を出すまいとしていると、千石さんはぱぁぁぁぁと花があたりに咲きそうな勢いで笑みを浮かべる。
「何でそこで笑顔になるんだ、千石さんは」と訝しむ俺に、
「たぶん気に入られたんじゃないでしょうかっ!?」
全速力で耳を疑う言葉が放られた。
「そ、そうなの…?」
視線を東雲さんにうつして、まじまじと見つめる。
「じっとりと見つめられても不愉快なので、即時に視線を外していただけませんでしょうか」
目をすがめてそんなことを言われた。敬語なのに明らかな敵意を感じる。こ、こんなの初めてだ。どうやったら泣かずに耐えられるのか教えてください。
俺ががっくりとうなだれると、「にゃーん」と足元で可愛らしい声が。視線を少しうろつかせると、黒猫が俺の足元にちょこんと行儀よく座っていた。
「あ、そそそその子は、ルナって言います。あのあの、えっと…」
俺がひょいと黒猫を持ち上げると、黒田さんが顔を真っ赤にしながら説明してくれるが、途中で言葉を詰まらせる。これは助け舟を出してあげるべきだろう。
「黒田さんの飼い猫?」
黒猫の愛らしさも手伝って、にっこりと微笑みながら、答えの分かりきった質問を投げかけてみたら、
「い、いいいいえ!つ、使い魔です…」
とんでもない方向から返球された。ボークだ、ボーク。バッター塁に出ろよチクショウ。あと手を噛むな黒猫、俺の手はメザシじゃない。
「そ、そっか。つまり使い魔を飼う黒田さんは魔法使いなんだ」
「あの、その、えっと…そ、そうなんですけど、納得しちゃうんですか?その、ふつうは否定すると思うんですけど…」
「ああ、うん。世間は広いからね」ちらりと美羽に目をやる。うん、アスファルトを人力でえぐる女の子がいるくらいだ。魔法があっても不思議じゃないよね、むしろ前者の方が信じたくない気分だ。「何事にも柔軟な姿勢で挑むことにしてるんだ。職業的に」いま思いついたけど。
「はーい!自己紹介も済んだところで、朝ごはんにしましょーっ!」
自分自身が一番待ちきれないのか、千石さんが張り切って挙手。それをそのまま胸の前で合わせて、「いただきまっす!」と、妙に歯切れのいいセリフでようやく朝食が始まった。
無駄ににぎやかな朝食が終わって、各自散会。片付けを手伝おうと思ったけど、東雲さんに「小さな気遣い大いに迷惑。これは私の職分ですので邪魔をしないでくださいこの野郎」とバッサリ斬り捨てられた。メイドがこの野郎て。全日本メイド協会に訴えてやりたい。
午前中は追っ付けて届いた組み立て家具の設置やら荷解きに費やして、午後も荷解き荷解き荷解き。合間あいまに千石さんが手伝ってくれたけど、本棚を設置して本をダンボールから出して、そしてそれをどう入れるか思案しながら…なんて調子なので、いまひとつ捗らない。まあ、それも楽しいからよし。
夕方に「夕飯の準備してきますねっ!」と千石さんが元気良く部屋を出たのが一時間前、時刻は十八時を少しまわったところ。そろそろ夕飯だろうと、作業の手を止めて立ち上がったそのとき。
バラバラとヘリコプターのローター音が聞こえて、大方テレビ局の撮影ヘリコプターだろうと思ったら、どんどんそのヘリコプターのローター音が大きくなる。音量の上がり方からして、このあたりに降下してきているようだ。
いや、車で来たときの記憶には、このあたりにヘリコプターが着陸できるようなところはなかったはずだ。それこそ中庭がやたらと広かったりするこの千石荘以外には。
などと思っている間にも、バラバラという音はもはや爆音と言えるレベルに達して、窓硝子もガタガタと揺れはじめる。
まさか、ここに着陸するのか?
そう思って窓を開いて身を乗り出し、中庭へと視線を走らせると、すでに暗くなった空を切り裂いて、一条のサーチライトが中庭のど真ん中を照らしていた。はは、なんだか映画みたいですね。現実感がありませんよダニエルさん。
考えるよりも先に身体が動いて、俺は部屋を出て廊下を走り、玄関を出て爆音と爆風に荒れる漆黒の空を見上げた。サーチライトを照射しているヘリコプターは、十数メートルほど上で滞空していた。
「うよ?池田さんどうしたんですかー!?」
絶叫するような声に呼ばれて視線を落とすと、玄関を出て少しさきのところに、千石さんがエプロン姿でいた。うん、とりあえずスカートは押えた方がいいぞ。白地にピンクの水玉が眩しすぎるから。
「いや、どうも何もヘリコプターが気になるでしょ、ふつー!」
ヘリコプターの発する爆音に負けないように声を張り上げながら、ともすれば足をすくわれそうな爆風の中、俺は千石さんの傍らまで歩いていった。でないと白地にピン(以下省略)。
「あはっ!たしかにそーかも知れませんねっ!」
ふにゃー、と千石さんが柔らかく笑った。分かってはいるけど、なんともマイペースな子だなぁ。
などと俺が苦笑していると、ヘリコプターから一本のロープが投げ出され、何かがロープを伝って降りてくる。
まさに映画さながら、大荷物を背負った誰かが、華麗に地面に降り立った。
サーチライトに照らされたその人は細身で、しかしそこに弱さに繋がる印象はなく、豹のような、しなやかな力強さが見てとれる。軍用帽子のツバで隠れた顔は見えず、しかし後頭部に生えた小さな尻尾と、迷彩柄のチョッキの胸部が豊かに盛り上がっているのとで、その人が女性であることが嫌でもわかる。パンツはゆったりとした迷彩仕様で、靴は恐らく軍靴であろうロングブーツ。つまるところ、何処をどう見ても軍人にしか見えない。
何でこんなところに軍人、いや自衛隊か?とにかく、そんな人がヘリコプターを繰り出してやってくるんだ?などと俺が疑問に思っていると、女性がヘリコプターを見上げ、手を二度あげると、ヘリコプターはロープを巻き上げながら上昇していった。
急速に遠のいていく爆音と爆風とを背に、女性はこちらに視線を向けると、バシッと敬礼、爆音で耳鳴りのする耳にもはっきりと聞こえる、大音声を張り上げた。
「種子島玉代、ただいま帰還いたしました!」
はて、どう突っ込むべきか、と一瞬思考が停止している隙に、横の千石さんが満面の笑みを返した。
「はいっ!おかえりなさい!」
うん、わけわかんないや。